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滞在権訴訟 2/7

「ここは旧東地区? いやに治安が良くないな」と僕は隣を歩くマキに言う。
 暗がり、寝静まったみたいに人通りの無い幅の広い道は、まだ六時にもなっていないはずなのに真夜中のようだ。周囲の建物は荒廃しており、コンクリート造りであるせいかひどく重たげな影が四方に大きく落ちている。空が分厚い雲に覆われて真っ黒になっているから、十メートルより先はおぼつかない。通りの両脇は薄汚れた鉄条網が敷かれていて、幾箇所も乱雑に切断されているため、ひどく不穏当な雰囲気だ。
「すごい。壁見て」とマキが指を差す先は、鉄条網が終わったところで、古い煉瓦造りの連続住宅が立ち並んでいる。深い闇でうっすらとしているが、壁の至る所にケバケバしい文字やイラストが埋め尽くされている。
「あれは断じてアートじゃない」と僕はぼやく。「有り体に言ってしまえば、文化的排泄物だ」
 マキはなにかを深く考えるみたいにぼんやり辺りを眺める。
 マキと僕は、スマートフォンを片手に道程を把握するシンジが先導する形で、オスト駅へ向かって横並びに歩いている。ミュンヘンに居たときも同じだった。三人で街を歩く時にはいつも、こうやって隊列を組む。そして大抵、話が弾まない。この無言の間に、深い暗闇の中へ、僕は考えを張り巡らし、唐突にマキと一緒に代々木公園を歩いたことを思い出す。
 それは三月も終わりの、しかし外套を手放すには少々早すぎる、とある日曜日のことだった。その日、大学の講義はもちろん、アルバイトもなく、僕の一日はすっぽりと空白だった。マキもそうだった。プラットフォームで電車を待つ人たちも、駅前を行き交う人たちも、同じように暇を持て余しているように見えた。まるで世界中が突如一斉に休業を申し渡されたみたいだった。追い立てられるかのように忙しなく移動を続ける日常は悪い夢だった。そう思えるほどに、街は緩やかな雰囲気に包まれていた。そんな昼下がりだった。マキは普段通りに、半時間ほど遅れてやってきた。僕が駅から少し歩いたところにある広いデッキテラスが売りのカフェを提案すると、そこに向かうことになった。ぼくらはコーヒーとロストビーフのサンドウィッチを揃って注文した。めぼしい変化のない近況をお互い伝え合いながら食事を終えた。すると街中に満ちているのと同じように緩やかな、けれどひどく満ち足りた趣のある沈黙が幅をきかせ始めた。僕は唐突に思い立って、その前日に作り上げた楽曲(『風の唄』とかそういう題名で、歌詞には商業化された文学的要素が至る所に散りばめられていた)の音源を聞いてもらうことにした——その頃僕はまだiPodを持っていて、意味もなく自分の曲を更新し続けていた。マキはいつも通り、好意的な感想を二三述べ、さらに一言、感覚的でほわっとしてはいるが、どこか心に突き刺さるような言葉を加えた。「この曲で伝えたいことってなに?」と——マキはいつもそういう種類の、一人になったあとで何度も裏返して考えてしまうようなことを出しぬけに口にする。僕は答えをはぐらかして、カフェを出ようと提案した。僕らは街を歩き始めたものの、行き先を決め手はいなかった。ぼくらの散策は大抵いつもそんな風に目的も意味もよくわからないものだった。でもその時、僕はマキに話しておきたいことがあった。大学を辞めようかと考えていた。けれどどうも言いあぐねた。とりたてて語ることのできる理由がなかったのだ。『芝生の生え方が気に入らないのさ』とでもうそぶいでしまえばいいという考えがちらりとよぎったが、残念ながらぼくらが通っている大学には芝のある広場なんてものは存在しなかったし、比較的に深刻な内容だ、マキがどれほど気の置ける存在で、僕のことを本気では忌避せずに手間の掛かる子どもとして優しく扱ってくれているとしても、そんな風に茶化してしまってはならない、当時の僕にもそれくらいは分かった。大学を辞めるという決断は、その先月に亡くなった父への恩義をないがしろにする結果となり、真面目に人生と向き合った末に勉学に励むマキのような人たちを全否定する結果にもなる。渋谷門を過ぎて代々木公園に入ったところで僕は話を切り出した。どこかで耳にした理屈を手当たり次第かき集め、しどろもどろになりながら出来るだけ順序立てて、なぜ大学を辞めるという結論に至ったのかを説明した(なにを言ったか覚えていないことを鑑みれば、破綻した物言いだったに違いない。人は都合の悪い記憶を消し、ときに書き換える)。僕は話を終えた。マキはずっと黙ったままだった。なにも言葉を交わさぬまま、ぼくらは代々木公園をひらすら歩き続けた。やおらマキが立ち止まった。彼女はぼくらを囲む、何百もの木々や花々、そして陽気に戯れる人たちを興味深そうに、どこか羨むような表情で眺め回し出した。マキなりに僕への返答を探っているのだろう、僕はそう考えた。だから手近な木の幹にもたれて、糸を紡ぐみたいに様々に視線を巡らすマキをぼんやり見つめた。優しい風が頬を揺らしていた。微かな陽射しが茂った葉を越え差し込んできていて、愛する誰かに触れたみたいなぬくもりが体中に感じられた。僕を取り囲む世界は微睡んでいた。僕は幸福だった。気づけば今が永遠に続いて欲しいと心の底から願っていた。そばにマキがいて、こんな風に満ち足りた気分のまま生きてゆけたら、どんなにか素晴らしいだろう、と。どれくらいかが経った。マキが出しぬけに帰ろうと言った。ぼくらは来た道を戻っていく。陽は弱まっていた。吹き出した風が肌を冷たく刺している。ぼくらは相変わらず言葉を交わさないままだった。渋谷門が現れ、ふとマキは空を仰いだ。そして僕の方を向くことなしに、彼女はこう言った。
「私は応援するよ。Nなら大丈夫だと思う。Nはとっても強いから。自分だけの道を進んでいける」
 その晩、床に入ると、自ずとマキの言葉とうららかな一日のことが思い返された。僕はすっかりマキに対して淡い恋心を抱いていた。薄い布団の中で、再び温かな幸福に浸っていた。でも、そこにはひっかかりがあった。ふと、ボブ・マーリーが欠けているのに気がついた。その週、お節介な隣人は僕が眠る頃になると、『ナッティ・ドレッド』を延々と繰り返していたのだ。僕は子守歌なしには眠れない子供のように、夜の静寂の中でひどく落ち着かない気分になり、けれど縺れた糸を引っ張ってしまうみたいに、どつぼに嵌まってゆく予感はあったが、マキの言う自分だけの道について考え続けた。案の定、考えれば考えるほど胸の内には虚しさが広がっていった。いつしか、僕はもうなににもなれないのだと理屈もなしに理解していた。目の前には無限の選択肢が転がっている。僕はなににだってなれる。現実がなにを告げようと、僕はずっとそういう風に信じていた。けれど、それは無用な試みに過ぎない。だれも望まない、だが倫理的にせざるをえない延命治療みたいなものだ。そう僕は考え出していた。やはりそこに筋道はなかったが、その思い付きをぼくは驚くほど自然に受け容れた。そうしてはたと気づいた。僕はもうなにも信じてなどない。歌の世界で高らかに謳っていた愛も自由も夢も希望も、言うまでもなく自分自身の曇りない未来も、全てが風化した過去の夢だった。僕は過去の自分に駆り立てられているだけの、若者特有の感染症を拗らせたゾンビに成り下がっていた。僕は大学を辞めようとしている。それは逃げるためだ。過去から解放されるためだ。だが、『ウォー・オン・ウォー。きみは負けなくてはならない』と歌にある通りに、この闘争の先に待つのは敗北でしかない。だから僕の闘争は逃走だ。ウォー・オン・ウォー。逃走に次ぐ逃走。ここはどこだ。一体、今僕はどこへ向かおうというのだ? 逃走線を辿る僕の道。果たして、そんなものが許されるのか? いや、本当に存在するのか? 僕は気づいていた。僕は大学を辞めることができない。生きてゆくために、見込みの確かな選択肢を残しておく必要がある。僕のために用意された輝かしい道などない。僕の道とは延々と続く躊躇いによってのみ形成されている。留保としての選択肢、休学。避難所として、小休止としての、戦略的撤退と言えなくもないが、いずれにせよ、逃走と遁走に大した違いはない。僕には行くべき場所など他に思い当たらなかった。
 多分、この頃から僕は根無し草になっていたのだ。つまりはノーウェア・マンに。今では僕はドイツにいる。だがやはり、なんのあてもない。ただ街を歩き続ける。目的地はない。なにかに追われている。なにになのかは分からない。時とともになにかが変わり出している。なにかはやはり分からない。心の奥深くで、僕を取り囲む世界の隅々で、見分けられはしないがなにかが蠕動している。なにか、春の訪れとともに長い眠りから覚める生き物みたいな存在が。それは今、長い冬を乗り越えるために慎ましやかに冬眠をしている。概念としての春を夢見ながら。
「もうすぐです」と、やおらシンジが振り返り、こちらに微笑んでくる。「次を曲がりますよ」
 ぼくらは角を折れる。そこには駅がある。三人で広げていた三角形が少しずつ崩れて、人混みに呑まれてゆく。

 プラットフォームからはベルリンの壁が見えていて、すぐ傍ではマキとシンジがなにやら楽しげに話している。冷たい風のせいでよく聞き取れない。時折、マキの顔には笑顔が覗いている。心なしか、僕と一緒に居るときには現れることのない、あだっぽさが微かに見て取れる。と、電車がやってくる。ベルリン市の環状線だ。ぼくらは車内に移動し、空席が目立つが座席には座らず、つり革を握って横並びになる。窓越しに外を見ると、空にはすっかり重い帳が降りていて、車窓には立体感のないぼくらが映り、その奥で眩しい街の煌めきが流れてゆく。
「ねえ、N」とマキがやおら話しかけてくる。
「ああ」と僕は返す。「どうした?」
「聞いてなかったの? ぼんやりさんだねえ」とマキがはにかむ。黒いダウンジャケットの首元で美しい緑のドレスとネックレスが見える。「メイコがいつ帰るんだろう、って話」
 僕はぼんやりとした表情で首を傾げる。
「今朝、部屋に寄ったんだけど留守だったの」とマキはまた笑う。一体なにがそんなに楽しいのだろうか。
「メイコか」と口にして、僕はすっかりメイコのことを忘れていたのに思い当たる。なぜだろう。ミュンヘンに居るときはメイコのことをずっと考えていたのに。クリスマスの過ちも、彼女が残した言葉も、はたまた『城』の喪失も、朝露みたいに蒸発している。彼女の夢に見る島のことをよく考えた。けれどかつて脳裏に浮かんだはずのイメージは、もう思い出すことができない。不思議だ。
「このまえは、年明けには戻る予定だって言っていましたよね?」とシンジ。
「メイコが予定を変更するのに」と僕は呟く。「どういった風が吹いたのだろう?」
 電車が短いトンネルを抜け、鉄橋を渡ってゆく。大きな音が車両中に響く。
「イタリアへの憧れ」とシンジが快活な声で沈黙を和らげる。「っていうのはどうですか? ドイツにいると太陽が恋しくなります」
「『トーニオ・クレーゲル』」と僕は呟く。
「とは逆ですね」とシンジ。「マンなら、『ヴェニスに死す』がイタリア憧憬を描いています」
「『ヴェネツィア客死』はどうなんだろう?」と僕はつり革を放しては両手を広げて抗議する。「メイコは疫病や少年愛に蝕まれるほどやわじゃない。きっとトーニオみたいに自身の過去と和解しようとしているんだよ。だから、そのうちまたひょっこり戻ってくるさ。メイコにはメイコの、しっかりとした考えがある」
「やっぱり」とマキは姿勢を変えて窓を向く。「Nはメイコに恋をしてる」
「どうしてそうなる?」と僕は落ち着きを装う。「わけがわからないよ。そもそもの問題が、僕はメイコをよく知らない」
「知りたい?」とマキが僕をまっすぐ見つめる。
「どうだろう」と僕は横目でマキを見やる。「どちらかと言えば」
 マキは唐突に笑い声を出す。「Nって、ウェルテルみたいね」
「僕もそんなにヤワじゃない」と僕は口にする。
 電車が減速を始める。駅が近い。
「やっぱりNはメイコに恋をしてるよ」とマキがこちらを向く。少し陰りのある笑顔を浮かべて。
「なにかを知りたいと思う気持ちこそが」と僕は窓を向く。「恋の本質なのであれば」
 車窓には賑わう街の煌めきが広がっている。
「メイコと」と僕は呟く。「ちょっとした約束をしたんだ」
「そうなの」とマキが呟く。
 電車が停止し、アレクサンダー広場駅に到着する。構内は冷たい空気と忙しない人混みに充ちている。

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