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他人に求めていることは、自分自身に求めていること。

他人に求めちゃうことって、ないですか?
もっと優しくしてよとか、もっと認めて欲しいとか。
こうやって他人に何かを求め、仮にそれが叶ったとしても、満たされるのは一瞬。そもそも他人に求めている間は、なぜか上手くいかない。

そりゃそうだ。
だって、それ、本当は自分自身に求めていることだもん。というお話です。(結論)

こんばんは。にゃんちーです。星読み屋さん時々タロット使い。
noteは徒然なるままに、筆ならぬ指を走らせよう。
(キーボード打ってるわけだし)
何者でもない私としてを徒然なるままに書こうと思います。

他人に何か求めてしまうこと、ありますか?
私はありました。「ありました」と過去形ですが、完全にクリアというわけでもなく、今でも時々あります。

何かを求めるって、目に見える物やお金を頂戴なという話ではなく、例えばもっと認めてよとか、構ってよとか、優しくしてよとか、愛してよとか。
承認欲求という言葉をよく聞くようになりましたが、これもそう。もはや最たる例かもしれない。

冒頭に結論を書いてしまったのだけれど、こういう目に見えない感覚を他人に求めているうちは、不思議なくらい、上手くいかない。
いやはや、ここからは、もう情けないくらいに、実体験です。

例えば優しい人。
一口に優しい人と言っても、いろんな人がいる。
本当は自分が優しくされたいから、他人に優しくしている人もいる。
打算的だと言ってしまえばそうだけど、今回はそういう話がしたいのではない。

きっと、誰だって、他人から優しくされたい。
されたいけど、そもそも、自分で自分に優しくしてますか?という話なのだ。
この類の優しい人は、恐らく、自分に異常に厳しい。
自分に優しくするって、どういうことか分からない人もいると思う。鋭い方はお察しでしょう、かつての私が正にそうでした。

私の場合は優しくされたいから優しくしていたわけじゃないけれど、自己犠牲的に優しかったので、言葉を選ばず書いてしまえば、搾取されまくっていた。(今だから分かるのだけれど…)
それゆえ、いつも不満の塊で「こんなにしてるのに、なんでだよ!」と思っていましたよ。ええ。

昔の自分に教えてやりたい、順番が違うんだと。

私、典型的な「助けてが言えない子」でした。今でもあまり得意ではないです。自分から助けてと言えない代わりに、他人に手を差し伸べてしまっていたタイプです。
それを人は「優しい」と言ってくれましたが、本当はそうじゃない。
そう、私がツライ時に助けて欲しかっただけだから。

一昔前の私は、本人の口から「助けて」とか「手伝って」と言われる前に助けちゃってたんですよね。だって、見ればわかるから。
だけどこれは見方を変えると、本人が失敗したりチャレンジしたりする機会を奪っている。成長するチャンスを潰しているとも言える。
これが積み重なると、言わなくてもやってくれる人、つまり都合の良い人になり下がるので、相手に色々と持っていかれてしまう。時間も労力も、こちらの気持ちも。

なんでも手助けしちゃうことに加え、自分からは助けてが言えないせいもあって、気づけば「なんでも一人で出来る子認定」されてしまっていた。
結局、自分の首を絞めていたのでおじゃる。
全然自分に優しくなかった。他人を助けることに手一杯で、自分が自分を助けることすら出来ていなかったのだ。

助けてじゃねぇよ、自分を自分で助けてやれよ!と。
長くなるので話をすっとばしますけど、都合の良い人を卒業すべく、自分に優しく強化月間を決行したのであります。一月と言わず、出来るようになるまでずっとです。これは、今でも意識しています。

今日、ふと「自分に優しく出来てる」と感じた出来事がありました。
唐突ですけど、今日、コインランドリーに行ったんですけどね、雨が続いているので混んでいたんです。
私が洗濯物を放り込んでいたら、Aさんが「そこ、壊れてるみたいよ。私も回そうとしたらエラー出てたの。」と教えてくれました。
するとBさんが「ここ、あと2分で空きます!」と。
今度はCさんが「こっち空いていますよ」と。
更にDさんが「乾燥だけなら、小さい方で十分よ。今空いたわよ」と。

ちなみに全員、見知らぬ方です。
(強いて言えば、みんな長雨による洗濯難民。)

そしてこの間、私、一言も発していません。
矢継ぎ早に言われて、誰?どこ?と視線移動で精一杯だった。笑
(コインランドリー広くて)
そもそも私は、ドラムのエラー表示に気づいていませんでした。

小さいドラムの方が安いので、Dさん案となりました。
みんなに「ありがとうございました」と伝えてペコペコしながら移動したのだけれど、内心「え、なに。みんな優しい…田舎万歳」と思いました。

家に帰ってきてからふと、この出来事を通して「あ、私、自分で自分に優しく出来てたんだ。自分で自分を助けてあげられてたっぽい。」と思ったんです。

私の記憶の限り、こんな風に、私が何も言わなくても誰かにサラッと助けてもらったことは、ほとんどない。助けてと言わない限り困っていることが伝わらないのだから、そりゃそうだろって話なんですけど。
でもきっと当時の私には、他人が差し出してくれた手が見えていなかっただけなのだろうと思います。

でも今日、助けてもらったんですよ。不思議なことに。
エラー表示が出ていることを知っている人(Aさん)が居たことがミラクルだと思うし。だってAさん、乾いた洗濯物、畳んでいたから。

こうやって拾い上げられるようになった、他人が差し出してくれた手に気がつけるようになった。
それは他ならぬ自分が、自分自身に手を差し伸べてあげられるようになった証拠なのだろうと思います。
そうして初めて「ありがとう」と思えるようになった。自分にも、他人のそれにも。

助けてよと、他人に求めているうちは上手くいかなかった。
だけど、まず自分で自分を助けてあげようとしていくうちに、いつの間にか、周りの人が色々助けてくれるようになった。

これは今日のコインランドリーの件だけじゃなくて、自分に優しくすることを意識するようになってから、本当に色んな人に、もの凄く助けてもらった。
そういう人たちのことを「優しいな」と思う。

だけど、その人たちは本当に私のことを気にかけてくれているだけで、昔の私みたいな打算的なあれじゃない。なぜなら、私もその人たちが困っていたら、助けたいと思うからだ。

あれだ。自分を大事にするようになったら、他人からも大事に扱われるようになった的なやつだ。

なにもこれは、優しさに限ったことじゃない。

愛して欲しい。
認めて欲しい。
構って欲しい。
話を聞いて欲しい。

全部、自分自身に求めていることなのかもしれない。

自分で自分を愛せないから、他人に愛して欲しいと求める。
自分で自分を認められないから、他人に認めて欲しいと思う。

けれど、本当に愛されたいのは他人にではなく、自分で自分を好きになりたいんだ。
本当は他人にではなく、まず自分に認めてもらいたいんだ。
自分が自分にして欲しいことを他人に求めるから、おかしなことになるのだ。

自分に対して出来ないこと、他人に対しても出来やしないのだから。
自分に対して出来ていないことを他人してもらったところで、どうせ満足しないのだから。

順番が違うのだ。
まず自分自身にそれを求めているのだから、他人に求めるのではなく、自分で叶えてあげることが先なのだ。

自分と向き合うって、そういうことなのかもしれない。
自分に寄り添うって、こういうことなのかもしれない。

以上!今日の話にオチはない。
したらばまたにゃーん。

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