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気になる言葉

”But the effect of her being on those around her was incalculably diffusive: for the growing good of the world is partly dependent on unhistoric acts; and that things are not so ill with you and me as they might have been, is half owing to the number who lived faithfully a hidden life, and rest in unvisited tombs."

George Eliot, "Middlemarch"

これは、テレンス・マリックの”A Hidden LIfe”という映画のエンデイング・タイトル   に流された引用文で、そのもとはジョージ・エリオットの「ミドルマーチ」という小説からの引用である。翻訳すれば:

「しかし周囲の人々に与えた彼女の影響は、計り知れないほど大きかった。というのは、増大しつつあるこの世の善(行)は、一部は歴史に残らない行為によっているからであり、またあなたや私の生活がかつてそうであったほどは悪くなっていない理由の半分は、その人生を良心的で誠実にひっそりと送って、今も誰も訪れない墓に眠っている人たちのおかげなのです。」(著者拙訳)

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映画のあらすじは、以下のようだ。ナチスドイツに併合された第2次大戦下のオーストリアで、徴兵された名もない一農夫が自己の信念に従い、良心的兵役拒否を貫き、最終的には銃殺されてしまう過程と、その決意を理解して支持する妻とその子供たちの家族愛をえがいている。(以下歴史は誰が作るのかについてジョージ・エリオットの言葉に励まされて私見を述べようと思う。続きはまた明日以降・・・)

(さて続きです)私たちは、普段歴史というものは歴史書に記された偉人や英雄たちによって為された事象のまとめかと思っている。たとえば明治維新といえば、吉田松陰、坂本龍馬、西郷隆盛といったビッグネームが浮かんでくるが、一方昨今ではそうしたビッグネーム主義に異を唱える形で、事象を陰から支えた隠れた貢献者を掘り下げる作業も盛んである(仮にスモールネーム主義と呼ぶ)。その多くは歴史的秘話としてセンセーショナルに報道されている。

しかしビッグだろうがスモールだろうが、ある特定のネーム(人物)が歴史的事象にいかにして貢献したか、その因果関係を解きほぐしているのが歴史研究と呼ばれているように思う。

しかしここで注意しなければならないのは、歴史学の門外漢である私が歴史や歴史学について学問的定義をしようとしているわけではないということである。これまで歴史に関して私には漠然とした疑問があって、「歴史ってそんな風にして動くのだろうか?そんな風にして因果関係が説明できるのだろうか?」「歴史を動かす力や要因というものはもっと他にもあるのではないか?例えば時代の特定できない雰囲気やモメンタムのようなものが・・・」

ではいったい時代の雰囲気やモメンタムはどのようにして造成されるか?の答えのヒントが、上記のジョージ・エリオットの言葉の中に見出したのだ。(ちょっと疲れたので中断します。午後は主宰する絵画教室があって、3人の生徒が来ます。準備もあるので中断してまた後ほど。)

(続きです)「歴史は勝者によって書かれる」と一般に言われているように時の権力に都合がよく編纂されるのが常である。これは”A Hidden Life”の主人公農夫の自己犠牲的な人生が戦後社会の権力者にとっても、好ましくなかった証左である。

しかしこの農夫の自己犠牲は権力者に抹殺されようとも,秘かに彼の行為に共感し称賛しながらも権力者の弾圧を恐れ沈黙していた村人たちも少なからずいた。

(中断!私は音楽も好きで、特にジャンルに好みがあるわけではなく、「良いと感じたものは全て好みだ。でも一部の演歌とカントリーミュージックは好きではない。現代音楽のミニマルミュージックとレゲエから派生したダブやkate tempestのラップ的ポエット・リーデイングやいとうせいこうのダブポエットも好んで聞いている。それから最近知った Lee・Lang (イ・ラン)という韓国のアーテイストも注目している。それから最近レコードも聴いていてbeatles の white album が欲しいのでこれから散歩がてら近くの中古屋まで歩いてみようと思う。続きはまた)

(続き)千葉鑑定団に行ったのだが、レコードは悲惨なまでの在庫で“哀愁のスクリーンミュージック“のような類のレコードばかりであきれ返ってしまった。家に帰って昼食を作ってーと言っても妻の分は昨夜の残り物、私はインスタントのにゅう麺に冷凍かき揚げを入れて食べた。

さて本題に戻ろう。”歴史の編集者は決して勝者のみではない”という話だ。答えを急げばジョージ・エリオットが指摘するようにunvisited tomb に眠る歴史に残らない人々の誠実な行為が、歴史の半分もしくは一部を造成しているのだ。つまりそうした目立たないが誠実で自己犠牲的な行いが、それをできずに批判及び冷笑していた多数の″一般人”の意識の深層を揺さぶりその後の身の振り方に無意識的に影響を与え、それらの集合的なエネルギー が「あなたや私の生活がかつてあったほどには悪くなっていない理由」の半分を占めているのだろう。さらに言えば、昨今の日本は特に新しい世紀になってからのそれはー私はオーストラリアから帰国して驚いたのだがーもはや先進国とは呼べないほどの低迷状態をさらしている。その原因は、今になればわかるように、映画のような‘hidden life''を'faithfully‘‘‘に送る日本人が消滅してしまったからだ。誰かに強いるわけでも、見せびらかすわけでもなく、ただ自身の信念に従って、愚直に日々を送る。何ら特別な英雄的行為をするでもなく、ただただ信じることを淡々と繰り返す。そんな名もなき庶民が、かつては当たり前のようにいた。思えば明治22年と25年生まれの私の祖父と祖母もそこに含まれる気がする。そのような庶民が日本人の多数派をひそかに形成して声なき声を発していたのだ。(と敢えて断定したい自分がいる。)私はこのことに気づいて永年の疑問が一気に解けた気がした。そしてそれは決して他人事ではなく、自らの身の振り方を改めて精査しなければならないと、身につまされたのだった。


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