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島の方へ 4/4


 その時、時機を見計らったかのようにアマーリアがスキー板を持ってきた。Kは無言で受け取ると荷物の分だけ重くなっているはずの体を軽々と前に運んで分厚い雪を踏み分けてゆく。背後でバルナバスがどんな表情をしているのか気になった。アマーリアに別れを告げるべきかと迷いが生じた。だがKは振り向かなかった。雪を裂く自分の足音が心地よく耳に響いていた。バルナバス一家の境遇を思って少し胸が痛んだ。しかししてやれることはない。あの不幸な兄弟は近いうち両親から解放されるかもしれない。だが救われはしない。暮らし向きはさして変わらないままだろう。すべてが元通りという運びになるには、状況は複雑すぎる。城は絶対にアマーリアを許さない。村の目は偏見を改めるには城との繋がりが強すぎる。だが、だとすれば役人の気まぐれ次第でなにもかもが一変する。そっぽを向いた人々も、小さなきっかけで真相を取り違えていたと知ることとなるかもしれない。例えば、これまでとは真反対の決定が書かれる書類の発見で、なにからなにまでひっくり返る。熱の傾け度合いに応じて判決は大きく変化する。大きな町であれ、この小さな村でさえ、役人の曖昧さを人々は命綱としているのだ。
 Kは深い思索に沈み込んでおり、気づいたときには目の前に橋亭の大きな扉があった。
 ノックを聞きつけると女将が出てきた。Kを一目見ると、いたずらをした子どもが自分の悪事を隠そうとしているような落ち着かない慌ただしい表情が浮かんだ。
 「フリーダがいるはずだ」
 Kは戸にスキー板を挟み、右手で取っ手を握ると、思いっきり引き寄せた。女将が立ち塞がったが、Kは彼女を押しのけ中に入った。
 「いつまでも許さると思ってはいけませんよ」
 女将の声は大きかったが、怯えているのか震えていた。Kは気に留めず階段を上がって、右から二番目の戸を開いた。フリーダと過ごした部屋だ。見慣れたベッドには女中着が置かれている。机の上は化粧の入った瓶や口紅が散らかっている。そばには読みかけの本が下向きに閉じられており、だれかが部屋にいたのは間違いなかった。
 Kは床に転がった旅行鞄を拾い上げてタンスの中身を詰め込み始めた。すぐさま廊下からバタバタと足音が聞こえる。
 「ここにはフリーダはいない」
 女将だった。Kはうんざりして自分の作業に戻った。
 「わたしを困らせて楽しんでいるのでしょう。本当に恐ろしい人ですね」
 「どういたしまして」
 Kは鞄を満杯にすると、部屋の壁を一枚一枚叩いて、隠れているものがないか確認した。
 「このスキー板はあのルンペンのものですね」
 と女将は言うとKに詰め寄って鞄を力一杯引っぱった。下着が何枚か床に落ちた。
 Kは女将を振り払ってやにわに部屋を出た。女将が追いかけてきた。彼女はKを追い越すと階段の手前に陣取って両手を思いっきり広げた。Kは立ち止まって真っ直ぐ女将をにらんだ。
 「ここにはフリーダがいる。どこにいるのか教えていただければ面倒は起こさないつもりだ」
 Kはきっぱりと言った。
 いいえと女将は首を振った。Kに怯えているのか、うなだれている。
 「あの子が酒場に戻ってからというもの顔も見ていません。きっと元の生活に戻って、忙しく幸せなのでしょう。あなたに会う暇などないはずです」
 と、女将は声を震わせた。
 「それは新しく入った女中の持ち物です。エミーリエと言うのですが、彼女はあなたとどんな関係もありませんよ」
 Kは右腕に抱えた鞄をちらりと覗いてにんまり微笑んだ。
 「あなたは嘘ばかりつく。これはフリーダの持ち物だ。あなたはご存じない。だが、これはフリーダが好んで縫っていた模様だ。星状のまん中で三本が突き出している。タンスの服も見覚えがある。あなたはフリーダのためを思っていて、だからわたしの妨害をするのでしょう。しかしわたしもまたフリーダの利益を考えている。あなたに迷惑といって、フリーダの害とは限らない」
 やおら女将は広げていた両手をゆっくり斜めに下ろしてKを指さした。彼女の目は大きく見開かれていて、焦点はKの奥にあった。指していたのはKに見えるが、Kではなかった。
 「いけません、いけませんよ」
 と、女将は繰り返した。
 Kは背後に鈍い足音を聞いて振り向いた。フリーダがいた。少しやつれていた。酒場に舞い戻って幼なじみと暮らすのもやはり苦労が多い。落ち着きのない役人たちにビールを運び、客のすべてを満足させようとあちらこちらに気を配る。神経を張り詰めた仕事のあとも、落ち着けるはずの部屋に戻ると病人がいる。看護は一層と気を払う必要がある。確かにひまがない。この生活はフリーダにふさわしくない。出会った頃の華々しさは消えて、みすぼらしい姿になっている。自分と一緒に来るようにと強引に説得するべきだった。すべてを諦めて放り出してしまったのを、今になってKは悔やんだ。そして、だがまだ挽回は可能だ、とKは思い直した。
 「フリーダ、なぜ出てきてしまったのです」
 女将は泣き出した。
 「あれほど、危険だと話したはずですよ。この男に近づいてはいけません」
 フリーダはぼんやりと立ち尽くしていた。顔は血の気が失せ、両脇に揃えられた手のひらは痛々しくなるほどにかさついていた。
 「重要な話がある。二人っきりで話をしたい。きみの部屋でもいいんだが、どうもあそこは戸が薄い」
 と、Kは優しい口調で言った。
 「いいですか。この男に耳を貸してはいけません。城を出し抜く、村を出て行こう、すべてが詭弁です。散々欺かれたのを覚えているでしょう。当たりのよい言葉になびいてはいけませんよ、フリーダ」
 と、女将は言うと大声を上げてKをののしり始めた。
 「もう、きみを非難しようと思っていない」
 と、Kはフリーダに言った。女将はするにまかせておいた。
 フリーダは微かに一度頷いて体の向きを変えた。手のひらを振ってKを呼び寄せた。フリーダは先ほどの部屋に入っていった。タンスの傍には隠し戸があった。そこから階段が下に伸びていた。
 「女将さんのことは気にしなくていい。どこにだって連れてゆく。あなたがそうしろと言うなら」 
 と、フリーダは言った。
 二人は暗い通路を下っていった。あちこちで蜘蛛が巣を張っていた。

「お父さん」とわたしは口を挟む。「もうすっかり眠くなった。今日はここまでにしよう」
 少し俯く父の顔は髪で覆われ、微かに覗く口元が笑みを浮かべる。
「メイコは優しいね」と父は私にそっと近付くと、私の体を抱き寄せる。「強いだけじゃない」
 痩せた父の体はだが大きく温かい。髪を撫でる柔らかい手に、私は気持ちがよくなって目を閉じる。
「疲れてるのにありがとう。とっても面白かった。明日もお話してくれる?」
「ああ、約束するよ」
 父の体から離れて、私は小指を差し出す。父も小指を差し出し、私の小指に絡める。父は手に幾つかべとついたシミを付けている。掘削器具に用いる油だろう。
「本当に、Kは村から出ていってしまうの?」とやおら私は訊ねる。
「どうかな」と父は笑う。「どうかな、ぼくも知らないんだ」
「大丈夫?」と私は父の顔を覗く。やはりなにかを怖れているように見える。いつもの穏やかな笑みが浮かんでいても、重い陰がこべりついている。
「大丈夫さ」と彼は口を緩ませる。
 私は父の表情に唐突に泣き出しそうになる。父は笑っている。だが、まるで夢に現れた死者であるみたいに、目はすっかり虚ろだ。目の前にいる私ではない、ここでない、ずっと遠くだけを見ている。
「安心していい」と父は私の不安げな眼差しに答える。「お父さんは確かに、今混乱しているのかも知れない。でも、明日になれば全部が元通りになるよ。きっとこのままのぼくじゃ、Kは城の中に入れないだろう。メイコ、もし君が止めてくれなかったら、Kはまた別のどこかで彷徨うことになっただろう。ありがとう。きみは本当に、だれよりも正しい答えへと導く力を持っている」
 父はもう一度、私の頭を撫でる。
「ぼくが駄目でも、メイコならきっときちんと終わらせることができるさ」
 私はその言葉に怯える。父は『城』を終わらせるつもりがないと言っている。つまり、私との約束を守るつもりがないと言っている。つまり、父はもう大丈夫じゃない。激しく混乱し、バラバラに裂けてしまっている。
「おやすみ」、父はそう告げて立ち上がる。
 瞬間、私は脳裏に深い青色の海にすっぽりと呑み込まれてゆく父を垣間見る。
「お父さん」と私は不安に駆られて大声を上げる。
 父は柔らかく微笑む。そして私はなにも訊ねられない。努めて笑みを浮かべ、おやすみなさいと返すだけだ。
「また明日、メイコ」

 父が部屋を去ると、私は明かりを消してベッドに潜る。すぐに眠りは訪れる。
「メイコ」
 唐突に声がする。呼吸に等しい、窓越しの風にかき消されそうなその小さな囁きは、父のものだ。
「きみは特別だよ。おばあちゃんやお母さんと同じさ。大丈夫、きみなら城にたどり着ける。その先へ越えてゆくことができる。この海だって、きみなら、きっと」
 父が夢に出てきてくれている。私はそう思って。どこに向けるでもない曖昧な笑みを浮かべる。
「あなたがそうしろって言うなら、私はどこにだってあなたを連れてゆく」と私は呟く。

 次の日は水曜日。昼を過ぎる頃に、空は一面の灰色に包まれる。地平線からは分厚い雲が延々と湧き上がっている。やおら大きな爆発が生じ、島が揺れる。降り注いだ難を逃れようと、強い風の吹きすさぶ中、荒れ果てた海へ、私たちは命からがら乗り出す。私たちの乗る船を海が弄ぶ。大きな揺れにだれもが恐怖で目を閉じる。そして気づけば眠りに落ちている。目が覚める頃、知らない岸にいる。周囲は見たことのない存在で溢れかえっている。私はそこに父を探す。どこにも見当たらない。悲しみと寂しさに泣き出しては、それに疲れるとまた眠りに落ちる。だが、何度目覚めようと、望む姿を見出すことはない。いつしか胸の内に抱えた空虚さに慣れている。生活を囲むあらゆる規則が新たな繭となり私を固く守っている。そこは陽だまりのように温かく満ち足りた場所だ。だが、私の紡ぐ物語は少しずつ着実に閉塞に向かってゆく。溺れているわけでもないのに、呼吸ができない。

 私という非現実な存在は、間もなく幸福に幕切れを、不条理に始まりを迎える。私がこれまでに見ていたのは、海に呑み込まれる瞬間に現れた走馬灯なのかもしれない。数え切れないほどの夢を終え、目覚めた私が求めるのは、跡形もなく海に消えたものたちだけ。
 愛は荒んだ。静寂は破られた。平穏は潰えた。永遠はまやかしに過ぎない。だが、人は空想は手放さない。現実がなにをもたらそうとも、いつだって心はそこのみに向かってゆく。

NO MONEY, NO LIKE