【短い物語】 青いバラの花言葉

電車の扉が開く。並んでいた何人かが乗り込む。
自分以外の人たちは、空いていた席に座りに行く。
そんなに混んでいない時間。空席率は60%といったところか。

別に、座ろうと思ったら座れるが、
自分は座らず、扉の横のスペースに立つ。

なぜか。
誰にも邪魔されないスペースだからだ。

ここであれば、立ちながらではあるが、扉側に体重を預けることができる。
混んできた時に、立つべきか悩むこともない。

電車の絶対領域だ。

そんな扉の横スペースを今日も獲得することができた。
ここからの電車に乗る時間30分強が、このスペースを獲得できたことで至福の時に変わる。

とはいえ、
電車でやることと言えば、外の景色を見るか、携帯を見るか、だ。

この時代、携帯を使うのにも、いちいち広告をみてからじゃないとログインできない。
プレミアム会員になれば広告を外せますって、月10万だろ。自分らみたいな庶民には払えるわけない。携帯をひらくたびにおとなしく広告をみるしかないのだが、

「うわ、5分か」

広告は短いと5秒だが、長いと5分のものまである。その時選ばれた広告が流れるので、さながら広告ガチャだ。

今日のおれは運が悪いらしい。最長の5分広告を引き当ててしまった。携帯を開くのに、5分も待ちぼうけだ。

5分の間、周りの景色をみて、ぼーっとしようとしていたものの、広告から流れる「おすすめ」の言葉に、開始早々に屈し、購入のボタンを押して、その「おすすめ」を買うことにした。

最近は、パーソナライズ(個人特定)という技術が超進化を遂げ、もはや広告の商品を手に入れておけば、自分の人生は充実すると言える。自分たちで考えるのがばかばかしい時代なのだ。

ときに、我が国の主力産業は「データ」となった。

国民ひとりひとりの肉体の各所にチップが埋め込まれ、それらチップで肉体から取得したデータを、常にネットで「国家サーバー」に送り、そのサーバーに蓄積し続けたデータを、さまざまな形式で売り買いすることができる仕組みを、この国は組み上げた。

そして、チップはデータを取得し送信する機能だけを備えているわけではない。送信したデータを元に受信する機能もある。
それを個々人の「もと」に届ける機能を持つのが「携帯」だ。

データを外部から受信したら、肉体内に構築されたネットワークを介して肉体上の全チップに共有されたのち、携帯を通じて「すばらしい映像」に変換され、それを個人が見ることで、あたかも経験したかのように「それ」を追体験することになる。

だから、個人は「すばらしい映像」を受け取ることで、張り巡らされたチップまるごと自身の経験に上書き追加されたかのようになると言える。

そうなると、それぞれの位置情報、行動パターンと属性情報などを組み合わせて、企業の商品販売やらの促進に使われることはもちろんのこと、個人を特定できるため、その人にあった広告を直接個人の携帯めがけて送信することもできる。データを送る側が商品を売りつけられる側になるのが、最も商品販売には効率的なのだ。

そんなチップは当然脳にも埋め込まれている。思考や感情パターンは、脳から発せられる電気信号で、ある程度は読み取れるようになってきた。ゆえに、チップでのデータの送受信の中には思考や感情も含まれる。そう、受信も、だ。つまり、商品販売などを促す行動や体験が、情報としてだけでなく、思考や感情も含めて「意図的に」上書きを可能にしたのが、我が国の「国民ネットワーク産業」なのだ。

このように、「国家サーバー」を通じて、「個々人のチップから得られるデータ取得機能」「各チップへのデータ共有機能」そして「携帯への映像化機能」を、データを活用したいと思う様々な組織に対して、完全に解放したことが、我が国の産業を莫大なものにしていった。

ところで、個人たちは、日々この携帯で何をするか。

なんてことはない。結局、広告を見て終わる。
つまり、送られてきた「すばらしい映像」を、ただ見て過ごす。

携帯が「携帯電話」と呼ばれ、自身が操作して、能動的に情報を送受信していた時代は、すでに遠い過去だ。
いまや、完全受動的に、広告である「すばらしい映像」を受け取る手段が「携帯」だ。

携帯をあけるために広告をみて、携帯でなにをするかといえば広告をみる。
滑稽かもしれないが、もはやそれが日常なのだ。

さて、電車に乗り、扉の横に陣取り、5分の広告を、5分待てずに「購入」のボタンを押してしまったが、
いざ表示されたページを見てみると、「売り切れ」という文字。

「うお、この商品、売り切れかよ」

おそらく、さきほどの広告は同時に多くの人たちに送られ、
自分は数分くらい映像を見てボタンを押したものの、多くの人たちは、1分も待てずに押したのだろう。

せっかく買おうと思った商品だったが手に入らないのか。
そう思った次の瞬間、

「こちらの代替商品をどうぞ」
と言われる。

そんな広告に対して、

「んー、けど、さっきの商品のほうがよかったかなあ」
とか思っていたら、

「先ほどの商品を買えず、こちらの代替商品を購入のお客様には、商品券をお付けします」

よくわかっている。

結果的に、「携帯」に委ねれば、それでいいのだ。うまくやってくれる。
我々はいつのまにか、自然とそう思うようになってきたのだろう。

どうして我々は自分の人生を委ねるようになってしまったのだろうか。
その理由は、「人間」と「人類」とのせめぎ合いの歴史にある。

「人間」には時間がない。残された時間は有限。
しかし、「人類」という種族のレベルに立ってみれば、無限とも言える時間がある。

その意味を「人間」には実感することはできない。有限な時間の中で生きているからだ。
もしそれを理解できるとしたら、人間を越えた「人類という種族」レベルのAIじゃないと難しい。

「今日のお昼ごはん、何食べよう」という個人の悩みは、
「人類」という種族にとっては、知ったこっちゃない。

しかし、

「今日のお昼ごはん、人類は何食べるべきか」
この問いであれば、一定の計算式が成り立つ。

全人類それぞれの過去の食事データや、それぞれの食事の好みのデータ、そしてその日の健康や精神状態のデータなどを掛け合わせた結果を用いて、計算すること「だけ」であれば可能だ。

しかし、その計算結果を、ひとりの人間が実際に選択するかどうかはその人の意思の問題なので、
計算結果をそのまま選択するかは別問題であるはずである。

別問題であるはずなのだが、もし、「人間」が「人類」に含有されようとするのであれば、
各「人間」の人生は、「人類」という永き時間のほんの一部になってしまうがゆえ、計算ではじき出されてしまう。

つまり、「人間」が「人類」に取り込まれず、自身の意思に固執するのが、「前時代的な人間」であり、
そうではなく、「人類」という「計算結果」に委ねてしまうようになったのが、この時代の「人間」というわけだ。

それ以上の理由はわからない。
歴史の結果、そうなったのだ。

さて、ここでひとつの疑問が浮かぶ。

「人間」が、「人類」のデータによる計算結果に委ねる社会を選択したとして、
ある「たったひとりの人間」が、その計算結果とは、全く異なる選択をしたら、

どうなるか。

考えるまでもない。答えは明確だ。

ずばり、
「たいした影響はない」

言ってしまえば、これが、「社会」の原理なのだ。

「ぴぴぴぴ」

携帯が鳴る。
昨今、広告を受け取るだけの携帯から音が出るのは珍しい。

何事だ?

「着信」というボタンを押してみると、

「なんだ?一瞬、青い花がみえたような・・・」

なにか「質の悪い映像」が混線してきたようだったが。

周りを見渡すと、電車の椅子に座っていた人たちも同様の反応をみせていた。
どうやら、その「質の悪い映像」をみたのは自分だけじゃないようだ。

その映像がなんだったのか気になる。
気になったら聞けばいい。それがこの時代だ。

「いま、一瞬、青い花の映像が流れなかったか?」
携帯に聞いてみると、

「はい、外部から不法に映像が差し込まれました。現在原因を調査中です」
と回答があった。

「あ、いや、それはいいんだが、さっきの青い花は何かわかるか?」
と聞くと、

「はい、細かい品種はわかりませんが、バラ科バラ属の花である可能性が高いです。ただ、自然界に青色の品種は存在せず、あえて色をつけた観賞用のものと思われます」

なるほど、人工の青いバラか。
しかし、誰が何のためにそんな映像を。しかもわざわざ法をおかしてなぜ流してきたのだろうか。

そう考えを巡らせていると、今度は「質の悪い音声」が聞こえてきた。

「おまえは自由か?」

反射的に後ろを振り返ったが誰もいない。今一度周囲を念入りに見渡したが、その音声の発生源はつかめない。
おそらく携帯から発せられたのだろう。しかし、チップを通じて、周囲から聞こえたように錯覚してしまう。

とかく、何が起きたのだろうか。
青いバラ、自由、これは偶然なのだろうか。何か意味があるのだろうか。

そうこうしているうちに、最寄りの駅に電車が到着した。
扉が開き、駅のホームに降り立つと、携帯から「すばらしい映像」が流れてきた。

「今日の帰り道は、このお店に寄ってみてはいかがでしょうか」

いつものことだ。

駅の改札を抜け、指定された道を歩き出した。
おそらく、その店に入ったら、買うべき商品が提示される。その魅力をふんだんに訴求した「すばらしい映像」で。

そんないつもどおりの展開を想像しながら歩いていると、
ふと先ほどの「質の悪い映像」と「質の悪い音声」が頭をよぎった。

「自由か・・・」

そう呟いた時、
さきほど想像した「いつもどおりの展開」が気持ち悪くなってきた。

自由とは何か。
いまこの状態は自由なのか。

もし不自由なのであれば、自由というのは、あえて獲得しなければいけないものなのだろうか。
自由は獲得できるものなのだろうか。

獲得できるものなのであれば、獲得するための「ゲーム」がそこにあるはずである。
景品として自由が得られるゲーム。

されど、そんな自由を獲得するためのゲームのなかで獲得した自由は、果たして自由なのだろうか。
それは「与えられた自由」に過ぎないのではないか。

もし自由が「与えられる」ものなのであれば、すでに与えられているのかもしれない。
そうだとしたら、いまこの状態は、チップや携帯、そして国家サーバーによって、自由が与えられた状態なのかもしれない。

そんなことを考えながら、駅から指定されたお店に向かって、携帯を見たまま歩いていたその目線を、ふと周囲の景色に上げて見てみると、
ちょうどそこに花屋があることに気づいた。

「こんなところに花屋があったのか」

普段はずっと携帯を見て歩いているので、道沿いに何があるかをほとんど知らなかった。
足を止めて花屋に入ってみると、陳列されているいろんな花の中に、数本の「白いバラ」が売られていた。

その数本の白いバラを買うことにした。
花束にしてもらい、両手に抱えて、家路についた。携帯はかばんにしまって。

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