大人になるほどしあわせが増える気がした話

大人になるほどしあわせが増える、と、大人になるほどしんどいことが増える、は自分の中で永遠の二律背反かもしれない。二律背反という割には、いつもの考えは前者の割合が多いとも思う。それでも今朝までまた後者の思いに引っ張られて陰鬱とした気分にまでなった。久しぶりに。

午後、彼がすこし前に一緒に行った旅行の写真を送ってきたのを見て、その旅行が若干の不完全燃焼だったことを忘れた。

写真の中の私はすごくよく写っていた。彼は写真を撮るのが上手い。いつも何も言わなくても私の姿を写真に収めてくれる。自分でも初めて見るような顔で写っていることがよくあった。
旅行の日は猛暑だったから、あまりシャッターを押してくれてないと思っていた。綺麗な景色の前で、海辺で、もう一回こうやって撮ってよ、とめずらしく注文をつけてしまった気がする。でもこうして見返してみると、どちらも初めに彼が撮ってくれていた方が、表情もアングルも断然よかった。

彼には別段知らせていないが、数年前に一度来たことのあるビーチだった。いい思い出という訳ではない。というより、その時の感覚も空気も何もかも忘れてしまった。立地と利便性以外の記憶がまるでない。その時に撮ったであろう、私が水着姿で一人で写っている写真が1枚だけ、スマホの中に残っている程度だった。コロナで数年水着を着ていなかったから、今回の旅行までに少し絞ろうと思って昔の写真を漁っていたら偶然出てきていろんな意味で驚いた。

その同じビーチで撮った写真の中の私は、今よりも相当細い。写真の私は、今より確実に痩せている。成人してからずっとBMIも痩せ気味だったし、足もウエストも今より確実に細い。20代後半が人生で一番太らない時期だった気がするし、今より何キロくらい軽いかも何となく分かる。結局旅行までに2キロ近く落としたが、満足できたかといえば微妙なところだったし、途中ストイックになりすぎて最近ではめずらしく自己嫌悪にまで陥りかけた。何も知らない人が見れば、前の方が細くていいじゃんってなるかもしれない。でも写真を見ながら遥かに今が最高だな、と思った。心から。そしてそう思った自分にも驚いた。

半月前ごろ、ちょっとダイエットすると伝えると、彼はそんなのしなくていいのに、と言った。でもなんかふにふにだからさ、と伝えて、しばらくの間白米と麺類を絶って、お豆腐と野菜中心の生活にした。途中コロナに罹ってしまい相当気落ちしたが、食欲がないのをプラスに考えて乗り切った。運動は宅トレ中心。軽症だったコロナのおかげで久々にがっつり自炊して、ダイエットも節約も楽しんで、勉強でも何でも、その攻略方法を考えるのが好きな私は、むしろ楽しんでいたつもりだった。

当日が近づくにつれあまり芳しくない進捗に珍しく苛立って、自分のことをひどく醜いと思った。実際はそこまでではないはずなのに、めずらしく自分の中で正しく認知できていない感覚に陥った。これは非常に調子が良くない時のサインだった。

その日電話口で彼は、私ちゃんはそんなことしなくたって十分きれいなのに、でも目標決めてちゃんとやってるのすごくえらいね。俺は太ったよ。笑 と言った。
そのたったひとことで、正しい認知が自分の中に戻ってきたのを感じた。
そうだそうだ、今の自分もいいんだった、でも自分的にもうちょっと良くなりたいからやってるだけだった、と思えた。やらなくていいのに、と切り捨てなかった彼の優しさに救われた。

当日着る服も水着も、少し自信を失ったウエストばかりに注目しないで、綺麗な背中と鎖骨のラインが見えるオフショルダーのデザインにした。

その後も、髪色を変えたよと送った私の写真を見た彼は、ちょっと痩せたかな、お顔もしゅってしてる、と返信してきた。彼はどんな時も思ったことしか言わない人だし、思ったことはストレートに伝える人だから嬉しかった。写真の写り具合な気もしたけど、彼にはそう写って、それをすぐに伝えてくれた嬉しさがそのままシンプルな原動力になった。大満足とまでは言わないが、半月前よりは多少見せられる腰回りにはなった気がする。

そして当日。顔を合わせた瞬間に、わあ、すごく綺麗になってる。と言ってくれた。こんな相手が今までいただろうか。今までの自分にも、今の自分にも全ての味方になってくれる人が。

そうしてすぐ後に撮ってくれた写真が冒頭のそれだった。思わず自分でも、何これすごい可愛く撮れてるじゃんと思った。
海辺の写真も、数年前の写真と比べるとお尻も腰回りも随分ふにふにだと思う。
でも普段から全然太ってない、柔らかい、抱き心地がいい、おしりが魅力的と言ってくれるおかげで全然嫌なふうに見えない。不思議なものだった。

無条件で、いつどんな時も私の味方をしてくれる彼に出会って、たくさんの愛をもらった。そうして自分でも自分のことを赦して、愛してあげられるようになった。

こんな人に出会ったのは初めてで、彼はここまでの私の人生で本当に唯一無二の人だと思う。大人になって、決して短い時間ではない段階を踏んでここまで来て、この人とも会えたし、この先はまた未知数だとしても、これが無かったことになる日は決してない。大人になるほど本当の楽しさや喜びは増えていっている気がする。

自分を愛してくれる人との出会いはどれほど大切なものだろうか。
私にとっては間違いなく人生で本当に初めての出会いだったと思う。
子どもにも大人にもなれる。ただの自分でいられる。
今の自分をつくってくれたことに感謝の気持ちでいる。

最近は何でも、写真を見て判断する。可愛いだとか、その反対だとか、その子とその子を比べてどうだとか。神格化したり、元気そうだと言ったり、幸せそうだと言ったり、余計な憶測を立てたり。そしてそんな、うっすらした、無責任な主観からはみ出たものは、意外だとか失望だとか、比べて順位がどうだとか、そんな負のオーラを纏った言葉がついてまわる。
いつの間にか自分もその影に飲まれそうになる日がある。
自分の感覚に人の肯定はいらないはずなのに、自分の感覚を失っていく日がある。
私が学生の頃、当たり前にできていた感覚を、ソーシャルネットワークの波にのりながら維持するのは思ったより大変だ。
共有しないと幸せを肯定できない人たちにのまれるなんて、現代病みたいだ。

心の平穏は、幸せの度合いは、写真には写らない。
自分のその表情を読み取れるのも、自分だけができる唯一の特権のような気がする。私のしあわせを知っているのは私だけだ。
そしてそこにいる、無条件の愛をくれる人だけだ。

大人になるほどに、自分の感覚を大切に、幸せに対して敏感でいたいと思った夏の日。









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