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評論文がすき②

こんにちは、maimaiです🐌

前回の投稿では「評論がすき」という話をしました。そこで今回は解いてきた評論の文章を題材に投稿しようと思います!(※今回はあくまで評論文から物事の新たな見方、考え方などを発見する点に重きを置きます。)

題材は溝井裕一『動物の文化史』から文章を一部抜粋したものが扱われています。本投稿では溝井さんの文章を軸にしながら、所々補足を入れつつ書きます。

〇動物園について
本文には、
動物園は、野性空間でとらえてきた動物たちを、鉄の檻や濠といった、人工物のなかで飼育するものである。これによってひとは、珍しかったり、危険だったりする生きものを、思いのままに鑑賞できるわけだ。しかし、時代とともに、動物ないし自然そのもののイメージが変化すると、それはおのずから施設のかたちや目的にも反映される。そうかと思えば、逆に動物園は、新しい動物の観察方法を人々に伝えるメディアとなる。
とあります。ここで、筆者の考える動物園というのは、「「人間による自然の管理」という問題と、決して切りはなすことができない」ということが分かります。絶滅危惧種の保護もいうなれば、人間の恣意的な自然の管理だと読めます。

 少し話が逸れますが、環境省は絶滅危惧種の保護を
・生命の歴史を守る重要なこと
・私たちの暮らしを支える自然の複雑なバランスを維持するため
・地域のアイデンティティの見つめ直し
といった点で重要だと述べています。「絶滅しそうな動物を保護する」というのは大切なことのように感じますが、「人間の恣意的な自然の管理」という視点で見てみると、どれもこの主張を裏付けるように感じます。

話を戻しますが、本文ではこのあと中略が入り、その後は『ジュラシック・パーク』の恐竜を生かすも殺すも自由な、一種のものとしてあつかう「動物機械論」の話へと展開していきます。(※この「動物機械論」はデカルトが提唱したものとは異なり、「動物を機械のように遺伝子組み換えなどで更新し、バージョンアップ可能であるとみなす考え方」を指します。)


〇『ジュラシック・パーク』について
次に本文では、スティーブン・スピルバーグ監督の映画『ジュラシック・パーク』(1993年)を題材に話が展開されています。内容としては、
〈ジュラシック・パーク〉とは、遺伝子工学によってよみがえった恐竜たちが闊歩する、夢の動物園である。恐竜たちは、濠や電流フェンスによって人間から隔てられ、完全にコントロール下に置かれているはずであった。しかし、そのシステムは欠陥をはらんでいたため、エンジニアの裏切りやミスによってあっけなく破たんし、文明の優位性がくつがえされてしまう。そして、脱走した恐竜たちは、つぎつぎとひとを襲いはじめる。
というものです。この映画自体は、世界中を恐竜で魅了させるほどの影響力のあるものでしたが、本文ではその原作に着目しています。原作は、マイクル・クライトンのSF小説『ジュラシック・パーク』で、西洋的な自然観を痛烈に批判するような内容だったと紹介されています。この「西洋的な自然観」というのが、「自然は人間によって支配できる」とするものです。

『ジュラシック・パーク』では、徹底的な管理の下に恐竜たちを置いていますが、結局失敗し、恐竜たちが脱走します。これは「生き物―あるいは自然―は、人間によって簡単に制御できるものではない。」ことを意味し、これが『ジュラシック・パーク』のメッセージだと述べています。

西洋では、過去数百年にわたり『ジュラシック・パーク』の恐竜たちのような展示方法や管理方法が採用されており、絶滅動物の復元さえも試みられていたようです。そんな自然をコントロールしようとする動きは各国で行われていました。


○『ジュラシック・パーク』が人々を魅了する理由
さて、ここまで動物園と『ジュラシック・パーク』をもとに人間と動物、文明と自然といった対立構造とはいかないにせよ、その関係性を見てきました。この文章の要点は、人間や文明が自然をコントロールしようとする動きにあります。その点で、『ジュラシック・パーク』は社会風刺の側面を持っていたといえるでしょう。では、なぜ私たちがこの映画に魅了されたのか。本文では以下のように述べられています。
この作品でスリリングなのは、人間が躍動する生命を抑えきれなくなった結果、「さかさまの世界」が現出する点にある。完璧だったはずの管理システムは、あるとき一挙に破たんする。恐竜たちは脱走し、見せかけだけの「野生空間」は本物となり、文明の優位性は覆されてしまう。そしてそこに放り出された人間たちは、完全に無力であり、生きのびることすらおぼつかなくなる。〈中略〉
おそらくわたしたちは、本来の意味において「野生」になった動物たちが、その強大な力でもって、自分たちと「接してくれる」(食べようとする)ことに、何かしら魅力を感じているのである。

上記のことから、私たちは普段から高度な文明を用いた生活をしているが、実際は自然の強大さを感じることに惹かれる部分があるということがわかります。むしろ、「「文明」が「自然」を押しのけていく現状に、どこか殺伐としたものを感じている。」。だからこそ、逆転した状態に魅了されるのだということです。


ここまでが、今回の評論文の大意です。普段何気なく見ていた作品の社会風刺性や、新たな視点に気づく文章でした。
たしかに、自然の猛威を感じる作品は多いように思います。現実社会でも、台風や地震の被害は無視できないものです。そこに魅了されたことは全くありませんが、『ジュラシック・パーク』や動物園などの背景を見てみるとこれまでの見方とは異なる考え方ができると感じました。

今回は以上です!

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