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共通点を探す中で、思いがけず相手を傷つけたかもしれない、と思ったこと

自分の言動に、あとで「しまった!」と思うことがある。

子育てを経験し、思う。子どもが多様な成長過程を辿るゆえに、親は、真逆の事柄に一喜一憂する。たとえば、上の子は全然食べなかったのでガリガリに痩せていることが心配だったのに、下の子は食べすぎてプクプクに太っていることが心配、というように。
なので、子どもたちの親との会話には、神経を使う。思いがけず、私の発言で傷つけてしまうかもしれないと思うから。

ウチの三歳児のプレ保育のクラスメイトで、身体にプロテクターを着けている子がいる。私はてっきり下の子と同じ学年だと思っていたのだが、聞けば一学年上だった。学年をまたがるクラスなので、そういうこともあるのだが、私はすぐに自分の中の偏見に気づいた。小柄なので、同じ学年だと思ったのだ。
お母さんは「そうなんです、一学年上なんです。でも、見かけたら声かけてね」と言ってくれた。
私の心がそう見せるだけかもしれないが、私はその言葉のうちにも、「またか」という諦めがあったかもしれないと思ってしまった。
その子は、たぶん、一般的成長とは違う過程を辿っている。それはその子の個性だが、親は、我が子が周りと違うことをすんなり受け入れられただろうか。そういう心の葛藤の最中に、事情を知らない人に「〇〇歳?」「ウチの子と同じくらい?」と聞かれると、どうしても「他の子より…」と思わなかっただろうか。

実は、私自身、上の子がちょっとコミュニケーション面で難しい所があるので、そう感じている。そして、私はそれをまだ本当には受け入れられないでいる。

同じようなことは、今まで何度もあった。つまり、私が、自分自身の発言の中に偏見に気づいてしまうというような。私の中には、その後悔が何層にも重なっているというのに、気づいたときには言ってしまっている。
いつも真剣に考えているのだが、たびたび失敗している。理由は、たぶん二つある。

一つは、私が子ども一人一人を教科書的成長過程という物差し無しに見ていないせいだと思う。いつもそれに照らし合わせ、出来ているか出来ていないかで測っている気がする。子どもたちにとって、これほど不愉快なことはないと思う。もっと個性に目を向ければ、一人一人の良さを拾い上げられるはずなのだが。

もう一つある。私は、相手を知りたいのだ。共通点を探しているのだ。私自身、年齢で一括りにする類の会話が苦手であるにも関わらず、不必要に自己開示させない会話の種を探す中で、マジョリティにヒットする内容を意識せざるおえない。結果、まず子どもが同じ年齢か、親が同じ年代かを知ろうとしてしまう。

では、どうしたら良いのだろう。たぶん、私はもっと相手を観察したほうが良いのだ。猫のキーホルダーをつけている人は、たぶん猫が好きだろう。そういう会話の糸口があるはずなのだ。早急に相手を知りたいからといって、カテゴリーに頼りすぎると、相手を傷つけることになる。年齢や性別などは、アイデンティティの否定に成りうる内容だと思うので、注意が必要だ。

先日、姉の話の中で、ハッとしたことがある。
姉は生粋の商売人なのだが、フリーランスで働きたいと頑張っている妹の悩みを聞く中で、こんなことを言っていた。
「本当の商売は、何よりもお客様のため」
妹は、ビジネス講座で習うことと自分がやりたいことがマッチせず悩んでいた。姉が言うには、妹の悩みは、客の要望より自分の気持ちを優先してしまっているそうだ。(つまり、客<自分のやりたいこと)自分のやりたいことに周りがついてくることも無いわけではないが、それは商売ではないという。

この話しは、商売だけでなく、福祉や子育てなど、繋がるものがあると感じている。
私は、誰もが自分らしく生きる世界を諦めたくない。そのためには、私は相手を理解しなければならない。でも、相手が私に自己開示したいとは限らない。私はそれを強いることなく、相手を理解していかなければならない。
姉は、客を知るために観察する手間を惜しまない(何より金のためだが…笑)私とは全く異なる軸で動いている人だが、何かと参考になるので世界は面白いと思う。

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