夏空に 「ある」と「いる」と ヒゲのおじさん

 今年は、いや今年も暑い。自分が子供の頃はこれほどでは無かったように思う。暑い日でも最高気温が32~3度で、35度を超えようものなら灼熱地獄、地獄の釜の底を覗くような心構えだった気がする。まぁ、それでも外に遊びに行きつつ、暑いから友人宅でアイスを頬張りファミコンをする感じだったとは思うが。

 そんな少年の日から二十余年、見上げた令和の夏空は相変わらず青い。
 空、「くう」では無く「そら」。雲の浮かんだ空。そもそも空ってなんなんだろう?
 空という物体自体は無い。それはただの大気の集合体だ。けれども人は便宜上、それを空という。空は実在しないが存在はする。「いない」けれど確かに「ある」のだ。
 もはや「空」とは概念だ。だから「空(くう)」とも読むのか。色即是空、空即是色。昔の人は上手いことを言う。

 家でTVを見ていて、手元にリモコンが無いことに気づく。おかしい、TVを点けたときに傍らに置いたはずだ。でも無い。散々周りを見回した挙げ句、自分の真後ろにあったことに気づく。
 これは本人の実在と存在の認識のギャップによって生じる現象だといえるが、ともすれば心霊とは幽霊とはという興味深いトピックにも繋がりそうなのでこれについては別の機会に話すことにする。

 季節感のかけらも無くて恐縮ではあるが、サンタクロース、赤い服着て白いひげでトナカイに乗ったあのおじさん。
 身も蓋もない言い方になるが、サンタクロースは実在はしない――フィンランドあたりのおじいさんが毎年の風物詩よろしく誰かしらステレオタイプなそれっぽいコスプレをしてメディアの前に登場するっていうのは置いとくとして、それでも12/25の朝になると世界中の子供の枕元にプレゼントが置いてあるのはなぜだろうか?
 親が前もって買っておいたプレゼントを置いているから? それは手段に対する解答であって、質問の本質に対する答えではない。
 恐らくは親の心の中にサンタクロースが「存在」するからだ。もし親の心の中にサンタクロースが存在しなければ、わざわざ12/24の夜に、しかも(地域によってはキリスト教徒でもないのに)西洋風のしきたりに則って贈り物をするような回りくどいことなんかしないだろう。それがサンタの存在そのものを知らないどこか僻地の人間ならば言うまでもない。
 サンタクロースは「いない」、でも親の心の中には「ある」のだ。子供の心の中にではなく、かつて子供だった親の心の中にこそサンタクロースは生きているのだ。なんとロマンのある話だろうか。だから自分は「サンタクロースはいるかいないか?」と尋ねられたら絶対に「いない」とは答えないようにしている。

 「存在」と「実在」、似て非なるものだが日本語の話し言葉では「ある」と「いる」くらいしか表現の違いがない。一文字違い、しかも「あ」と「い」、近しい母音一文字の紙一重で意味の違いを担保しているのだ。
 ということは……いやむしろ、である。そもそも古来から日本の文化形成においては存在と実在という違いにはあまり拘っていなかった――「ある」んならそれは「いる」んだろうし、「いる」んなら当然それは「ある」わけだ、そう考えてきたんじゃなかろうか、と。

 そんなことに思い至った日曜の昼下がり、とりあえず目の前に「ある」冷えたビールを呷ってうだるようなこの暑さを紛らわせてみるのであった。

  

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