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島の方へ 3/4


 私の部屋に入ると、父は壁に背をもたせかけ床にぐったりと座り込む。左膝を折っている。私は電気を点ける。父はうなだれてもいる。元々長い髪が顔を覆うまでに伸びきって、微かな隙間から覗き込んだ瞼は今にも閉じることを求めている。
「やっぱりまた今度にしよう」と私は小さな声を上げる。「お父さん、とっても疲れてる」
「ああ」と父はこちらを向くことなしに力のない曖昧な返事をする。「今朝、お母さんにもそう言われちゃったんだ。君たちを心配させたくはないんだけれど。ぼくは悪い父親だ」
「どうして」と私は口を開く。「どうして」。私はなんと続けていいのかわからない。
 夜の風がトキワマンサクに吹きつけて、薄ら笑いに似た気味の悪い音が上がる。
「でももう大丈夫だよ、メイコ」と父は真っ直ぐ私を見つめる。強い眼差しの奥にある瞳が鋭く光っている。「今日であらかた、片が付いたんだ」
 父はやおら枕の傍に置かれた小説に目線を向ける。
「海が怖くなったりはしない?」
「ちょっぴり」と私は躊躇いがちに答える。「でも、Kがソラリスに残るって終わり方はよかった。Kは海を受け容れた。わけのわからないものに立ち向かう覚悟をする強さが、Kにはあった」
「K?」と父は驚いた声を上げ、鋭く光る目で私を見つめる。
 私は父の唐突な変化に少し驚き、そして安堵する。父の顔には生気が少しだけ戻ってきている。
「Kって、ケルビンのことを言っているのかい?」と父は私に訊ねる。
「そう」と私は呟く。
「メイコはとても強いね」と父は優しい声色で笑いかける。「お父さんも、本当は、訳のわからないものをしっかり受け止めなくてはいけないんだろう」
 そう言うと、父は再び私に向かって笑いかける。しかし今度の笑みには諦めのようなもの悲しさが含まれている。
「でもね、正直に打ち明けると」と父は私をじっと見つめる。「ぼくは小説の方は最後まで好きになれなかったんだよ。きっと海が怖かったんだね。『ソラリス』は映画も撮られているんだ。そこでは海がまったく違う表情で描かれている。やはり未知の存在なんだ。でも、映画の海は、人をしっかりと包み込んでくれる、優しい大らかな存在なんだ。だからかな、ぼくは映画がとても気に入ったんだよ」
 私は首を傾げる。そして父を見つめ返す。その目は今にも泣き出しそうに潤んでいる。
「すまない」と父は目を逸らす。「気にしなくていいよ、メイコ」
 父は目を閉じる。右の目から、涙が一粒零れ落ちる。
 私は黙って呆然と父を見つめている。安堵しようにも憂慮しようにも、父の胸の内がなにも見えない。父は私になにも語ってはくれない。本当に求めていることは、なにも。
「とっても長らく待たせちゃったね」と父は唐突に明るい声を上げる。「もうすぐおしまいだね、メイコ。この前の話は覚えているかい?」
 私が無言で頷く。父は嬉しそうに笑う。まるで薄暗い夢を追い払うみたい。
「村長のところ、Kはバルナバスの話を聞く。そこでKは一つのひらめきをする」と私は父に笑い返す。
「そう」と父は拳を握って力を込める。「それは城に行くための方法なのだろうか? はたまた、城の正体を暴く算段なのだろうか? はたして、Kはバルナバスの家にやってくる」
 そして『城』が続く。

 バルナバスの家の戸を叩くと、顔を覗かせたのはアマーリアだった。
 「あら」
 と、アマーリアはそっけなく言った。
 「バルナバスは」
 アマーリアは何かを口にしかけたが、Kの険しい表情に気づいて、黙って兄を呼んだ。
 「バルナバスは今朝になってやっと帰ってきたところなの。きっとあなたに伝えることもあるはず。夜通しかけても無意味でしかなかったって結果もバルナバスをへこたれさせない。でも私には分かる。戻ってきたときの満足気な顔つきを見た。あなたは彼に感謝をすることになる」
 と、アマーリアは言った。
 Kはおざなりに感謝を告げた。
 「浮かない顔をしている」
 アマーリアはKの顔をのぞき込んだ。
 「スキー用の板がここにあるそうだな」
 とKは言うと、アマーリアの視線から顔を逸らした。
 「だれがそう言ったのかしら」
 と、アマーリアは訊ねた。
 「酒場と村役場でそういう話を聞いた」
 アマーリアは顔を曇らせて奥に向かった。ドアは開けっぱなしにしたままだ。しばらくして、アマーリアが戻ってきた。スキー板を一組、両腕で抱えている。
 「これは父のもの。元気だったころはできあがった靴を急ぎで届けるのに重宝した。だけどもう必要ないでしょう。あなたが要るというなら好きにしていい」
 Kはスキー板を受け取った。存外に重く、扱いが困難そうだと考えた。
 「もうひと組ないだろうか」
 とKは言った。
 「ないことはない」
 と、アマーリアは答えた。
 「まずは説明してほしい。どうしてあなたはスキー板を欲しがっているのか。それも二つも」
 Kは俯いたまましばらく唸った。
 「きみの言いたいことはよくわかる。父親が大事にしていた道具を手放すのだから無理もない。しかしわたしにも事情がある。果たすべき職務もある。大変すまないと思うが、なにも言わずに黙って貸してもらいたい」
 アマーリアは黙ってKを睨みつけた。Kは俯いたままの姿勢をかたくなに変えようとしない。
 「わかった、わかった。あなたにはあなたのもくろみがある。いいでしょう、倉庫にしまってあるはずよ。探すのに少しかかる。あなたは中に入って待っていたらいい。今にもバルナバスが起きてくる」
 アマーリアは庭に向かった。
 Kは誘いに従わず、中に入るかわりに暖かい空気が外に逃げ出さないようしっかりと戸を閉めた。そして通りの方へ少し向かった。庭の柵にスキー板を掛けて、自らも体をもたせかけた。道にはどっさりと雪が積もっていた。Kはそこに長靴でぐにゃりと曲がった線を何本か掘った。傍から見れば暇をもてあましているだけだった。でももちろんそれだけではない。家の裏手からオルガが薪を取りに出てきた。Kは軽く頭を下げた。声は掛けなかった。突然、暖炉の火を恋しく感じた。凍えるほどではないが、空気はひんやりとしており、身につけている薄い服では心地よい気分だととてもでないが言えない。アマーリアに言われた通りに家に入ればよかった。臭いを変に気にしなければとても快適に過ごせたはずだ、とKは思った。
 五分ほどしてバルナバスが外に出てきた。いつもの冬服はまだ絹のような艶やかさが残っていた。だが顔つきには疲労のせいでどんよりした陰があった。
 「測量士さん、どうかされましたか」
 バルナバスは晴れ晴れとした少年の笑みを浮かべた。
 Kは目を逸らして俯いた。バルナバスに、どう自身の考えを伝えたたものか、切り出す言葉を少しばかり頭で巡らせた。そして、ゆっくりと首をもたげた。
 「昨夜城に呼び出されたと聞いたが」
 とKは言った。
 そうだとバルナバスははきはき答えた。ガラーターと話すことができたという。
 「わたしのもとに助手たちをよこしたクラムの代理か」
 Kはそっけなく返した。
 バルナバスは服に手を突っ込んで、慌ただしく何かを探した。
 「きみはわたし宛ての手紙を見せようとしているのだろう。しかし、それには及ばない」
 とKは言った。
 バルナバスはがさごとと物音を立てるのを止めて、驚きを隠せない様子でKを見つめた。
 「きみの頑張りをむだにしようとする意図があるわけではないのだ。分かって欲しい。だが、わたし宛ての手紙はみんなきみの手元に置いたままにしてもらえないだろうか。暖炉で焼いてしまおうと、わたしは一向気にしない。こちらに渡してくれてたとしても目を通すことはない」
 Kはそう言うと、場違いな微笑みをうっすらと浮かべた。
 「どういうことでしょう、ご主人さま? 昨夜、といってもそれは城に指定された日時であるだけで、実際には今日の明け方なのですが、ガラーターさまと直接にお会いすることができたのです。彼はクラムがあなたの測量士としての仕事に満足されていると言いました。それも滅多にないほど——ガラータさまの言葉通りにお伝えすると、『クラムの気を落ち着けるのに数え切れないほどのビール杯が必要だった』ほど——満足されているとのことでございます。これはよい知らせに違いありません。城からの手紙を断固読まないと言い張るものは僅かではありますが確かにおります。しかし、最後にはだれもが城へと繋がる大きな可能性を求めることとなる。そうせざるを得ないのでしょう。ここで弱気になってはすべてが無駄となります。ええ、みなまで口にされずとも、わたしでさえ理解できます。わたしも時折恐ろしくなります。城の力は絶大です。姉からもうお聞きになられたでしょう、わたしたち一家のありさまは、城の与える罰が非常に強いことを示すよい例です。あなたが怖じ気づくのも賢明な態度と、姉もアマーリアも賛成することでしょう。しかしわたしは思うのです、城から逃れるなど、一体だれにできましょう? 貴紳荘に群がるひとびとをご覧になられているでしょう。村の人間はすべて城と通じることによってのみ、落ち着いて自分の物事に取り組むことができる。なしには一切が一歩たりとて進まない。そして城の役人たちは少ない人数で訴えすべてに決を下している。そうでなくては公平性を保つことができない。必然、万事がゆっくりとしてしまう。仕方がないことなのです。よい知らせを待つのに辛抱の限界というものは確かにある。しかし他に道はありません。わたしは昼と夜となく働いてきました。これからも、測量士さまのために尽くしてまいります。その上、これまでのところ、はっきりとは見えませんが成果が出ています。ですから、もうしばらく辛抱していただくのは無理な相談なのでしょうか? 新しい土地にやってきて、しかし一時が過ぎると新鮮味が消えてしまう。すると、もうこれ以上変化など起こらないと感じる。あなたは城に近づいています。もちろん、わたしの言葉など保証にもならない。だからここにガラーターさまから手紙を預かってきているのです。お願いですから、これをお読みになってください」
 Kは雪に刻んだ模様を踏みつけて平らにならした。バルナバスの長い話をほとんど聞いていなかった。説得に応じる余裕がないのは事実だが、耳を貸さないと決めているわけでもない。自分は次にどう打って出るべきかで頭が一杯だった。話を十分に理解せずとも、最後の二言だけでめざましい変化がないのがわかる。立場は多少改善しているとも考えられる。だが同時に、自分の境遇は大きくはなにも変わらない。Kはそう見当をつけた。そして、長らく馬小屋に留まったはてに出てきた答えを告げる意を決して、バルナバスの方へ向き直った。
 「城とはなんだ?」
 と、Kは言った。
 「なぜきみは城に行けないのだろう? いや、バルナバス、きみだけじゃない。実際に城に行ったことがあるものが果たしてこの村にどれくらいいることか? クラムがどうだ、ソルティーニやソルディー二がどうだとはやし立ててはいるが、役人を見ただけに過ぎない。話をしたという噂も信じるに足りない。城に呼び出されたときみは言った。しかし本当のところは、きみを呼びつけたのは村に留まっている役人だ。それも、貴紳荘にうろついている、酒を飲んで騒ぐかぐうたら眠っているだけの下っ端のやつらだ」
 Kの言葉に、バルナバスの顔はすっかり赤くなっていった。
 「ちがいます。測量士さまはまったくに間違った方角へ舵を進められている」
 Kはバルナバスの発言を振り切って言った。
 「きみたちのする話を、わたしはこの一週間ずっと考えた。ゲルステッカーの母親は一日のほとんどを眠りに費やしている。ひとりで静かに物思いにふける時間はたっぷりある。さきほどきみは、ガラーターとやらは満足していると言ったね。しかしわたしはいつ仕事をしたのか。これは一体どうしたことだ。助手の二人が城に訴えを出した。自分たちを任務から解いて欲しいと言って。きみもその場にいたのだ、覚えているだろう。城はわたしを罰してしかるべきだ。状況をよく考えてみると、なにひとつおかしくないことがない。むろん、橋亭の女将や村長が望むような結末を逃れたくないわけではない。わたしはただのなげやりからこう結論付けたのではない。さて、落ち着いてじっくりと観察するところ、城に近づこうと動き回ればなにも得られず、一方、与えられた職務を放り出し村で静かに怠けていると、幸運が馬のように駆けてくる。この土地でなくとも一切がそういう風に運んでゆくのだと考えることもできる。だが、わたしは測量士だ。伯爵さまにたのまれてしまったからには、まじめに働かずにはいられない。実のところ、わたしはずっと大きな成果を上げた。馬の世話をしているだけのように見せて、本当は自らの職務にいそしんでいた。そう言ってしまえば、きみの懐に手紙があるのも道理だと思うだろう。測量の成果を称えている。そういう可能性もある。しかしわたしにそれを読むつもりはない。もう仕事は終わりだ。測定できるものは片っ端から測定した。わたしはこれから橋亭に向かいフリーダを迎えにいく。酒場ない時に女将を手伝っている。日が沈めば彼女は酒場に行かなくてはならないが、まだうんと時間は残っている。春が来ている。バルナバス、わたしはきみに伝えておかなくてはと思った。だからこそ会いに来た。君たち一家の役に立てなくて残念に思う。ふさわしくない扱いによく君たちは我慢していると思う。村のものもいつか分かってくれるだろう。きみたちはいい人たちだ」

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