山伏の夢
ある山伏が筑前福岡藩を訪れ、藩主黒田長政に、「昨日不思議な夢を見ました。殿が五か国の太守になる夢でございます。」と告げました。
長政は「おぉそれは何ともめでたい夢ではないか!」と喜び、「では正夢になった際は、そなたにご祝儀を渡すことを約束しよう!」と伝えました。
山伏の期待は外れました。
次に肥前佐賀藩を訪れ、藩主鍋島直茂に、「昨日不思議な夢を見ました。殿が五か国の太守になる夢でございます。」と告げました。
直茂は「おぉそれは何ともめでたい夢ではないか!」と喜び、「吉報をもってきたそなたに金子与えよう!」と伝えました。
直茂の近習はこの山伏の黒田家でのことの顛末を聞き及んでおり、主になぜ金など渡すのかと尋ねました。
直茂は「山伏という者たちは、あのようなことを言って施しを受けるのが仕事なのだから、まぁ願いが叶えば良いではないか。」と話しました。
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豊臣秀吉の人物評のお話があります。
側近が、天下人秀吉に「天下を獲りそうな器量の大名はおりますか?」と尋ねました。
秀吉は「いない」と答えました。
秀吉曰く、天下を獲るには大気(覇気)・勇気・智恵の三つが備わっていなければならないとのことでありました。ここでいう覇気とは元気や活気の意味ではなく野心・野望といった意味です。
ただ、三つのうち二つを備えている小者が三人いると話しはじめます。
その三人とは直江兼続・小早川隆景・鍋島直茂とのことです。秀吉はこのように解説しています。
直江兼続:大気・勇気はあるが智恵はない。
小早川隆景:大気・智恵はあるが勇気はない。
鍋島直茂:勇気・智恵はあるが大気はない。
三つを備えている者はすなわち、この秀吉以外にはいないという意味にもとることができると思いますが、いずれにしてもこの三人は当時秀吉が一目置いていた人物ということになります。
鍋島直茂は優れた才気を持っていながら、野心を感じさせず、秀吉に従順だった所が逆に評価されたポイントだと思います。冒頭の山伏の夢の逸話にもあったとおり、鍋島直茂は事情を分かったうえであえて山伏に金を渡しました。菊池寛はこのことについて、黒田長政に比べ、直茂は「大人の対応」をしたと評しています。
ちなみにこの話に出てくる「五か国」は九つの国に分かれていた九州の北半分(筑前・筑後・肥前・豊前・豊後)あたりではないかと思われます。当時は豊前に細川家・肥後には加藤家・薩摩には島津家と、九州には豊臣恩顧の有力大名がひしめき合っており、お互いに牽制し合っておりました。(特に黒田官兵衛の子長政と、細川幽斎の子忠興は大物二世同士で比較されることもあり不仲であったと菊池寛は言っております。)
そんな中でも鍋島直茂は九州のパワーバランスを絶妙に保ちつつ、関ヶ原では西軍に与したものの巧みに立ち回り、幕府から旧主家龍造寺家の領地を安堵され、そのまま肥前佐賀藩を立藩するに至りました。鍋島直茂は元は龍造寺家重臣だったため、これが主家簒奪に当たるかどうかは見解が分かれます。(そうすると鍋島直茂もなかなかの野心家ということになってしまいますが。)
維新まで肥前佐賀藩鍋島家は存続し、幕末には大隈重信・江藤新平・副島種臣・大木喬任など優れた人物を輩出いたしました。
武士の心がまえを記した有名な「葉隠」は、別名「鍋島論語」とも呼ばれ、肥前佐賀藩士山本常朝の鍋島藩にまつわる深イイ話を田代陳基がまとめたもので、上記の維新の人物たちに影響を与えたと言われています。
そういった肥前佐賀藩士の士風の根本は鍋島直茂の人徳にあったと言っても過言ではありません。葉隠でも鍋島直茂の言行がまとめられており、武士の理想像と位置付けられています。(それから鍋島家が龍造寺家の正当後継者であることも示唆されております。)
葉隠は尚武の心が薄れていった太平の世を憂いて記されたとされています。(当時は尚武思想が強すぎるとのことで禁書扱い)。
葉隠の有名な一節、「武士道と云ふは死ぬ事と見つけたり。」は、のちにその大意が歪曲され、玉砕思想に結びついてしまいましたが、本来は毎日死ぬ覚悟を持って武士としての役割を全うするべきだということを説いているそうです。
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今回は鍋島直茂にまつわるお話を致しました。
最後にいくつか鍋島直茂のエピソードをご紹介します。
【城は要るようで要らない】
良い大将のもとに良い部下が集まればそもそも城郭など要らない。
しかし悪い大将のもとであれば、たとえ良い部下が集まったとしても、また城郭がいかに堅固であったとしても、意味をなさない。
【罰はできるだけ軽く】
火あぶりは磔に、磔は切腹に、切腹は浪人に、浪人はただ叱るだけに、ただ叱るだけならば柔らかく。罰を言い渡すたびに考え直し、罰はできるだけ軽くするように。そうすれば家名は続いていく。
【稲泥棒】
領内で稲泥棒が捕まり、死罪が言い渡されました。不審に思った直茂は調べてみたところ、その者は病気の母親を3年以上付きっきりで介護しており、勤めも果たさず貧窮していました。母親が米を食べたいと言っていたのでやむなく稲泥棒をしてしまったとのことでありました。直茂は子細を聴いてこの者を不憫に思い、米十俵を与え親孝行するようにと告げ、それでも不足するようであればまた与えるとしてその者の罪を許しました。
最後まで読んでいたいただきありがとうございました。