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故郷を手放す後押しをしてくれた中華丼

こんばんは。
目を止めてくださり、ありがとうございます。

8月も気がつけばお盆直前。
気がつけば毎日書き続けたnoteも一週間を突破!(日を跨ぐことはありますが…)
このまま二週目突破に向けて突き進んでいきたいと思います。続いてる。すごい。


今日はふるさとについて思うことを少し書いてみたいと思います。

大学生になるときに故郷を出ました。
実家が嫌いなわけではなかったけれど、外に出なければきっと引きこもってしまうとずっと感じていたので、どうしても一人暮らしがしたいと懇願し叶えてもらいました。

長期休暇のときだけ帰る実家。実家に居る時は遊びに行ってはいけないという謎の強迫観念がずっとあり、ただただ家に居るだけでした。
それでも、私にとって「帰る場所」だったのです。その時は両親を喜ばせる為に帰っていたように思います。

家を出てからの年数が故郷にいた年数に迫りつつある程の年月が経ち、
私は自分の家族を持つことができました。それまでの間に父が亡くなり、母は一人で大きな一軒家で生活をしていました。

母の急な老いを感じたのは、この一年の間です。
母なりの事情があったこともあるのですが、実家へ帰るたびに家が死んでいっているように感じたのです。母自身も一軒家で暮らすことに限界を感じているようでした。そんな母の姿を見ていられませんでした。

家を手放して、私の近くで暮らして。

そう母に提案しました。
母は、すぐに承諾してくれました。
それからは考える暇もないまま、新しく母が住む家を探し、実家の売却の手続きを進め、実家にある山のようなモノの処分方法を相談し、引越しの手続きを進め、今月末、いよいよ手放すこととなりました。

あの家が私の実家ではなくなる。
ずっと何も考えないようにしてきましたが、私は正直、嫌だと思っています。
実家はずっとあそこが良かった。長期休暇に家族で帰って、親戚と一緒に食卓を囲み、定番だったデザートじゃんけんをしたかった。自分の子どもをまだ諦めたわけじゃないから、もし生まれたら連れて帰って、上の娘達も一緒に、私が小学校の入学式でもらった椿の花をおばあちゃんがずっと守ってくれているんだよって話したかった。そして何より、父との思い出が無くなってしまうことが嫌で嫌でたまらない。私はこんなにもあの家を愛していたのかと、今更ながら感じています。
家を出て行った私が、母に「あの家を守って」なんて言えません。

今月に入って数回、実家に帰りました。その時、小さい頃から父と母と通っていた食堂のたこ焼きと中華丼を久しぶりに食べました。お店のおじさんとおばさんは全然変わられてなくて、たこ焼きと中華丼の味もあの頃のままでした。
懐かしい味を一口、二口と食べ進めながら、私はきっとまたここに帰ってくるだろうと漠然と思いました。家が無くなっても、この味を味わいに、通った小学校を遠くから眺めに、学生の頃に入り浸った駅前のショッピングセンターを懐かしみに、きっと帰ってくるのでしょう。「ふるさと」とはそういうものなのだろう、と自分を納得させました。

実家を手放す当日は、そんなふうに思えないかもしれませんが、母の暮らしが少しでも穏やかになればそれで一安心です。そして実家も、無くなってしまう可能性もありますが、新しく命を吹き込んでもらえるかもしれない。どうにかそうしていただいて、誰かが住んでくれたらなと思います。

思うままに書いたので、前向きな気持ちだけではなかったけれど、思っていることが素直に書けたと思います。誰にも話せなかったこと、読んでくださってありがとうございます。

それでは、また明日。


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