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歌姫ディアスポラと二十日鼠族の消失、鳥かごの夢と不明瞭なもくろみ 1/3

 目を覚ますも、曜日が分からない。鬱蒼としている。光の差し込む狭間はない。

 おしなべて物事は、繰り返されれば本来有していた意味と時間を失う。それは忘却ではない。記憶は確かにすべてを保持している。ただ立体感がないだけだ。近くも遠くも変わりがない。私は片目を瞑っている? いや、単純に斜視なのだろうか? そもそも眼は完全に同じ方向を向いているわけではない。一方、視界が平坦であれば、すべてが目前に迫っているとも言える。だからこそ、今は途切れなく緩慢と延びてゆく。終わりがなく、目のやり場がない。日、月、季節、西暦、時代。太陽が浮き沈みして暗闇が訪れるように、本質的に世界は循環する。人がそれを崩す、あらゆる文脈において。机上のデジタル時計は『摂氏十五度』を示す。人はそれを目にし、今日は暖かいね、と言ったり、肌寒いね、なんてのたまう。二〇XX年、十二月十九日。二十一世紀、現代は人類史上最も多くの自由と幸福が享受しているそうだ。隷属と戦禍に満ちた過去を礎にして。現在は過去よりも優れ、当然のことながら、未来はさらなる進歩を約束する。議論の余地は様々にある。が、しかしそもそも、一体誰が比較できる? 人間は時間を知覚する器官を持たない。

 過去について考えるとき、私はいつもスペースデブリを思い浮かべる。そう、フランツ・カフカを読むときと同じ。過ぎ去ったものはみな、等しく遠く、何も語ってくれないのだ。彼らを求めて足掻いても距離は縮まらない。無駄な努力を続けていると、ふと胸が引き裂かれそうな悲しみが押し寄せる。年月を経た分、心は幾らかくすみ、図太くなっているはずなのに。四方八方から引力が押し寄せるからだろう、きっと。散り散りになりそうな時、私は叫びをあげる。悪い夢でも見たみたいに。これは一般論だが、天体の動きに似た規則正しさと星の輝きを凌駕する豊かさで満ちた暮らしは、疲労と自己愛を生み出し、視界を曇らせてくれる。それでもやはり、人は欺瞞の影を認めずにはいられない。とある拍子、体の力を弛ませ、水晶体が遠くを捉えた。すると、自身が住む世界の矮小さと強欲さ、そして怠慢さに我慢ができなくなる。彼は目を擦る。だが何度繰り返しても幻覚は消えず、ついには無理に込めた力でレンズを痛めてしまう。その傷は風景を歪める。それまで正しいと思い込んでいた世界には、他の見え方があると知る。いつしか傷の存在に慣れてしまうと、その鈍い痛みは忘れてはならないえにしの存在を絶えず語っているようにも思えてくる。そうして別の景色への憧憬を膨らませる。より自分に相応しく、自分が愛を抱けるような場所を求めて。夢見がちな彼は、築いてきた日常を跡形もなく破壊し、張り巡らした糸を衝動的に手繰り寄せ、自身の繭へと編み上げたいと願う。新たな居場所は心地が良く、暖かく、自分を守ってくれるはずだから。彼は頑な、そう信じてやまない。すべてが等しく近く、語りかければ、いつでも優しい言葉が返ってくる場所。もう、宇宙空間で感じた孤独に胸を痛めることもなく、たおやかな重力が錨となり、心は落ち着き、安らかな眠りへと沈み込む。その、とてつもなく素晴らしい世界を目指し、いつしか彼は旅に出ている。


 ベルが再び鳴り響く。私は、錨を引き揚げるように慎重に記憶を辿り、曜日を定める。

 昨日は、『WWⅠ、文学と文化』、『レフュジィー・テイル、危機的移住』、『オルフェウス神話の芸術的側面』と二限から四限、大学で講義を受けた。欠席者は多かった。教室は、一昔前の資材置き場みたいに、やけに静かで広々としていた。鼠のごとし、群れをなし小煩い声を鳴らす輩は、一人もいなかった。誰もが熱心に授業に耳を傾け、思考を育み、言葉を書き留める。秩序と安寧に満ちた空気が流れていた。

 今日は土曜日である。今日も大学に行かなくてはならない。やはり二限から四限まで。私は、週六日、全十五コマを受講している。明日は心待ちにしていた休日だ。日曜日は空っぽで、復活の一日なのである。

 ベッドから起き上がり、窓際の籠にストックしてあるリンゴを一つ手に取り、回転椅子に腰を下ろして齧りつく。面倒だから皮は剥かない。甘酸っぱさが口の中に溢れる。ドイツのリンゴは幾らか酸味が強い。でも三ヶ月間毎朝食べていると、慣れてしまう。きっと今日本のリンゴを口にすれば、甘すぎると思うだろう。しかし、悪夢で目覚める朝には、酸っぱいリンゴはうってつけである。運良く、今日の眠りは完全なる空白に占められていたわけだが。とはいえ考えてみれば、私の夢は実に奇妙である。第一、普通、夢は筋立てが曖昧で展開が唐突、登場する人物は錯綜しているものだ。それに、共通点があったとしても、内容が完全に一致することは決してない。私のものは真逆だ。話は非常に現実的で、プロットに穴は無い。何度も出会ううちに愛着を抱いてしまうほど、人々は生き生きとしている。そして始まりから終わりまで、細部に到るまで全くに同一。胡蝶之夢と昔から言うものだが、論理的に診れば、私の夢も現実逃避傾向のある人間のための一種、慰みでしかない。現実は現実なのだ、逃げ場などない。しかし本当に、単なる夢なのか? 集合的無意識が何か重要な伝言を残しているのではないのか? 遠い昔、遠い場所で、実際に起きた出来事が呪術的な回路を通じて、私の夢に現れているのかもしれない。

 実に支離滅裂な発想に身をやつしている。やれやれ。論理と秩序を重んじるはずの私の脳みそは抜本的な修理解体を必要としているのかもしれない。どんな機械装置も、二十年間酷使し続ければ、大抵は故障してしまい、買い換えの時期が訪れる。すれば、人は一生の大部分、頭に不具合を抱えるままで生きていくものなのだ。「人生は長すぎる」と私はオレンジジュースを飲みくだす。昨晩、就寝前に水を飲んだグラスで。机の下に整然と並ぶオレンジジュースのボトルから、毎朝二杯分を摂取する。些細だが決められた日々の一要素である。私は習慣を堅守する。教会の鐘楼主みたいに定められた時刻に定められた行為をなす。意義が見えなくなろうと、無意味だと謗られようと構わない。私は信じている、規則正しい生活こそが健康な肉体を形成し、健全な思考を育むと。十歳になった頃から、母や周囲にいた人たちに倣って、岩礁のフジツボのように自身で決めた規則に張り付いて生きてきた。それは今や、信念も宗教も超えた、掛け替えのない私の一部となっている。経験から言えば、実際に、健やかさはひとえに習慣に身を落とし込んでこそ得られる。加え、逆説的な響きを持っているが、余裕や自由も、実のところそこから生じる。すべきこととそうでないことを明瞭に区分すれば、自ずと自己は定義される。すれば当然、可能と不可能の境界が見えるようになり、無理は生じなくなる。もし仮に私から習慣が欠けたらば、心身の均衡が崩れてしまうだろう。あまつさえ、サナトリウム送りになってしまう。またもや、フランツ・カフカだ。規則正しい生活を送ったと言われているカフカに不足していたのは余裕に他ならない。彼は欲望を統御し、自身の限界を見定めることが出来なかった。すべきこととそうでないことを現実的に判断していなかったのだ。確かに、過ぎ去ったその短い人生は有意義であったかもしれない。だが、私はそう結論づける。『自分に合う食べ物が見つからなかった』。『断食芸人』の中でカフカはそう語る。だが思うに、彼が本当に見つけられなかったのは、安寧に満ちた日常だ。サラリーマンとして、父の期待を一身に受ける長男として、数多くの女性たちの良き恋人として、マックス・ブロート以下、様々な友人たちの気の置けない友として、人生を謳歌しようする一方、彼は実存的不安と葛藤を計り知れないほどの美しさと深遠さを調和させた奇跡的な手法で表現しようと試み、心身を擦り減らしていった。肉体は脆く、時も力も限られている。そこに挑んでこそ、超人カフカなのかもしれないが、限りある命を酷使すれば当然死が訪れる。彼はその帰結を正確に理解していただろう。だからこそ、ある時は虫になり、またある時には唐突に刑事訴訟に巻き込まれ、とある吹雪の日には山間の小さな町へ行き「自分は測量士だ」と嘯いて、終わりなき、名分なき、咆哮と彷徨の日々へ呑み込まれる。女中を孕ませ遠い異国に送られもした。そして、現実というカフカにとって最も不条理な物語の中では、主人公は結核になり死んだ。何ら変哲のない、小さな一市民として。

 息の長い芸術家は本来的に農夫である。私も自然とともに生活を送りたいと考えている。止めどない発展、果ては宇宙を目指す市場経済社会の下、薬物や仮想現実で、睡眠と覚醒を強引に支配する市民とは異なる、自然世界に準じた肉体と精神を所有する存在でありたい。言い換えれば、『フリーダム』ではなく、『リバティ』を得たい。完全な解放などないのだ。肉体は永遠に出られない鳥籠なのだ、地上にいれば重力があり、宇宙に出れば惑星からの引力が存在するように。宗教がかつての機能を失った現代、法律を除き、人生のルールブックは存在していないように思え、ドーピング違反で誹られるのはアスリートくらいなものだけれど、依然、自然に抗えば罰は与えられる。結核が時代遅れになれば、悪性新生物が跳梁跋扈するように。それに、臆面もなく肉体の支配を推奨し、精神の自由を措定しているからこそ、人々は面倒ごとにすぐに目を背け、道徳や倫理が廃れてしまった。物事の判断基準は、損得勘定へと一本化された。そんな太々しさは当然の帰結を生む。苦難や逆境に対する忍耐を持たず、安易な解決策に飛びつくことだけの安直な精神は、簡単に砕ける、柔軟性がないからだ。壁に当たれば、鋭利な破片を散らす。憎悪に満ちた破片を。

 人は理性を有する。欲望すらも統御することができる。習慣は、そのために役に立つ。確固たる精神は肉体を凌駕し、更なる強固な肉体を造る。だから守らねばならない、いかなる犠牲を払おうと。強く凛々しく行きてゆくために。


 リンゴの芯を捨て、オレンジ色が滲むグラスを洗いにキッチンに行くと、隣の部屋の中国人留学生がいる。平べったい顔にぼってりした鼻、眠気で一層細くなった目を浮かべている。ノーメイクだ。額のバンドで留められた髪はひどく痛んでパサついている。武装時、タン・ウェイばりの色っぽい美人は、今では昆虫に似たグロテスクな存在に落ちぶれる。だがその毒牙を侮ってはならない。両手では数え足りないほどのドイツ男が餌食になってきたのだ。少なくとも一週間に一度、彼女は部屋で猥雑なシーンのリハーサルを行なっている。撮影準備に余念がないのだ。私は、その淫らで演技じみた声を合図に、ピンク・フロイドの『ザ・ウォール』を流し、バーセルミの短編集を読み返すことにしている。雰囲気も時間もぴったりなのだ。現代社会の暗渠で鑑賞されるべき、バーセルミのドラッグ性のユーモア、ギルモアの屈強な大男の慟哭みたいなギター、ウォーターズ憎悪と寂寥の混じった囁き。五つの物語とCD片面は約四十分で、業腹な事象をも文化的に変革してくれる。ホメオパシーに似ているかもしれない。しかし、まだセーターを着る必要のない頃、対処法を確立していなかった私は、直接苦情を言いに行ったことがある。生理期間で怒りっぽくなっていたのも原因だろう。半分ジョークとして、私はカーヴァーの題名をそのままに、『頼むから静かにしてくれ』と英語で口にした、「Will you please be quiet please」(あの短編集は題名だけで買う価値が十二分にある)。予想できたことだが、彼女はカーヴァーを知ってはおらず、バスローブだけを羽織ったしどけない姿で、少し扉を開いては右手で張り出し、おぞましい形相を浮かべるままに私を突き飛ばした。バタンと閉まる扉、私は尻餅を付いていて、しばらくドアの前で無力感混じりの怒りと呆れに悩まされては、意趣返しの手段を探していた。でも結局、やめにして部屋に戻った(そもそも母国語も文化圏も違うのだ、きっと埒があかない)。ふと何故だか、そのカーヴァーの短編集の題名を順ぐりに思い出そうと思い立った。日本に置いて来ていて、手元にないのだ。『父親』までは思い出せたが、それ以降は忘れてしまっていた。本来、私はとても記憶力がいい。しかし実のところは、その頃から変調をきたしていた。

 そんなわけで、私と中国女(ヴィアゼムスキーとは大違いだけれど陰でそう呼んでいる)の間には、幾らかわだかまりがあるはずなのだが、なんの気ない調子で彼女は話しかけてくる。

「ハロー、メイコ。今日も早いわね。あんたがキッチンに来たってことは、もう八時十五分なの?」

 私は黒い丸時計に目をやる。八時十五分である。私はカントなのかもしれない。ケーニヒスベルクの人々は、散歩をするイマニュエル・カントを見て時刻を合わせた。

 私は頷く。返事を省いたまま、コップを洗い始める。

「あたしはこれから寝るわ」

 中国女は脇のソファーに座り、左手のグラスを傾け、残った牛乳を飲み下す。彼女の目は充血している。そして、故国を代表してかパンダみたいに、瞼の周りに奇妙な白を差している。どうやら、動物的な夜を過ごしたようだ。グッド・ナイトと私は呟く。

「ねえ、ところであんた、昨日の夜、なんでベルなんか鳴らしたのよ?」

 中国女は頭を傾けて右肩に乗せている。奇妙な角度だ。首が痛くはならないかと心配になるほどだ。はたして、やはり捻れているのだろう、彼女が唾を飲み込むと、大きな硬い音が喉元で鳴る。

 ベル?

「そのせいで、トーマスが怒って帰っちゃったのよ。ちょっとしたタイミングの問題で」

 ちょっとしたタイミングの問題、と私は呟く。

 トーマスとはボーイフレンドのことだろう。タイミングとは、大方、オルガズムのことだろう。やれやれ、私が鳴らしたベルはトーマス君を欲求不満なまま帰途につかせたらしい。サーヴズ・ユー・ライ。気の毒なことをしてしまった。

 いやいや、そもそも私はベルを鳴らしていない。

 そう返事をすると、奇声が上げる。「ワオ」に聞こえなくもないが、嗄れて言語になっていない。

「それはいつのこと?」と私は真剣な面持ちで問う。「私、昨晩は十二時には床に就いてたよ」

 中国女はすぐには返事をせず、頭を右肩に載せるまま目だけを動かして、キッチンを見渡す。今度の出演作はホラーらしい。見た感じ、彼女の尾羽打ち枯らしたすっぴん姿にぴったりだ。この上なく不気味、実存的不安を効果的に煽り立ててくれる。ぐるりを視界に収め終えると、中国女の目は獰猛な虎のように、真っ直ぐ私を捉える。

「二時半よ」

 私の実存的不安は続々と一挙に押し寄せてくる。体がゾクッと震え出す。その恐れは名状しがたい。埒のあかない言いがかりを吹っ掛けてきている女の形相も理由の一つだが、それだけではない。ある種の金属が触れ合う音に抱く不快感に似ている。整然とした現実に不可解な現象が押し込まれた、米国のホラー映画がサブリミナルに与える類の恐怖。昨夜、私はずっと部屋にいたはずなのだ。

「あれは絶対あんただったわ。解錠のボタンを押してしばらくして、あんたの部屋の扉が開いたんだもの」

「直接見たの?」私は訊ねる。声も微かに震えてしまう。

 中国女は皮肉な表情で笑う。口裂け女みたいだ。「見たのって、あんた、間違いなくあんたでしょ。それ以外にあんたの部屋に入って行く人がいる?」

「見てはいないということ?」私は返事を省いたまま、矢継ぎ早に震えを隠そうと一息に質問を重ねる。

「わざわざ扉を開けるまでもないじゃない。それに今、このコンパートメントに残っているのは私とあんただけ。他はみんな、自分の国に帰ってるのよ。一体、見る見ないでどう変わるってわけ?」

 ふむ。確かに、どうにも変わりはしないか。つまり、中国女は真実を述べているわけだ。論理的な穴は見当たらない。今、このコンパートメントにいるのは彼女と私だけ。残りは全員、故郷に帰った。ベルを鳴らした人物は私に他ならない。まとめると、ひどい夢には夢遊病が続く、ということになる。ひどく一般的な精神病患者の発展段階例みたいに聞こえる。私は精神的な異常を抱えている可能性がある。私の記憶には、大きな欠損が生じている。

「そうだ、メイコ。私も今晩の便で帰るわ。戻るのは一月六日よ。誰か訪ねてきたら、そう伝えて」

 洗い物を続ける振りで返事を省く。私は大いなる錯綜の中に迷い込んでいる。抜本的な修理解体を必要とするほどに。


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