【オアシスではAIが湧いている】


AIは我々に新しい革命をもたらすだろう。これは間違いない。AIは我々の面倒と手間を完全に消しはしないものの、しかし大半の面倒をなくしてくれる。「想像→実現」プロセスを圧倒的に効率化してくれる。だから基本的に、これは大いなる恩恵だ。だが、産業革命が、フランス革命が、他の様々な革命が本当に人に幸福をもたらしたのかを考えてみると、やはり幾らか疑問はある。人の平等から派生した選挙制度を例に取れば、一人一票という平等は本当に正しいのか、甚だ疑わしい。産業革命もまた、生産力の莫大な増加で人口爆発を実現し、モノに溢れた社会を実現したが、われわれは荒々しい自然と向き合う機会を手放したが故に喪失した感覚が多くあるだろう。だから同様に、ぼくはAIと、これがもたらす変革——『「想像→実現」プロセスを圧倒的に効率化』——によって生じうる懸念が二、三ある。


初めに、アウトプットしながらのインプットが失われてしまうのではないか、という懸念だ。AIは与えられた指示から既に確立した手段のどれを用いるべきか選定し、信じられないほどの短時間で求めた結果を与えてくれる。一方、AIを用いない場合、我々は自分で①情報を集め、②選定した手段を黙々とこなし、③実現→結果を得る。そして③のみを考慮すれば、AIを用いない生産物はAIを用いたそれに対して、完成度と正確性が多少、あるいはかなり劣っている。だからAIは正義、とはならない、しかしながら。Kが前に理解していたように、①②を自ら行使する間に、我々は非効率的に時間を費やしたがゆえに、当初想像した/目標を設定した際には気付けなかった、色々な認知を得る。そしてこの気づきから、我々は当初の目標を少なからず修正する(これは上方修正か、下方修正か、もはや当初の自分と気付いた自分が異なるため、よく分からない、多分良くなっているはずだけれど)。つまり、インプット/アウトプットという雑多な二分法で理解する限りでは、AIは完全に有効だが、インプットとアウトプットを相互依存的に/循環的に捉える場合、AIを用いた生産物は、効率化・楽さと交換に、人の創造性とも言うべき豊かさを失っているのだ。これはどこか、都会の子供が青白く痩せ細っていて、濁った鈍い目をしているのに似ている。彼らは消費(ゲーム)/労働(勉強)という二分法で、消費や労働を元に生産する(想像/創造→夢を見る)ことが少ない。
そして二点目の懸念。これは2020年の社会に対しても言えるが、拝金主義が横行し、かつての倫理や道徳規範が失われつつあるように、AIはインプット外の要素——場の空気とか心とか——を捉えることはできず、算入することのできる要素のみから効率的な回答をはじき出すしかない、それがゆえに、AIに算定されない要素が広く社会から欠落してしまうのではないか、という点だ。例えば、「人類からコロナをなくす」という課題をAIに与えた場合、極端なことを言えば、全てのコロナ患者とコロナへの抗体を持たない人をすべて焼却し殺戮すればコロナはなくなる、という結論を見出す可能性がある。あるいは、「地球温暖化を食い止めてくれ」と課せば、新たな破滅的に強力なウイルスを作り出し、人類全てを根絶やしにするかもしれない(ウイルスは核爆弾とは異なり地球環境を損なわない)。むろん、こんな極端な事例は事前に人間が食い止めるだろうが、けれどこういう方向の卑近な出来事は様々に生じるだろう(「死にたい」と望む人に、「自殺マニュアル——準備が楽で苦しくない自殺法——」を提示するAIは想像に難くない)。AIの導き出す結果を無反省にそのままに完全と受け容れる姿勢は、算定概念下においては完璧に効率的だが、どこか人倫や道徳、あるいは不完全な存在たる人こそが把握できる要素を縮小させ、はたまた消失させてしまう、という危険性を孕んでいる。
そしてまた空気/心という点で、別の側面を見てみると、AIは適切な嘘や誤魔化しをすることが出来ない、という問題もあるように思う。前にコメダで紹介してくれたように、「痩せたい」という目標に様々に注釈・要望を加え、「妥協案としてのダイエット法」を適切に与えてくれるかもしれないが、実は「痩せたい」という人は実は痩せたいと言いたい/思いたいだけで、嘘でもなんでも、効力のないダイエット法を実践しては暇を潰したいだけなのかもしれない。指示を与えられれば適切で効率的な回答を出すのみでは十分じゃないのだ。人はだれかに騙されたいし、無意味な徒労に有り余った時間と力を傾けたい。ホスト狂いの女や負け続けの賭博狂は効率性など求めていない。似たように、実はまともなはずのわれわれも、実現しない目標に向かってただ苦闘することだけを求めている部分もある、あるいは。

そして最後に、AIに依存する人間存在への危惧を繰り返そう。卑近な例から考えてみる——お気持ち案件(※)の先鋭化という事柄だ。お気持ち案件とAIのコンボについて考察を進めよう。例えば芸能人や政治家の一人に対して「むかつく」と感じ、「やつらの社会的地位を貶めてやろう」という思い付きは、AIを上手く利用すれば、思い付きの域を越え、現実に——例えば、ロシアや中国、アメリカがSNSを用いて情報操作をするみたいに、むかつく人間に対する炎上を意図的に——引き起こすことができる。AIがなければ、「むかつく」という感情がわき上がっても、「でもどうしようもねえし」と思いつつ、いつしかそんなお気持ちも綺麗さっぱり忘れてしまう。でも、思い立ってすぐ実現できる状況下にあるなら、この「むかつく」という小さな思い付きは山火事のように急速に広範囲に怒りの炎をまき散らし、本来は一過性の無意味なものとなるはずのお気持ち案件が、本当に案件化し、事件化する。
※「お気持ち案件」とは最近、千葉雅也氏がツイッターで述べた、「ふと湧き上がる、今日の昼はマック食べたいとか、旅に行きたいとか、自分の規範からは離れていたり、無意味に思えるが、しかし束の間自分の意識を捉えられてしまう、ある意味では動物的衝動とも言えるような思い付き」のことである。
そしてまた、思い付きを実現できてしまうがゆえに、思い付きにのみ人は創造性を発揮することとなってしまう。これはYouTubeやTikTokにおいて既に見られるように思う。PV数を稼ぐために、衝撃的な題名やサムネイルを用いたり、はたまた炎上商法なんてものもある。こういう創作傾向(これは創作と言えるのかはおいておこう)が続けば、手間暇かけてなにかに没頭するという集中力や忍耐力は間違いなく失われることだろう。手間を掛けることなしには実現しえないことは多くある。例えば人格の形成なんてまさにこれだ。むろん、こういうインスタント性が加速し、即効性に特化した世界においても、薫陶された人格は絶滅はせず、やはり僅かだが生き延びはするだろう。そして、だから優れた人格の生み出す優れた生産物はなくなりはしない。けれど、優れた人格も優れた生産物も完全には消失しないが希少となってゆくため、残念なことにこの優れた生産物を優れていると認識できる人の数は指数関数的に少なくなってゆくのだ。

こういう文脈も踏まえると、昨今、『教育とchatGPT』が問題として脚光を浴びている理由がわかる。ぼくの見解としては基本的に禁止すべきだと考えている。この基本的にというのは、人間の基盤となる領域の陶冶に関わる部分を指している(読み書きそろばん、と中学英語・歴史社会・理科、古典、つまり中学校で行われる中等教育の基礎編が一つには挙げられる)。これの習得が不十分だと、例えば上手くググれないかったり、あるいはchatGPTの出す回答の理由/意図を捉えられない、というのが理由だ。別に絶対にAIに頼ってはいけないとは思わない。けれど、適切に使うためには基礎知力が必要であり、AIを使いながらこの基礎知力を養うことは不可能であると考えているだけだ。優秀な誰かが明確な答えを手軽に与えてくれる状況は教育上望ましくない。誰かが助けてしまうと、「問題解決能力」がいつまで経っても伸びないのだ(これはぼくの指導経験から来ていて、親や友達、スマホに答えを求める輩は、思考力を問う些か面倒で手間の掛かる問題を解く力がいつまで経っても身につかない)。だが同時にAIを使いこなすスキルも磨く方がよいとも思っている。これはちょうど「英文法と英会話」みたいなもので、最低限の基礎知力(英語においては文法)がないと適切なAI利用(正しい英語を話すこと)ができない。そしてさらに、生産的な労働のためにはAI利用のノウハウ(英語においては英会話の経験)が必要だ。だから、まずはしばらくはAI使用を禁止/制限した上で、学習を進めるべきだ。

以上を踏まえぼくなりの結論を言えば、「目的と手段/手順は(つまり結果と原因は)二つで一つだ」。この二つを合わせて、新しい生産物/現実が出来上がる。だからAIを用いて行う労働/仕事は、AIなしで行う仕事とは異なる。特に芸術(アートでなく芸術;個性の爆発としての芸術)など、創造性に関連する一部の領野においては、金太郎飴みたいに似通った代替可能な何十人ものアイドルで構成されるグループのヒット曲と自作の音楽(これは拙く手垢にまみれてはいるが大きな感動をもたらす)ほどに異なる。AIを用いて得られる生産品は便利だが替えが効き、驚きや衝撃はあるかもしれないが、そこに美しさも胸を震わす感動も殆どない。ゆえに常にどれだけ優秀なAIを用いても出来ないことがあるという意識を持つべきだ。なぜなら人間活動の全てをAIに依存すれば、主人と奴隷の弁証法の通り、無能な人間が跋扈するのみのデイストピア社会、つまりは泥だまりとなってしまうのだから。もちろんそこはぬかるみだから、柔らかく暖かな温もりがあり、十分な湿り気を帯びて、基本的に心地が良い場所なのかもしれない。でもぼくは、乾いた砂漠を歩き続けることを余儀なくされたとしても、そこに何年にか一度奇跡的に現れるある美しい瞬間に、ぼくだけの/ぼくしかいないオアシスに、時たまでも、あるいは生涯に一度でもいいから出会う方を選び取りたいと感じてしまう。人は困難であろうとも、自らの意志と力で輝こうと望むべきと信じているから。
神は死んだ。人間ももうすぐ死ぬ。そして、AIもいつかはオワコンとなる。残るのは砂漠とそこをひたすらたゆたう存在のみ。偶然を愛そう。善悪の彼岸を目指そう。自らの判断基準を持とう。

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