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国際紛争に関する研究、北アイルランド紛争 #01、基礎知識編

北アイルランド紛争に関心を持ったきっかけ

「IRA暫定派」をモデルとする武装勢力が登場するゲーム(アークナイツ)があるので、それがきっかけで北アイルランド紛争に関心を持ちました。
このゲームにはヴィクトリア帝国という大国があり、そのうちヒロック群と呼ばれる移動都市にはヴィクトリア人とは民族が異なるターラー人と呼ばれる人々が住んでいます。一部のターラー人はヴィクトリアからの独立を要求していますが、本土からやってきた軍隊により厳しく弾圧されているという設定です。これに対して武力で対抗するターラー人の武装組織:ダブリンが登場します。

ダブリンの「リーダー」

北アイルランド紛争に関する一次資料として、尹慧瑛氏の「暴力と和解のあいだ 北アイルランド紛争を生きる人びと」を底本に学習をしています。

1、古代のブリテン・アイルランドの紛争

アイルランド島はブリテン島の西岸にあり、その北の一部は「北アイルランド」というブリテン連合王国(イギリス)の領土となっている。北アイルランドには民族が異なるアイルランド人・ブリテン人が混在しており、歴史的にブリテン人による一方的な支配が行われてきたことから民族紛争が長らく続いている。

アイルランド人はブリテン人とは民族的な出自が異なる。古代アイルランド人の祖先は紀元前3〜2世紀ごろにアイルランド島を征服したゲール人であり、その地点でゲール人は島の先住民をほぼ淘汰してしまった。
5世紀ごろになるとアイルランドに聖パトリックが来島し、キリスト教を布教する。
11世紀ごろ、ローマ教皇が教会改革の一環としてアイルランドのゲール教会を編入しようと試みるが、アイルランドに政治基盤がなかったためうまく進まなかったらしい。
12世紀ごろ、教皇パドリアヌス4世がイングランド国王・ヘンリ2世にアイルランドの領土所有を承認、その見返りとしてゲール教会のローマ教会への編入を進めるよう要求する。ヘンリ2世と配下のアングロ系貴族によるアイルランド征服によって、歴史的なブリテンによるアイルランドの支配体制が確立される。

アイルランドに渡ったアングロ系貴族は次第にゲール化し、アイルランドは半ば自治領のような土地となる。16世紀ごろ、チューダー王朝によるアイルランド再征服が始まりゲール系貴族の有力者・キルデア伯爵が滅ぼされる。
1536年に招集されたダブリン議会によりアイルランドへのプロテスタント系国教会の設置が決議され、国教会への服従が始まる。またエリザベス1世はヘンリ8世をアイルランドに送り込み、アイルランド国王とする。

1608年にはブリテンからアルスター地方(現北アイルランド)への大規模植民が開始され、アイルランド島にプロテスタントとカトリックが混在し始める。宗派と民族に基づく支配ー非支配の関係はこの頃に固定化され始める。

17世紀になると清教徒革命・名誉革命が起こり、ブリテンは絶対王政から市民政治へと移行し始める。1800年、アイルランド全島はブリテン連合王国へ組み込まれる。

2、近代のブリテン・アイルランドをめぐる紛争

アイルランドは19世紀の様々な反乱や抵抗運動・20世紀初頭の独立戦争を経て1922年、北部を除くカトリックが多数派を占める地域が自治領(アイルランド自由国)として独立する。
一方、プロテスタントが多数派となるアルスター地方はブリテン領に留まることになる。北アイルランドはアイルランド本土との統一・ブリテンへの残留を目指す2つのコミュニティーで分断された地方となり、これが「北アイルランド問題」の根本原因となっている。

アイルランド自由国は1949年にブリテン連邦を脱退して「アイルランド共和国」となり、1972年ヨーロッパ共同体(EC)に加盟する。アイルランド共和国は政治・経済・文化からの「脱ブリテン化」を目指していた。

ブリテンに残留した北アイルランドではブリテン残留派=ユニオニストによる一党独裁政治が行われ、プロテスタントに有利な制度が設けられた。
代議士選出の比例代表制の廃止、選挙権の制限や複数投票制、ゲリマンダリング(特定政党に有利な小選挙区の区割り)、特別権限法による強権支配、公営住宅の割り当てや雇用・教育におけるカトリックへの差別…などなど。

1960年代、アメリカの黒人公民権運動によって影響を受けたカトリック系住民公民権運度が北アイルランドで活発化する。1967年には北アイルランド公民権教会(NICRA)が結成され、すべての市民の基本的権利の確立を要求する政治活動を開始する。
ブリテンのテレンス=オニール首相は北アイルランド改革を約束するが、ブリテンによる改革はプロテスタント過激派からは反発を、NICRAからは不十分であるとの批判を受ける。NICRAとカトリック系市民による平和的な運動やデモ活動はやがて武装した警察やプロテスタント過激派による妨害を受けるようになり、衝突によって緊張が高まっていく。
1969年9月、デリーのボグサイド地区で起きたプロテスタント・カトリック系住民の衝突をきっかけとしてデリー・ベルファストに暴力事件が拡大し、その数日後にはブリテン本土から軍隊が派遣される。この際プロテスタント過激派とブリテン軍からカトリック住民を守る、という面目でIRA(アイルランド共和国軍、アイルランド本土の国軍とは異なる民間軍事組織)が再結成される。

3、IRA暫定派の来歴

IRAのルーツとなる反ブリテン武装組織としては、20世紀ごろに結成されたアイルランド義勇軍がある。アイルランド義勇軍はプロテスタントの過激派であるアルスター義勇軍に対抗して結成され、1916年の反ブリテン運動となるイースター蜂起で主要な役割を担った。イースター蜂起がアイルランド独立戦争に発展すると、1919年に正式にアイルランド共和国軍(IRA)と改名する。
1921年、英愛条約によりアイルランド自由国が成立するとIRAの一部はアイルランド国防軍に編入される。しかし一部のIRAは北アイルランドを巡って条約に反対し、反政府軍を結成してアイルランド内戦が勃発する。反政府側のIRAはアイルランドの正規軍に対して劣勢で、徐々に勢力は衰退していく。

アイルランド本土で劣勢となったIRAは北アイルランドで戦後勢力を伸ばし、1969年12月にはマルクス主義・穏健主義を掲げるIRA正統派(Official IRA)、武力によるアイルランド全島の統一を目指すIRA暫定派(Provisional IRA)に分派する。バラクラバを被って銃火器で武装した人たち、という一般に知られるIRAのイメージは主にIRA暫定派によるものである。

IRA暫定派のエンブレム、Wikipediaより
IRAと聞いてイメージされる人たち、"SPIN"誌より:https://www.spin.com/2015/08/inside-the-ira-spins-1994-feature/

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