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私の特別についての散文(『花束みたいな恋をした』の感想を交えつつ)

私の「特別」は実は「当たり前」じゃないのか、なんてことを思いはじめた。
私は自己評価として、多少変わっている人間だと思っている。というか、まあ、変わってない人間なんていないというのが持論ですが。私はクジラに特別を感じてしまうし、猫はかみさまだと思っている。言葉が好きで、分からない言葉が世界にあるのが少し怖い。怖い話を寝る前に聞くし、音楽も人より聴いてきたと思う。死ぬまでにこの世界すべての本を読めないと思うと、なんだか泣きそうな心持ちになる。あと、ツイ廃です。私のひとつひとつの要素を見たら、きっとびっくりするくらい普通なんだけど、全部含めた私は、世界に1人だけなのだよ。君たちも。私が愛している人々のことを、私は、どこかひとつの要素でなく、全てひっくるめた曖昧な個人として、愛している。

で、そんな私が、私の「特別」は実は「当たり前」なのでは?と思い始めたのは、映画『花束みたいな恋をした』を観てからである。いや、正確には『花束みたいな恋をした』の他人の感想を読んでからだ。私はあの映画、好きだった。絹ちゃんは麦くんのこと、同じ言語を話す人間だと思ったのだろうな。私たち、違う言語を話しているでしょう、すごく感覚的な話だけれど。そんな中で、「あ、この人おなじ言語だ。」と、例えば海外旅行に行った先で同郷の人間に出会ったような。私は、私の人生をしばしば、宇宙旅行のようだ、私はさながら宇宙をさすらう宇宙飛行士、などと宣うメルヘン女なのですが、本当にそんな宇宙の中で同じ言語を話す人類と、出会うことなんて、ねぇ。そう、だからあの二人が惹かれあったことはすごく分かる。離れてしまった理由も、すごく分かるのよ。

『花束』は普通の恋物語を、異様に神格化して異様に「エモい」演出をしていた、から、その違和感を非常に敏感に察知できる人たちには、ウケなかったんだろうな、と思う。でも、私たちはいつでも、「何者」かになりたいでしょう。これは私だけかもしれないけれど、「私の人生が映画(または小説)になるなら、今はきっと始まって何分くらいだな。」とか、「今のシーンを映画にするなら、こういう演出で、音楽はこれ。」とか、しないですか??私だけかな。そうやって、監督私・主演私の映画を少しずつ作り上げている。『花束』も、監督絹ちゃん・主演絹ちゃんの映画だと思った。だから、『花束』のあの感じ、すごく共感できるのかもしれない。

とはいえ、彼女たちが「浅い」と言われていることについては擁護のしようがない。なにせ私も浅い。文学はそこそこ、わりと、語れると思うが、映画とか音楽とかの理論の話されるとなにがなんやらであります。知識は、その対象への愛を測る一種のものさしであることは確かではあるが、それのみが愛を測るものになるのは少し怖い。2年前、「好き」を封印しがちだった私によると、「知識がある人の横で、好きだというのは大層勇気のいる行動です。」らしい。確かに。だとしても、愛を封じれる程度なのか、貴方の「好き」は。

私がいま1番「好き」を注いでいるのは恋人なので、恋人を例にあげる。いやぁ、恋人に関する知識で言うと、さすがにご両親には負けると思う。恋人の古い友人たちにも。でも、だから?と思わないですか。それが急に、音楽や映画や文学やファッションになると、譲るのは、おかしいだろう。存分に愛を語らいたい、私は、堂々と。

あ、話が逸れてしまった。本題に戻す。
私の「特別」は、「当たり前」の日々で構成されている。例えばいつもの風景をフィルムカメラで切り取る行為、例えば朝食の際にクラムボンを流す行為、例えばイヤホンで音楽を流しながら駅から家までの道を小躍りしながら歩く行為。「当たり前」を、「特別」にして、そうやって宝物のように、大事な思い出のように、しまっておく。私だけの「特別」なんてこの世にもう存在しないことは理解しているし、だけど、私の映画の中ではそれらは永遠にキラキラ光る小道具だよ。私は、心動かされる「特別」を拾い集めて(もしそれが道端に落ちている石ころだとしても)、人生を、この宇宙を、彩り尽くすんだよ。

語り尽くされた「当たり前」を、私たちの「特別」の言葉で語ろう。「普通」なのに「特別」、まるで私たちひとりひとりだ。だから、誰かに否定されても、あなたの「特別」は、ずっと「特別」でありますよう、映画・『花束みたいな恋をした』の感想と、私の「特別」についての散文より、愛を込めて。

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