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滞在権訴訟 1/7


 目の前にある扉を叩くと、不機嫌そうな固いノックが鳴る。左右には長い通路が続いている。洗練されたホテルの無個性な通路。僕はドアが開くのを待ちながら、切れた息を落ち着ける。と、やおら扉の奥で錠が回り、ドアが開く。
「長く待たせてしまった、申し訳ない」と僕は一息に謝る。
 マキは厳しい視線を突き刺している。庭くらいの広さがある部屋の奥からは太陽が幾筋もの鋭い赤い光を照り付けてきていて、僕は目を細める。薄れた視界の片隅にシンジを認める。窓の脇にあるカウチでくつろいでいる。束の間の閑暇をやり過ごすどこかの国の貴公子みたいに優雅に。でも装いは現代的で、ギャップのプルオーヴァーパーカーに黒のスキニージーンズだ。
 マキの険しい表情は、予定外の来訪を敢行した客人の不躾さに呆れかえっていると言わんばかりで、もちろん僕は事前のアポイントメントを欠かしてなどないが、問題といえば、予定時刻を大幅に遅れてしまっていることだ。ドイツの日没は早い。一月の初旬ともなると、四時半にはすっかり街が暗くなる。今、夕焼けが空を赤く塗っている。約束した時刻は午後三時。とうに回っているだろう。正確な時間はわからない。僕は腕時計をしない。
「道すがら、ちょっとしたトラブルが発生してね」と僕は笑いかけるが効果はない。相変わらず、マキは愁然とした表情をピンで顔に留めている。人がコペンハーゲンの人魚像に向けるみたいな残念そうな鈍い目だ。耐えきれず僕は彼女の手元を見ると『ウェルテル』の原書が提がっている。
「入っていいかい?」
 マキは小さく頷くとドアを軽く開けて足早に部屋の奥へ行ってしまう。僕は背中を追いかけ、その厚手のニットには既視感がある。ワインレッドのセーター。マキは部屋の右隅にあるクリーム色の肘掛け椅子に腰を下ろしてウェルテルを再開する。シンジはマキの対角線上に置かれたカウチで体を沈めてぼんやり天井を眺めている。僕はあるいは、ルームサービスを提供するとか、なにか果たさなくてはならない義務があるのかもしれない。いや、二人にとって、僕は空気のように当たり前の存在なのだ。けれど、このまま突っ立っていても埒が明かない。
「どうやら」と僕は十分な訓練を受けたホテルマンさながら、恭しくお辞儀をしてみる。「部屋を間違えてしまったようです。ムシュー、マドモアゼル、これは失礼致しました」。そして踵を返して翻り戸口へ向かう。
「N」とマキが呟く。「言い訳、って知ってるよね?」
 僕は振り向く。「概念としては存じております、マドモアゼル。が、基本的に、言い訳、あるいは詭弁と申しますものは、何一つとして過去の恥辱を雪ぐことはない。わたくしにはそのように思われます。であらば、冗談の一つでも口にした方が遙かに有益でありましょう」
 マキは一層眉をひそめて僕をにらむ。
 僕はため息をつく。弁明を口にしなくてはならない状況らしい。けれど、なにについての弁明なのだろう? 異端の神を信仰し、青少年を人ならぬ道に誘い込んだのがソクラテスで、僕といえば、さて一体どんな罪状で訴追されたのか。
「昼過ぎにね」と僕は馬鹿げた考えを振り切る。「ふとベルリンの壁に沿って歩いてみようと思い立ったんだよ。で、オスト駅——ほら、このホテルに近いだろう?——まで移動してさ、壁に描かれたアートを眺めた。大方が落書きと大差ない下世話な代物だったけど、悪くないものもあったね。ロシア・アヴァンギャルドを思わす力強い筆致には目を奪われてしまったよ。がもちろん、写真を撮るなんて真似は決してしなかったがね」。長い導入部にはかみ殺された欠伸が付き物だが、マキとシンジにおいてはそれが身支度に取って代わっている。二人の動きはとても手早く無駄がなく、非常に現代人らしく、ゆえに日々莫大な情報を浴びせられており、結果として黙って話を聞き続けることができない。悲しいことだ。「とまあ、そんな調子で足を進めていると次第」と僕は続ける。「綺麗なゴシック調の教会に出くわした。物悲しくはあるけど、とてもこぢんまりして心ゆかしい場所だった。木々は完全に枯れていて真っ裸だった。かたや直下のベンチには枯葉がうずたかく居座っていた。なんだかその様相が大層気に入ってね、なんとなくそこに腰を下ろして休みたい気分になったんだ。枯れ葉のクッションはそれはそれは素晴らしい座り心地だった」。マキとシンジは立ち上がり、目の前を行き交う二人を目で追いかけながら僕は口をぱくつかせている。街角に降って湧いたピエロさながらだ。「で、歩き疲れていたのだろうか、僕は少しばかり惰眠を貪った。そう、そうなんだ。まず生じた第一の事態。僕は寝過ごした」と両手を大きく広げてみるも反応はないが僕は曲芸を続ける。「僕は慌ててUバーン駅に向かい、電車に駆け乗った。だが、そこで第二の悲劇が降りかかる」行き交う人々は余念のない備蓄に忙しなく、それは世の常であり、誰が責めることができよう? 「今朝も起きた事態だったんだが、人はあるいは過ちを繰り返すことに本能的な悦びを見出すものなのかもしれない」。そう、好き勝手に語り倒すこと。それは大きな快楽の源泉となるが、やはり過ちなのだ。
 僕はそこで口を閉ざし、壁に寄り掛かってぼおっと見回す。マキの姿はない。化粧室に籠もっている。シンジは姿見の前で黒いシャツのボタンを締めている。部屋は小洒落ている。壁は綺麗に真白に塗られ、部屋付の新品そのままに磨き抜かれた大理石のバスルームに続く間口の傍にも大きな鏡が埋め込まれており、建築工学的な理があるのだろう、間抜けに立ち尽くす僕と手際よくタイを巻くシンジの二人を捉えながら、部屋に開放感を与えている。壁の半分ほどを埋め尽くす大きな窓はベルリン市を一望しており、西を向いているため、夕焼けに染まるビル群が黒い影を翳している。足下では赤い絨毯が敷き詰められ、シンジが腰を落ち着けていたカウチやダブルベッドと同様に、鴨の胸毛のようにふかふかだ。値段の張る一室なのだろう。
「大きな池がありましたか、教会の隣に?」と唐突に声が上がり、目を向けるとシンジがこちらに向かって微笑んでいる。曇りのない素晴らしい笑みだ。「Nさんが微睡んでいた教会に、ですよ」とシンジは再び微笑み、僕のそばにやって来る。どうやら準備が終わったらしい。どうやら僕の話は耳に入っていたらしい。シンジはなにかを少し考えるみたいに小さく唸る。そして再びカウチに座り込む。悠然と足を組んで、腰を深く沈め、無造作に手持ち無沙汰に体を休めている。カウチの高級感と凜と澄ました整った顔立ち、そして隙のない格好——ネイビーウールのジャケットにダークグレーのズボン、黒いシャツに黒色のシルクタイ、いずれも皺一つ生地の擦れ一つない——のために、陽射しに彩られて赤く光るその姿は本物の貴公子だ。
「手前に大きな広場があった」と僕はシンジの方に呆然と視線を向ける。「池は、どうだったかな」
 苦笑いを浮かべながら頭を掻く僕を、相変わらず鏡が映している。含みのある笑みだ。あざ笑っているとすら窺える。
「ミハエル教会じゃないですか?」とシンジが微笑む。愛嬌たっぷりだ。
「さ」と突然に可愛げのある声が介入する。「行こっか」
 目を向けると、とても素敵な格好をしたマキが立っている。深い緑色のワンピース。表面は少し光沢があり、首元の小ぶりな十字のシルバーネックレスのせいでひどく大人びて見える。耳先でもルビーのピアスが首を動かすたびに光っていて、上品なパーティにぴったりの格好だ。普段は着古した服を着ているマキとは別人だ。シンジも含めて、揃いも揃って、社交界での華々しいデビューを飾ろうという魂胆なのかもしれない。
「Nさん」とシンジは立ち上がって僕に目配せをする。「お腹は空いてます?」
 僕は頷く。二人は上着をクローゼットから取り出して戸口へ向かう。僕は二人を追いかける。ちらりと鏡に目をやり、自分が比較的まともな格好——フランネルの黒いジャケットに白のボタンダウンシャツ、茶色のコーデュロイのズボン——をしていることに安堵する。

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