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『古今和歌集』でAIアート㊱〜よみ人しらず〜

山里は もののわびしき ことこそあれ 世の憂きよりは 住みよかりけり

訳:山里での暮らしは侘しいけれど、俗世の生きづらさを考えると、こちらのほうがずっと住みやすい(引用:『100分de名著 古今和歌集』渡部泰明著 NHK出版)

「忙しい日常のしがらみを捨てて、のどかな場所で過ごしたいなぁ」

と、思ったことがない人ってあまりいないのではないかと思うのですが、あなたはどうですか?

少なくとも私は、しばしばこんな衝動に駆られてます。

私の場合は、所謂「首都圏」と言われる土地に住んでいるため、サラリーマンを続ける理由がなくなった後の暮らしを思い描くとき、背景には緑深い山々が連なっていたりしますので、この歌の詠み手が羨ましく思えます。

とは言え、実際にそのような暮らしを選んだ人の中には、かつての日常に戻ってくる人も一定数おられるようなので、「憧れの山里暮らしは、決して楽なものではない」ということなのだと思います。

だから「現代人にとっての山里暮らしの限界って、この程度かな」と言う気がして、AIさんにこの絵を描いてもらいました。

大豪邸の片隅にポツンと立っているテント。

そこでは、豪邸の主の息子である「御曹司」が暮らしています。

彼は本来歴とした豪邸の住人で、周囲の人から全力でかしずかれるべき人です。

でも当の本人からしてみたらこの「得難い恩恵」そのものが煩わしかったり、名家ならではのしきたりに縛られることを窮屈に感じたりして、「もー、やってらんねぇ!!出てってやる!」って、豪邸を飛び出すわけですね。

でも、飛び出した後のゴール地点は、豪邸の庭。

「ここなら自由気ままに暮らせる。困ったら家に帰って必要なものを調達しよう」くらいのノリで、「プチ家出」を満喫する。

ここまでが、私を含めた多くの現代人にとっての「山里暮らしの限界」なのかもしれません。

それだけ現代では、「不便である(古語では、便なし)」は「辛く悲しい(古語では、憂し)」を、時として上回るということだと思います。

「グランピング」などは最たる例で、「あるがままの状態を楽しむための自然に、都会の便利さを持ち込む」ほどに、現代人にとっては「便利さの追求」がトッププライオリティなんです。

だから、今回の歌の詠み手と心の深い部分で共感することは難しいのだろうと思います。

ただ一方で「古代においては、都と山里との間で便利さの差が、現代ほど大きくなかったのかもしれない」とも思うんです(以降、完全に想像ですけども、、、)。

「人との交流」だけをとって見れば、すぐ近くに会いたい人が固まって住んでいる都の方が圧倒的に便利だったでしょう。でも、食べ物や飲み水を調達することに関して言えば、都とはいえ思うに任せないこともあったのではないかと。

そこへ来てこの歌の詠み手にとってはこの「人との交流」が「憂し」だったわけですから、そこから逃げて山里で暮らすことなんかに、大して痛痒を感じなかったのかもしれません。

だから「嫌だ」と思えばさっさと動けた。

ある意味、現代人よりも身軽なように思えませんか?

和歌を読んでいると、「時代を超えて共感できる心情」に加えて、「時代の変遷によって変わった価値観や、その背景に想いを馳せる面白さ」も味わうことができます。

それは度々、「必ずしも現代が古代に比べて全ての面で進歩しているというわけではないこと」を私に教えてくれています。

以下、今日のレシピです。

夜の大豪邸、大きな庭に明るいテントが1つ。

A huge mansion at night, with a bright tent in the large garden.

長々プロットを書き連ねるよりも、シンプルな言葉で表現できるくらい脳内で映像化(抽象化)できていた方が、「見たかった絵」に近づくのかもしれません。

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