見出し画像

島の方へ 1/4


 夢を見る。宇宙空間に匹敵する速度で、あるはずのない世界が膨張してゆく。イメージは波となって、漂う私を絶え間なく別の地点へ運んでゆく。きっとこの旅に終わりはやって来ない。重力が肉体をすり減らしては死へと導こうとも、死ぬのは常に他者であり、人はKのように彷徨い続ける運命にあり、結局のところ旅とはためらいに他ならない。目的地は本来的に失われている。まやかしにのみ永遠は存在している。幸福は求めるためにあり、どうしたって結末とはなり得ない。これは物語ではない。そう知っていてなお、この終わりなき流転の中で、私は空と海の外れに懐かしい夢を見る。

 私は十五年前と思しき時点に来ている。ここでは私の求める存在が息づいている。死んでしまった祖母が、消えてしまった父が、失われた幸福が。青い空に消えた名もなき雲が集う地、この場所はM島という。地図を開こうと薄い青に塗り込められているだけ地点。やはり地図が示すものは概ね正しいが、無論大きな間違いを孕んでいる。確かにここは一面の海が広がっている。だが、海の中心には島が一つ浮かんでいるのだ。
 M島は地球上を巡るあらゆる事象と隔絶した失われた世界のようだ。
 曇りなく晴れた日には、空の抜ける青が彼方まで延びる。すると二つの青は際無く混ざり底知れない深みを湛える。地平線が払われてしまうほどに青はどこまでも深い。天候の優れない時でさえ、島は依然として幻想の様相を帯びている。視界のすべてが灰色となり、一面の灰が荒々しくうねり、大きな低い唸り声を絶え間なく上げており、遍く一切が裁ち切れてゆく終末が訪れる予感に満ちている。
 島に流れくる人間など殆どない。常に激しい波が打ち付けている。近海は西から黒潮が直撃しているのだ。M島はマグマの水蒸気爆発により形成された火山島であり、その外周は緩衝体たる砂浜の僅かにさえ無い一面の断崖絶壁となっている。真北の方角、崖下には十メートルばかりの桟橋が突き出す。木枯らしに吹かれる一葉に似たこの港は(方角に基づきキタノトと呼ばれる)、かつて外部と交易を図ろうという目論見があったことを示している。示しはするが、利用されるのは数年に一度あればいいところ。観光など出来るはずもなく、訪れるのは役人や学者のみ。彼らは命を賭して船に乗ってくる。この唯一の連結点は防波堤がない。荒ぶる海が休まることはない。着岸はおろか停泊すら困難であり、仮に船を係留しようものなら、一晩で地平線のあちら側に流れ去ってゆく。遠くに広がる陸から見れば、島は一切を拒絶しているように思える。
 あるいは打ち寄せる荒波に堅牢に守られている土地に、果たして、どの時代に、どんな手段を用いて、いかなる経緯で人が棲み着いたのか、一切は謎だ。生命を脅かされるほどの危機が迫り、本土を離れた遠い昔の人間が、数奇な運命と荒々しい波に抗うままに漂泊した末、命からがら流れ着いたのだろう。鎌倉時代後期の文献にM島の名が登場している。よれば、海難事故が頻発するため幕府の手が及ばない、島では十年ほど前に噴火したと巷間で囁かれていた、という。筆は武蔵の国の御家人によるもので、諸国行脚の僧からの伝聞であるため信憑性に欠けるわけだが、古くから火山がもたらす災いに悩まされていたのは事実である。十八世紀の南方海島誌という歴史書に噴火の記録が残されている——一七一六年、大きな爆発音とともに火砕流が生じては火山灰が村一帯に降り注ぎ、島民は近海の島や本土へ避難を余儀なくされた。史書は、島民の行く末も綴る——噴火から十五年を経て環住が果たされた、が民の数は元の半分に満たないまでに減少していた。慣れない環境に適応できなかったのが原因であるそうだ。島の人々は目に見えて衰弱し、果ては枯れ木のように朽ち死んでいったのだと書かれている。だが、かつての土地に戻ると、島民は持ち前の一徹さを取り戻し、荒廃した村落を数年で再建したという。噴火から四半世紀を過ぎた頃には、島の人口は噴火前の水準にまで回復した。復建の様子を見に島を訪れた幕府のある役人は『我狐につままれたりかな。四十年の歳月も、かの天変地異も、すべてまやかしに候や』と残している。噴火の爪痕は時の変遷を疑うほどに完璧に塞がれていたのだ。まるで、陸に放り出され、酸素を吸い込めず窒息し、乾燥した外気に潤いを奪われた魚が、水を再び得て息を吹き返したように——つまり、島の人々にとって、外の世界は刻一刻と彼らを死に誘う乾いた場所でしかなく、また、島だけが彼らに潤いをもたらす土壌たり得るということなのだろう。そして以来二百年の間、島は日本の版図に組み込まれ、幾つかの政治的困難に衝突したものの(民と土地は登記され、何度か税と兵を徴収されたと記録がある)、切り立った崖が壁となり一切を撥ね除けては、今日に至るまで変わらぬ穏やかな生活を営み紡いできた。世界中を震わせた大戦や革命も島には掠りもしなかった。幕府が隆替し、王政が復古し、憲法が置換されようと、人々は独自の信仰を保つままに安穏のうちに暮らし続けた。
 M島では自然を無数の神に見立てて崇拝している。神は人々を導く存在であり、霊的素質を備えた女性に憑依して託宣を下している。しかし、近海の島々の伝承において、M島はかつて戦士としての才覚を有する屈強な男だけが集められた軍事養成地であった、あるいは、戦い以外に取り柄のない凶悪な男どもを閉じ込める流刑地であった、はたまた、鬼の棲み家であったとさえされているのだが、不思議なことに、いずれにも共通するのが、女人禁制であったという文言だ。その真偽がどうあれ、M島は、謎に包まれているがゆえに、無数のおぞましい想像を掻き立ててきたに違いない。海の果てにあるとされた奈落の滝のように。しかし、島で暮らす人々にとって、M島は世界の全てであり、命が始まり終わる場所だ。島に生まれたものは大方、死ぬまで変わらず島で過ごす。ゆえに私もまた、この島で日々を延々と繰り返してゆく運命にある。私の暮らすトキワマンサクの生け垣に囲まれた古い平屋は、祖父母の、父の、母の、そして私の死ぬ地だ。いつからか私はそう確信している。島はわたしたちの全てだ。過去も未来も、なにもかもがここにあるのだ。小さな祈りのように、幼い私は胸の内で繰り返す。永遠にこの安穏が続きますように、と。しかし、大人たちはみな「いつか再び安穏が潰える」と知っている。

 火山島であるM島は、マグマの影響で山頂が陥没した凹地、いわゆるカルデラが二重に形成されている。二等辺三角形の角それぞれが丸みを帯びた形状の島は、外周から中心に向けすり鉢状に凹み、中央部分で再び小さく隆起しており、その丘もまた中央が窪んでいる。外輪山と内輪山の合間が集落の築かれる地区だ。人口は、一時的に居住する研究所の職員を合わせても——島の南西には地熱発電の研究施設がある——百に満たない。そのため、誰もが互いの姓名を把握している。苗字は土地の名称から採られ——かつて島では地名と名前のみで認知が行われていたが、明治期の戸籍編成で便宜的に地名を苗字とした——イケノザワ、ハマダイラ、ミナトなど十二氏に限られ、殆どが池や沼、川、沢、それに浜や浦という、水に関連する語句を含んでいる。名が水に関係しているのは、水を神聖視し、畏怖の念を抱いているからではない。確かに、島は海に守られ、荒い波が人々の命を危険に晒してはいるが——私たち子供は外輪山の外れに行くのを禁じられている——実のところ信仰されているのは、ダイダラボッチに似た大地神である。恐らく、私たちの遠い祖先は、なにもない海の真ん中で安穏の内に暮らすことができるのは、奇跡に相違ないと感嘆したのだろう。
 島の土壌は非常に豊かである。漁業が不可能であるにも関わらず、畑では芋が育つ。内外両輪山に茂る深い森ではアシタバやトケイソウの赤い果物を採ることができる。だから、食物は十二分に足りている。稲作を行えるほどではないが、水資源も豊富であり、数え切れない沢が島中に走っている。その本流はオミサワといい、内輪山中央のたまりを水源とし、集落の中央を通過し(私の家の傍を横切っている)、外輪山の麓は北北西で小さな穴へと消えてゆく。終わりの穴には純粋な闇が広がっていて、また子供すらも入り込めないほどに小さいため、どこへ繋がっているのか誰も見当が付かない。信仰の一つでは、その穴は内輪山のたまりへと繋がっているという——つまりオミサワは永遠の循環を象徴している。このような神秘性があるためだろう、オミサワの水は島の年中行事に用いられ、その際、セイホウと呼称されるようになる。島で最も重要な儀式は冬至の夕べに行われるカンナンサマであり、オミサワで南北に分断される広場に島民全てが集う。人々は円陣を組み、中央では社人が、子供一人がすっぽりと入るくらいの大きな壺を用いて内輪山の石場に生息するウブスナという赤い木の実を『セイホウ』で煮出し、赤黒い液体『タビ』を拵える。そして、巫女の一人がタビを柄杓で汲み、口に含んでは足下に流れるオミサワに吐き出し、壷の中身が尽きるまでずっと同様の行為が繰り返される。その間、人々はみな恍惚と押し黙っている。夕日に照らされるオミサワに流れているのが、まるで自らの血液であると言わんばかりに。
 タビを口にしたものには神が乗り憑り、未来予知に似た、常人ではありえない早耳を得る。伝承に従い、カンナンサマの巫女は続く一年の間、収穫や火山活動、船の出航など、島の命運を左右するような出来事に関して、インディアンの酋長のように、あらゆる形で意見を求められる。三十年以上もの間ずっと、祖母はカンナンサマの巫女を務めている(行く末は私が彼女に取って代わると言われている。巫女の役割は血筋で継がれてゆくそうである)。私は祖母に誰にも分からないことを教えてもらおうとする。ここのところ、父の仕事について訊いている。開発が成功するのかどうか、忙しくなくなるのはいつなのか、と。祖母は優しく笑ってこう返すばかりだ。「あたしにゃ、カミサが教えてくれんことはわからないねえ。ま、悪いことは起こらんよ。カミサが何も言わないんじゃねえ」
 祖母は生まれてから一度も島を離れたことがない。母も祖父もまたそうだ。外で暮らしたことのある人は殆どいない。変化のない生活に見切りを付けて島を出て行くものもなくはないらしい。しかし、彼らが戻ってくることは滅多にない。だから、伝承全てを聞かせることのできるハマイのおじいさんも、知らないものはないほどに島の動植物に通じているヒロサワ先生も、島を出た先にあるものに関して、私に等しい知識しか持たない。私が知る限り、海を渡った先の世界を知るのは一人だけだ。

NO MONEY, NO LIKE