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「起業家」がエリート化し過ぎていることへの畏怖。

私は、一応「起業家」と呼ばれる立場で仕事をしています。サラリーマンとしてスタートアップで就業し、AIスタートアップの共同創業を経て、現在は起業家・スタートアップを支援する会社を創業、経営しています。キャリアの大半が「スタートアップ」と呼ばれるエコシステムの中で仕事をしてきました。近年、政府が後押ししているように、社会全体として起業家・スタートアップを応援する風潮になり、メディア及びニュースで目にする機会も多くなりました。それにより、「起業家」というキャリアが認知されてきつつあり、リスクを負って社会を良くしようと挑戦する人が増えたこと自体は非常に良いことです。しかし、この事象に対して少し立ち止まって考えみたいと思います。社会全体にとって起業を志す人が増えることはポジティブであることは間違いない一方で、その実態に対して、抱く感情もあるため、今回のnoteを書いてみるに至りました。


「起業家」と言うキャリアがメインストリーム化してきている。

私がスタートアップ業界に飛び込んだ10年弱前と比較し、徐々に「スタートアップ」が一般にも浸透してきている。ニュースでも目にする機会が圧倒的に増え、リスクを負って世の中を良くしようと努める人が増えてきていること自体は、社会全体にとって非常にポジティブなこと。そこから新しい産業が生まれ、雇用が生まれ、次の時代が創造されていく。故に「起業家」という仕事がかっこいいもので、皆の憧れの対象となるし、いわゆる “優秀な人” のキャリアのメインストリームとして、スタートアップ的な「起業家」を増やしていることにつながっていると思う。

スタートアップ的な起業家がメインストリーム化するにつれ、どんどん優秀な人材、つまりはエリートと呼ばれる人材が起業家を志すと同時に、起業家及びスタートアップが同質化し、コモディティ化していくと考える。極めて合理的で真面目なスタートアップが増えるだろうし、各々の考え方や戦略なども同質化されてくるだろう。それ自体はAIでも代替できること。よって、そこそこの「小成功」が生まれても、突拍子のない大博打的な「大成功」は生まれにくくなると考える。果たして社会にとってこれはいいことなんだろうか。

エリートではない、凡人な起業家の戦い方についての勝機とは。

だからこそ、大きな成功を目指す上で、私のような "凡人タイプの起業家" が、"エリートタイプの起業家" と同じフィールドで戦うことは戦略としては正しくない。優秀なエリート起業家は幼少期からグローバル経験やビジネス経験、勉学で大きな功績を残している。備わっている頭脳のCPUスペックが違うし、目指している視座が圧倒的に高い。そう言う人たちといかにして戦っていけるだろうか。

私は凪の人生。優秀な起業家タイプとは大きく異なり、普通な道を歩んできた。何事もそこそこしか成果を残せていない。学歴もスポーツもそれ以外も…だ。そういうタイプの起業家として、彼らがやりたがらないものにチャレンジしていくことで勝機が見えてくると思う。今後も新しい形を探索していきたい。