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週末、東風が吹く 4/7

 不器用さに端を発する少なからぬ失敗、場違いさに興を見出す捻くれた性向による独善的な軽口、それらで今日もマキを苛立たせては、メイコの倍の時間をかけて変身過程を終える僕は、アースカラーの着物に夕焼に似た薄紫の帯、曇り空を写す海の紺の羽織を身につけていて、『ムーン・リバー』で暇を潰すメイコにギターを手渡される。が、ケースという概念はハックルベリー・フィンと一緒に旅立ってしまったみたいだ、戦場へ赴く一兵卒が抱える銃剣のごとく、ネックを握りストラップを肩に掛けて前後に揺らしながら、僕はギターを引き連れ、メイコとマキに連れられて屋外に出る。そのまま再び、バス停で停まっているバスに飛び乗るが、もちろん、好奇な衆目は僕を放っておいてくれない。車内、金髪碧眼、人形みたいに美しい男の子の一団は、つり革を握り立ち尽くす僕を取り囲んでは、ベビージムで戯れているのと似ているのだ、ギターを叩いてくる。「実はこれ、思いの外危険なんだ。今に誤って発砲しかねない。気をつけてくれたまえ、諸君」。そういうも、僕の言葉なんてやっぱり誰も聞いていないのだ、子供たちはギターと僕をおもちゃに遊び続け、調子のいい拍子を取っている。ひょんな拍子、それは偶然にも僕のくしゃみと一致して、開放弦が鳴る。僕はフレットを押さえてやる。「グット」と子供たちは僕に告げ、無数の手のひらが弦を狙い撃つ。指が足りなくなり、仕方なくカノン進行でコードを押さえる。そのうち、単調に思えてきたのか(カノン進行なんてもう飽き飽きだ、子供ですら)、彼らは蜘蛛の子を散らし、バス最後方の席を占領する。そして各々、ダウンジャケットのポケットから、チョコレート・バーを取り出し、パンのみで人は生きるにあらずとは言うものの、やはり依然腹は減る、一心に頬張り出す。マキとメイコの二人はクスクス笑っていて、いくらか満足そうである。ひと安心する僕と口の周りを黒いクレヨンで独創的に彩る子供たちを交互に見ている。気づけば、外は暗く、というのも英国庭園に入っているからで、そこは僕らの目的地だ、蛇のように曲がりくねった道は常緑樹に囲まれている。そして何度目かの停止で、マキが立ち上がり僕に目線をくべる。ふと僕は子供たちの方に目を向けてみる。彼らは可愛らしく手を振ってくれる。「君は子供に好かれるんだね」とメイコがバスを降りざま、振り向いて僕に言う。「どうだろう」と返事をする。「でも、N、子供嫌いなんじゃなかったっけ?」とマキが話を悪い方向へと進める。「基本的だ」僕は呟く。「概念としての子供は好きだ」メイコが茶化す。そして、やっとのこと把握する。それまでもずっと肌で感じてきたわけだが、ついに厳然たる認識として、自分が道化じみていると理解する。「そう、僕は今、相当に道化じみている」と考える。「ここドイツで、着物姿、ギター片手に、公共交通機関を利用するなんて、行き過ぎた大衆迎合型の芸人か、そうでなければ白痴でしかない。当然、逸る好奇心で愛すべき小動物であるところの猫を殺しかねないような子供たちは僕に関心を抱く。気恥ずかしく面倒だと僕は感じるが、でも、そもそも僕からけしかけたようなものだ、だから元凶は僕にある。しかし、道化性をまとってはいるものの、この僕は内実、面白みの一片すら持ち合わせない愚にもつかない存在であるから、やはり、チョコバーに後塵を拝する」。視線から消えゆくバスの後ろ窓には、まだ僕に掛けた期待を完全には捨てていない二人がこちらを見つめる。うねうねした路上、僕は天に詫びるみたいに瞬間立ち尽くし、おもむろに神妙な心持ちが訪れ、ギターをかき鳴らす。前方を歩く二人の女性は驚きで肩を震わせる。向けて来るのは、怪訝な顔で、無用な恥じらいを抱える保守的な僕は我に帰れと怒鳴り込んでくる。しかし、僕は現在、奇妙な二重性に遭遇しており、自分が分裂している、我を忘れているというより、我を失っている。だから、及び腰なコンサバ野郎は僕であり、負けじとAコードを鳴らすのも僕だ。その音は森を駆け巡り、空へと霞んでゆく。するとまた、我に帰れとのお達しに、次はEコード。開放弦がよく鳴るギターであると僕は感じている。森中の鳥を目覚めさせるほどに空気が震え、頭の中で鍵が開くような小さい音が鋭く鳴る。転轍器に似た、乾いた冷酷な音だが、なぜだか僕の胸は期待と喜びで沸き立ってゆく。と突然、それまで訝るように様子を窺っていたメイコは、笑い出す。ついには腹を抱えるまでになる。ちょうど嘔吐と同じなのだろう、笑いもまた伝染する。マキも笑い声を上げていて、目には涙が浮かぶ。一層に混沌を掻き混ぜたいと望む僕が現れ、出まかせで意味不明な曲を歌い出す。コンサバ思想においては無価値な言葉の連なりだ。が、マキとメイコの二人は笑い続け、僕自身も晴れやかな気分、畝った道を進んでゆく。緩やかな坂道を登る先で、たどり着く。昨日僕が迷い込み、時の摂取に余念がないと評した広場に。

 窪地に広がる空間は、日曜日だからなのか、宝石に思えるガラクタで一杯になったテントや移動車があり、パンの王国らしく、香ばしい香りで包まれている。見下ろす風景は昨日とは全くに異なっており、木枯らし吹く夕暮れに代表される、冬の一側面である物悲しさを醸す燻んだ色合いは、コロンビアやらパタゴニア、ジャックウォルフスキンやノースフェイスなどのカラフルなダウンジャケットを纏った老若男女に彩られ、一晩にして孵化した蝶のよう、目を見張る華やかさである。あちらこちら、人は輪を作り、笑顔を交わし、飲食と会話に忙しなく口をぱくつかせる。輪に組みさないものは皆、誰かと横並び、多くは肩を寄せ合い、手を繋ぎ合い、一見それとは分からないような、殻に包まれた豊かな幸福感が浮き沈みしている。もうすぐクリスマスなのだ。日本で生産された僕らでさえ、その所以を十全に理解せずとも、ふとした幸せな追憶に浸る時節、世に倦んだような、ぶすっとしたしかめっ面、ロシア小説みたいに人生の意味に煩わされているなんて馬鹿らしい。時は、心沸き立つクリスマスだ。トリュフォーの『華氏四五一』でモンターグが辿り着いた森のよう、ここではきっと、生の豊かさを心ゆくまで享受することができる。つまり、人間らしくあれる。ギターのネックを握るままに、僕は風景に吹き込まれた想像を膨らませて感慨に耽っている。隣、マキは丸々とした二つの目を輝かせ、その視点は美しい花の周囲を飛び交うミツバチだ、素早く様々に動いてゆく。メイコはといえば、同じく景色を目に映し出しているはずではあるが、その冷たく細い楕円には、一切の感情が描かれていない。

「あの木の下なんてどう?」マキが口を開く。「あそこで、Nは即興詩を披露するの。ほら、手前が開けてるから、見物もしやすいでしょ?」

 即興詩?

「私、巾着持ってきた。まあこれじゃ足りないかもしれないけどね。マキちゃんがクリスマスマーケットで買い物するくらい容易いほど、ここは金が一杯になるでしょう。当然、すべて君に掛かっているわけだけど」と相変わらず涼しい表情だ、メイコは僕に告げる。

「素敵なお店がたくさんあるから、Nも気に入ったもの、見つかるといいね」とマキ。

「週末は商業主義との決別にうってつけだ」僕は誰に伝わるでもない言葉を呟く。

 沈黙。

「ぬかるみでこそ人は真なる姿に帰る、と賢者は言う。まあ、大丈夫、君は芯からの芸術家、きっとここにいる人たちは心の底から感じてくれる」

「シビュッラの神託か」僕は呟く(ソクラテスを路上に放ち、哲学が生まれてしまった元凶だ)。手元に花束を一杯に抱えて、前後左右、視界が塞がれ挙動が困難であるように、二人に囲まれる僕は、進むべき方角を見定められず、呆然としている。

「ちょっと待ってくれよ」と僕は情勢を思い出す。「僕にはそんな才覚は無い。昔、バンドで歌っていたのは事実だ。けど、気に入ってくれる人は手のひらで数えられるほどしかいなかった。それに、半年以上、人前で演奏していない。一曲丸々通しでの演奏さえ、出来っこない、多分、いや、今回は断言するよ、絶対だ、きっとピエロになる、駄目だ」。『ピエロでいいじゃないか』誰かが僕の耳元で囁く。「格好で人目は惹けるかもしれない。けど、嘲笑の眼差しが通り過ぎてゆくだけ、金儲けなんて夢のまた夢だ」。『夢をいくつも渡ってゆけばよい』と無責任な空想家が告げる。

「私、Nの歌とっても好きだよ」とマキが僕の言葉に被せ、それにメイコがさらに被せる。

「君は何のためにドイツに来たの? 今ここでこそ、変わるべきじゃない?」

 口からも頭からも言葉を強奪され、残るのは僕と言う存在を象徴するような、ふむという短い間投詞。二人の目線は交差し、悪戯の成功を確信した子供だ、彼女たちは一様な仕草、似通った笑い、寸分違わない歩幅と歩調で、緩い坂となった砂利道を下り始める。ままよ、と僕は呟き、二人の背を追う。結局のところ、生きることは道化を演じるのと同義だ、と自分に言い聞かせる。すると、自暴自棄からか、諦念に達したからか、僕はにっこりとした表情を浮かべ出す。森の中の群衆を掻き分け闊歩してゆく日本の親善大使一座に浴びせられた好奇な視線に、満面の笑顔で対処している。次々と視界に映し出され消えてゆく、青い目をした白々しい整った顔立ちの人々。口角を上げ、目を丸くしている。しかし、心なしか、訝っているようにも感じられる。傷付きやすい思春期の少年が、好奇心と猜疑心の狭間で揺れるのに似ている。あるいは、真逆だが、束の間の休戦で緊張を緩める兵士が絶やさない警戒心にも似ている。つまるところ、僕には彼らの内面が一切読み取れない。だから、矛盾した印象を抱くのだろう。その言語と同じ、ドイツ人が送る無音のメッセージは、僕を通り抜けるだけ、認識可能なものを何一つとして残してゆかない。だが、可視外である紫外線が肌に与える悪影響のように、一抹の不安、歯痒さが僕の胸の内には積もっている。それは徐々に、苛立ちとなり腹を煮えくり返すこともありうる、怒りは心におけるシミの広がりなのだから。しかしどうだろう、思えば、日本で暮らしていても、結局のところ、僕らは互いに発する意味を分かり合わないまま、他者を嗤い、自身の価値基準に逃げ込み、呪いの言葉を吐き続けていた。同じように、他者は僕を損ない、おそらく僕も彼らを苛立たせた。つまり、要は、程度の問題はもちろんある、が自我を抜け出した正確な認知など、そもそも人は出来っこないのだろう。プラトンの、使い古されてはいるが、今だに真価を失ってはいない、件の比喩が余すとこなく示すよう、僕らは永遠に洞窟から抜け出せない。だから、日本において、部屋の外で出くわす輩の無意味なお喋りや、虚栄心と怠惰に満ちた行動のいくらかに適当な解釈を与えていたように、ドイツにおいてもまた、いくらかを把握し何らかの評価はもちろん可能だが、しかし依然として、絶対的に知覚し得ない要素は散在している。灯台が足元を照らさないように。ゆえに、結果として、理解し得ない外界を人は嗤うことにする。それは不可避なのだ、なしには自己の正当性を保ってはいられないのだ。基本、僕らは他者の、稀に自身の、意味不明な言動を嘲笑う。空想上で愚者の烙印を押し、蔑視を添えて認識外へと廃棄する。時に怒りをも抱いたりと、ゴミの分別に似て、反応は様々だ。そう考えると、理解し得ない相手を笑うのは、生活営むにあたり不可欠であると言えるが、どうしようもなく、今、僕が感じているのは、それはとても非倫理的だ、ということだ。理解を超えたものの全てを軽蔑し、怒りをぶつけてばかりいたら、一体、どうやって自分の理性を広げることなどできるだろう? 群衆を抜けた知者は痴者となるしかないのか? 人は永遠に魔女狩りをやめないのか? 僕は自分だけを嗤う、そして自身にのみ怒るような人間でありたい。これは、気狂いピエロとして、忘れてはならない規範だ、一つの真なる美学だ。誰かを呪わぬよう、悲しませぬよう、あまつさえ殺さぬよう、僕はピエロになる、歴史上、比類するものなき敬虔なピエロに。マキとメイコが足を止めるまでに、僕は思いも寄らなかった過程を経て、道化を演じる決心を固める。

 僕らが腰を落ち着けるのは幹の上。どうしてそうなったのか、その樹齢百歳をゆうに超える高さ十数メートルの大木は、太い幹を幾重にも束ね天を指向する形になっていて、まるで刺繍糸みたいに絡み合い無限の可能性を孕んだ数多の並行世界が辿る一筋の確定した世界線を想起させる。地表近くは地獄から這い出て来た八岐の大蛇のごとく綾を成している、その一つは座ればちょうど足が触れるか触れまいかの高さで、目を付けたのはメイコ、マキは素敵なベンチだと評する。僕らは、それまでのじゃれ合いから我に還る時間を要しているのか、しばらく黙ったまま、東からの風に頭を冷やす。メイコは定まらない視点で人混みを眺めている、時折、雪のひらが降ってきたと思わせられる、脱力しきった手のひら返しては、それをじっと見つめて、ゆっくり手を上方へ伸ばす。やおら項垂れ、何か唸り、その視線は再び群衆へ注がれる。メイコと僕に挟まれるマキは、『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』のBメロを鼻歌で歌いながら、Aメロに戻ろうと悪戦苦闘、店の目星を付けているのだ、丸々とした両の目を、矯めつ眇めつ、黒々と輝かせている。背後は深い森が続く。地面は、笹に似た葉を生やす草に覆われており、振り向いてじっと見つめると、幹と地表の間、空洞が形成されており、僕らの下で口を開いているのに気づく。腹這いになれば入れるくらいの大きさ。だが、やはり狭く、陰になっており先は知れない、地面は朝露の残滓で湿り気を帯びていて焦げた茶色、奥の薄暗がりでふとした一瞬、数珠の煌めきに似た何かが光る。そしてすぐさま立ち消える。

「よし」とマキは唐突に反動をつけて立ち上がり、幹が微かに揺れる。彼女は賛同を求める演説家みたいに頷きを添えて両脇を見比べ、僕に「ほら、こっち向いて」と、メイコに向かい「さ、それじゃあ、担当を決めようね」と言う。そして再び同じやり方で頷き、演説を始める。「今日は私たちがここドイツにて、自分たちのアイデンティティを正しく発揮し、みんなからの絶賛を受ける記念すべき一日になります」

 その宣いに対し、僕はふむと、メイコは無言、こくりと頷く。

「私たち三人は、その目標に向かって一丸になり取り組まなくちゃならない。そうじゃないと達成できない。大変な難題なの」。僕はふむと、メイコは無言で頷く。「そうだね、そうそう」とマキは僕を見つめる。僕もマキを真っ直ぐに見つめる。「だからN君、君は素晴らしい即興詩を歌ってくださいね」

 僕の心臓は制御を失った機関車だ、火夫は大抵、乱暴な輩なのだ。唐突に投炭しては、その量は行き過ぎている。

「即興詩!!!」汽笛が高鳴る、意味もなく。

「うーんと、まずは落ち着いて。上手な演奏してね、ってことだよ。ギターと歌で」

 なるほどと僕が引き下がる脇、隣の女性が静かに微笑む。そして、文脈の読めない人、という表題を貼り付けるかのごとく、その視線は僕の輪郭を一周なぞる。

「メイコは、投げ銭の回収と写真撮影をお願い」。涼しいまま、メイコは肩に掛けた古いフィルムカメラを膝に置き、袖の下からピンクの唐草模様が描かれた巾着を取り出す。

「マキは何をしてくれるんだい?」と僕は訊ねる。「一緒に歌ってくれるかな?」

 マキは首を振り答える。「ううん、私はお客さんの呼び込みをする。歌う暇なんてない」

「マキちゃんだけがドイツ語話せるしね」とメイコが同調する。

 仕事量の比重、成否を決める責任の分担が不平等である。ピエロに人権はないのか? ならば僕(ら)は公民権運動を決起するべきか? いや、だがきっと上手く口が回らなかったり、意味不明な文言に野次を飛ばされて引き下がらざるを得なくなり、それと前後して「該当事項はアファーマティブアクションに当たります」とか、「ノブレス・オブリージュですよ、あなた」とか担当者に言い包められ、とぼとぼと家路を辿るのが関の山、僕(ら)には事態を望む形へと変容する能力はない。ピエロなのだから。ただ、従容と、祈りみたいに、小さいな笑いを絶えず積み重ねてゆくしかいないのだ。

「きっと上手くいくよ」とマキは僕が抱く若干の反感もどこ吹く風、計り知れない深みと大らかさを湛えた大海の笑顔を添えて励ます。「大丈夫、心配いらない」

 母なる海へ呑み込まれてゆく僕に、メイコまでもが笑い掛けてくる。やはり、女性が二人束になれば、打ち負かし得ない個人などない。

「君の歌は、きっと彼らの胸にも響くよ」。マキと同じだ、メイコにも奇妙な真に迫った様子がある。

「というわけで」とマキ。「三十分後に開始します」

「今すぐはやらないのかい?」と僕。半分、破れかぶれ、残り、道化になる決心が揺らがないかと恐れている。

「うん、わたし、経営面で調べておくことがあるのです」とマキ。

 経営面? 泡の疑問符を半開きの口から吐き出す僕に、耳元、メイコが囁く。

「マキちゃんが求める品は、いくら集まれば買えるのか、ってことだね」

 なるほど。しかし、二人は思考をクラウド共有しているみたいだ。僕はそう伝える。

「クラウドか」とメイコは何故だか笑う。「人の深層心理は地中深くで繋がっていると表現されるけれど、別段、雲の上の方が、ロマンがある。ふふっ、君は本当に、ユニークな芸術家だ」

 メイコは、いたいけな少女のような笑顔を浮かべる。僕にはその面白みが分からない。やはり、文脈を理解できないのである。やにわ、メイコは真顔に戻り、「マキちゃん、じゃあ行こうか」と僕から離れてゆく。二人は、広場を彩る人の中へと加わり、消えてゆく。


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