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カエルの女神と夜の王 第四話

 ラナデアは主の花嫁のはずでしたが、屋敷の中はシンと静まり返り出迎えはありませんでした。だだっ広いサルーン(※玄関ホール)の真ん中には豪華なマントルピースをもつ巨大な暖炉があったけれど、時節柄火は焚かれておらず外よりも寒いくらいでした。そしてマントルピースを飾る鋳造レリーフに興味を引かれたラナデアが近づいてみると、花や葉、鳥や馬などのよくあるモチーフではなく、コウモリやトカゲ、それから悪魔などの不気味なものたちが象られていました。
「領主さまは、もういらっしゃるのかしら」
「そうだね、そろそろ起きてこられる時間だよ。急いで朝食の支度をしなくっちゃ」
「あら、アフタヌーンティーではなくて朝食を召し上がるのね」
「そうだよ。ここでは陽が落ちてから一日が始まるのさ」
 ラケルタはそう返事するとどこからか取り出した白いエプロンをつけてドローイングルーム(※応接間)へと消えていきました。その場にぽつんと取り残されたラナデアはさてどうしましょうと考えましたが、マホガニーでできた素敵な螺旋階段を見慣れた人物が下りてきたのであっと声を上げました。
「ミセス・ラピス! 先に来ていたのね」
 ラナデアが声をかけたものは、真っ青なドレスを着た女の亡霊――シルキーで伯爵家に長年棲みついているミセス・ラピスにそっくりな姿をしていました。しかし彼女は呼びかけに反応しないで、ラナデアの前をしずしずと通り過ぎていってしまいました。
「ミセス・ラピス……?」
 ほとんど育ての親であるミセス・ラピスがそのような態度を取ったことはありませんでしたから、ラナデアは少しショックを受けました。けれどもときおり彼女が深く物思いに耽ってしまうことがあるのを知っていたので、今もそうなのだろうと考えました。
「ちょいと、ラナデア! いつまでもそんなところにいないで、早くこちらへおいで!」
 ラケルタの声がして、ドレスの裾を摘んだラナデアは急いでドローイングルームへと向かいました。ついさっきまで真っ暗だったその部屋は、背の高い真鍮製の燭台の上であかあかと燃える蝋燭のおかげで昼間のように明るく照らされており、眩しくて目を細めました。
「……ふん、両性花の花輪か」
 だしぬけに低く甘い声が響いて、ラナデアはとても驚きました。見ると、いつ来たのか部屋の奥に見知らぬ若い紳士が立っていました。
「伯爵め、嘘をついたな。お前、娘ではないだろう」
「ひっ……!」
 端からバレてしまうとは夢にも思っていなかったので、ラナデアは頭が真っ白になり小さな悲鳴を上げました。愚直な子どもらしく父の言い付け通りにしていたのだけれど、自分が偽の花嫁であったことを事ここに至って思い出したのです。
 ラナデアをジッと見つめている紳士はひどく美しい人で、たいへんに背が高く同年代のなかでも小柄なラナデアには壁のように大きく見えました。彼の青白い顔には鮮やかなサファイアブルーに輝く瞳と高い鼻梁、薄くて形の良い唇がバランスよく配置されていて、そのほっそりとした輪郭は艶々としてまっすぐな漆黒の長い髪に縁取られていました。それになかなか見かけないほどに長身だけれど無骨なところはなくて、すらりと伸びた手足が優雅でベルベット生地の臙脂のスモーキングジャケットがよく似合っていました。
「せめて言い訳くらい話したらどうだ」
 シグネットリング(※指輪印章)の嵌められた長い指でターンナップカフスに触れた紳士が低い声で言ったのに、ラナデアはハッとして勢いよくその場に跪きました。
「申し訳ございません……!! た、たしかに、わたくしは女ではありませんが、男でもないのです……。領主さま、父は決して嘘をついたわけでは……」
「端からまともな娘が来るとは期待していない。両性でもお前はなかなかに見目麗しいし、そのように縮こまらなくてよい」
「え……」
 てっきり罰を与えられると思っていたのに、手前の椅子に腰掛けた紳士は怒った風もなく静かに嘘をついたことを許しました。それにラナデアは目を丸くしましたが、誰かに容姿を褒められたのは初めてなのでぽっと頬を赤らめました。
「名はなんという」
「たいへん申し遅れました。ヴェーヌ伯三女のラナデアと申します」
「ふん、女として育てられたのか」
 ドレスの裾をつまみ膝を曲げ、深々と頭を下げて淑女らしくお辞儀したラナデアに、眉を寄せた紳士が尋ねました。
「二歳までは嫡男として育てられましたが、弟が生まれてからは……」
「まったく、親とは勝手なものだな」
「は、はい……」
 同情するように言われて、ラナデアは戸惑いましたがもしかしたら領主さまは良い方なのかしらと思いました。少なくとも、実の父よりはずっと優しい言葉をかけてくれました。
「私はノックスという」
「存じ上げております、ノックスさま。不束者ではありますが、このラナデアをどうぞよろしくお願い申し上げます」
「おや旦那様、今度の新入りにはずいぶん優しいんですね」
 不意にラケルタのしわがれた声がして、自分の夫となった美貌の紳士――ノックスのことをうっとりと見つめていたラナデアは思わず飛び上がりそうになりました。ワインボトルとグラスがひとつずつ載せられた真鍮製の盆を手にやってきたラケルタは、どぎまぎしているラナデアには構わずにノックスの前へ置いたグラスにワインのような赤い飲み物を注ぎました。
「ほら、ぼんやりしていないでお前もお座り」
「はい、ラケルタさん」
 ラナデアはノックスの向かいへ腰掛けました。朝食というので料理が運ばれてくると思っていたのだけれど、さっさと地下のキッチンへ引っ込んでしまったラケルタはそれきり戻ってきませんでした。ノックスはというと、手ずからグラスに注いであっという間にブテイユ(※七五〇ミリリットル)のボトルを空にしてしまいました。
「ノックスさま、ラケルタさんの他にお屋敷で働いている人はいないのですか」
「そうだ。私は静かなのが好きでね」
「そうなのですか。では、わたくしも大人しくしなくっちゃ」
「……お前はどんな風に遊ぶのが好きなのだ」
「ずっとお人形遊びやままごとばかりしていました。けれど、本当は外で遊びたかったのです」
「ふむ。日当たりは良くないが、昼間は自由に庭へ出るとよい。私は寝ている時間だから相手はできないが……」
「やっぱり、ラケルタさんの言っていた通りだわ! ノックスさまはとてもお優しいのですね」
 胸の前で手を組み頬を紅潮させて叫んだラナデアを見たノックスは、なぜだか寂しそうに笑いました……。

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