愛は、そんなに甘くない。
愛って、いちごのショートケーキみたいに甘いのかと思っていた。
そんなことを思っていたのは、随分昔の話なのだけれども。
大人になるにつれ、愛って甘酸っぱくもなければ、そもそも甘くもないと思うようになった。チョコレートでいうならビターとか、カカオ75%くらいの甘さ。ほんのり甘いような気がする程度。子供が食べたら苦いと感じるであろう、大人の甘さというやつだ、というお話。(結論)
こんばんは。にゃんちーです。星読み屋さん時々タロット使い。noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。
(キーボード打ってるわけだし)
何者でもない私としてを徒然なるままに書こうと思います。
またもこんな夜更けにnoteです。私にとってこういうものは、夜な夜なこっそり書くものらしい。
愛と甘えの違いってなんだろう、と考えるようになりました。
よくある女性雑誌風に言えば、甘え上手は愛され上手ってやつ。
その「甘え」は「愛」と、いかほど関係があるのかなと。
私はもう、本当に申し訳なくなるくらいに甘えるのが下手くそです。どのくらい下手くそかって、3連チャンで「君は一人で生きていけるよ」と言われてフラれるくらいには下手くそ。
ここ、笑うとこです。
もはやネタだし、自分でも流石に3回目は笑ってしまった。彼は初めてそんなこと私に言ったわけですが、私は3回目だったわけで、絶対笑っちゃいけないとこで盛大に笑いました。
脳内で「〇〇、アウトー!」と流れました。
話を戻そう。
そもそも、愛と甘えは全然違うのである。かすりもしないくらい、違うのだ。
漢字の成り立ちがそれを物語っている。
甘という漢字は
口に食べ物を挟んでいる状態の指示文字。
甘んずると言いますが、甘いという漢字はひたすらに受け身なのだ。実際、与えられたものをそのまま受け入れるという意味がある。なんなら、可愛がってもらおうとねだる意味もある。
さらにさらに、詰めが甘いとも言いますね。
そう。足りないといういこと。つまり、未熟だということです。
いやはや、もう、親から餌が運ばれてくるのを待つ雛鳥なの?って感じです。漢字だけに。
では、愛という漢字はというと
頭を一生懸命巡らせる人に心臓と、足が生えた象形文字。
正確には、頭を巡らせて心を振り向き、見る人。そこに心臓と足が付いています。
これを知った時、すごく素敵だなと思ったんです。
想像してみてください。
人を想う心。その人のことが頭を駆け巡る。そして、その人のことを知りたいという想いから相手に歩み寄る足。
好きな人のことを知りたいと思う気持ちは、ずっとずっと昔から変わらないのだなと思いました。
愛は主体的なのだ。
何しろ自分から歩み寄るのだから。口を開けて待ってるだけの甘いものではないのである。ただただ貴方のことをもっと知りたいと、物理的にも心理的にも近づいていくものなのだ。何かを享受しようと、愛されようなどとする姑息な手は、この漢字に含まれていないではないか。
大切な人ができた時、愛したいと思うと同時に、愛されたいとも思うだろう。
私だってそうだ。
でも「それが欲しいから、これあげる」ってどうなのよ。これはまだ物々交換だから許せるような気もする。まだね、まだ。嫌だけど。
「ご飯くれなきゃ愛されてない」とピーチクパーチク鳴く。
その口から出る愛してるは、愛してくれたら愛してあげるの省略形ではないのか。
その口から出た愛してるは、飯食って飛び散った唾なんじゃないのか。
別に聖母マリアのような、マザーテレサのような、菩薩のような心で施せって言っているのではない。
甘えるな、って話なのだ。
口を開けて待ってるだけの雛鳥の面倒など、御免である。
子育てや介護となれば話は別だが、そうでないのにその口にご飯を運ぶのが愛などと言われても、私は寂しいだけなのだ。
かといって今更、口を開けて餌を待つ可愛い子供には戻れない。
私はあなたのことが好きだから、ただそうしたいから、する。
もうずっとそんな風にやってきた。
頭を使う。
心をこちらに向かせる。
自分の足を動かす。
全部できて「愛」が成立する。
ほらね。
全然、甘くなんかないじゃないか。
結構スパルタじゃないか。
きっとチョコの中にシナモンとか、スパイシーな香辛料が入っているのだ。
今日も明日も、苦くてちょっと甘い香りのするチョコレートを頬張りながら、私も大人になったもんだと思うのである。
やっぱり愛は、そんなに甘くない。
最後まで読んでくださってありがとうございます! もしよろしければ、また遊びに来てください🐱❤️ いただいたサポートは精進すべく勉強代・書籍代にあてさせていただきます。noteなどの発信や鑑定を通して還元していく所存です。押忍!