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開戦に至る閣僚たちの「戦後」から考える

夏には戦争を振り返る機会が多くあり、TVでの特集が放映され「反省」が強調されます。

私は韓国を習得して現地にいたこともあって、韓国人と意見交換することがよくありました。やはり「歴史」が話題になります。韓国側の「歴史の清算」等については、私は否定的な立場です。かつて靖国参拝に関連して反論した際に「いわゆる戦犯と言っても重光葵や賀屋興宣のように戦後閣僚として活躍した人もいる」と説明したことがあります。

韓国の知人からは「ほら、日本が反省してない証拠だ」と言う反論もあり、それはそれで反論したものの、少し触発されたところもあります。

戦争を主導した人たちは戦後どうなったのか。東条内閣の閣僚経験36人中12名は岸信介総理をはじめ戦後、公職追放解除後に選挙で当選し、閣僚なども務めています。(後段の表を参照して下さい。)

戦争を主導したから全否定で断罪抹殺せよ、ではなく戦後に説明責任は問われるべきだったのではないかと感じます。実際昭和40年代にも生存していた方も多くおり、戦後日本自身の手で行うべきであった政策の失敗に関する検証が放置されてきたのではないかと思うようになりました。

中には猪瀬直樹氏の有名な『昭和16年夏の敗戦』に出てくる鈴木貞一企画院総裁(現在の経済財政担当相に相当)。平成元年まで生きていました。猪瀬氏のインタビューに昨日の話のように答えたという話が印象的です。鈴木貞一氏が同調圧力に屈していく姿は、今の私たちにとって本当に他人事でしょうか。

猪瀬氏が自民党での講演でも話してこの点を強調しています。(猪瀬氏が維新から参議院議員になった後も政治事情として削除せず、寛容に知識を学ぶ姿勢を自民党が大切している点は拍手し評価されるべきと思います。)

主に、第二次近衛内閣、第三次近衛内閣、東条内閣と「大本営連絡会議」の参加者についてまとめてみました。特に第二次近衛内閣以降が問題だとよく指摘されますので、閣僚たちの東京裁判と戦後、没年をまとめ、考えた3点を書いてみました。


第2次近衛内閣

第二次近衛内閣

第3次近衛内閣

第三次近衛内閣

東条内閣

東条内閣

大本営連絡会議

大本営連絡会議

(1)戦後の活躍の一方で政策判断の検証は本当にされたのか

東京裁判に関連し、サンフランシスコ講和条約で「判決を受入る」「裁判を受入る」の問題がありますが、戦犯として禁固刑になったとしても、講和後は公民権も回復しています。そのことを否定しようとも思いません。戦後に議員に当選し大臣(岸信介総理、重光葵外相、賀屋興宣法相)もいます。

しかし、東京裁判及び判決の正当性ではなく、戦後に政策決定についての国内的な検証と追及が十分ではなかったと強く感じます。その一方で「天皇の戦争責任」という当時あった議論について。私としては強く否定的に考えています。終戦後に冷戦体制にも入ったこともあり、戦争への政治判断そのものが政治的な責任追及の論点や観念論に変化しました。

岸信介総理に対する安保条約の際も、国会で何度も繰り返し「道義的」な非難や追及はありましたが、検証はされていません。安保への反対と東条内閣の閣僚としての忌避感が入り混じった非難で、安倍総理が良くも悪くもこの点を引き継いでいたように感じます。

「東京裁判」のおかしさは、多く指摘があります。しかし最も重要なのは検証作業を「東京裁判」という「勝者の裁きの行事」に委ねてしまい、自国で検証を行わなかった点です。

さらに「軍の暴走」の決まり文句で責任を軍だけに押し付けてないか、ここも検証が必要です。(念のため。陸海軍に責任が無いということではありません。)開戦に至る検証が甘かったことが、戦後の安直なお花畑の「平和主義」ごっこを助長した温床になっていないでしょうか。

(2)文民閣僚が自決の形で「責任をとる」一方で、戦後生きながらえた軍人もいる

軍人として鈴木貫太郎内閣での阿南惟幾陸相の自決は良く知られています。

阿南陸相「一死以テ大罪ヲ謝シ奉ル」昭和20年8月14日

軍人だけではありません。

東條内閣の橋田邦彦文相はGHQよりA級戦犯容疑者として指名され警察が迎えに来た際、服毒自殺をしています。

第三次近衛内閣、東條内閣の小泉親彦厚相(軍医中将)もGHQの取調を拒否し、白装束で切腹しています。

ちなみに、小泉親彦厚相は陸軍で初めてBCG接種を行い、結核予防で多くの人命を救ってもいます。初代厚生大臣であり、現在の厚生年金保険を作り国民皆保険を唱えています。

戦後を生きた軍人

代表的なのが開戦時の嶋田繁太郎海相です。終身禁固刑の後、昭和51年まで長生きしていました。海上自衛隊の練習艦の壮行会に嬉々として出席し挨拶までしています。これには井上成美海軍大将なども激怒したようですが、嶋田繁太郎氏に対して当時の検証がどのようにされたのか。強く疑問に感じるところです。「実際は当時として大したことやってないから」との指摘もありますが、政治責任として失格でしょう。

陸軍の畑俊六元帥は、昭和37年まで生き、郷里の神社で黙々と草むしりをしています。

310万人の戦没者、246万余柱の英霊を前に、敗戦の責任を問われるのは当然です。

自決が責任の取り方の全てではありません。自決によって真相が闇になったこともあります。それでいいのかどうか。当時の閣僚たちの戦後を見るにつけ、考えさせられます。

(3)開戦前は当事者能力の高い人を閣僚に選任している

当時とは憲政の上で「内閣」の位置づけが戦後と異なる点や、開戦に関しては軍部が主導し、他の省庁は何も知らされなかった、との見方もあるとは思います。当時は情報を全く把握できてなかった無能、愚かという説明も良くされます。

ただ、本当にそうなのか。

総力戦への対応が叫ばれ、他省庁も知らぬ存ぜぬだったという説明には説得力が無いと思います。本当にそうなら役所の縦割りで情報共有についても検証が必要でしょう。現在も役所の縦割りで情報共有がされているとは言い難いからです。

繰り返しますが、本当にそうなら猪瀬直樹『昭和16年夏の敗戦』での「総力戦研究所」は一体何だったのでしょうか。総力戦体制は国家を挙げて意識されていたはずです。

しかも、当時の閣僚の出身を見てみても官僚出身者や実業界から多く選任しています。一覧を作ってみて改めて感じました。

現在の自民党の派閥順送りによる素人閣僚の答弁朗読係とは全く異なり、当事者能力は非常に高い
です。閣僚の学歴の面でも、東大陸士海兵ばかりで今風に言う「偏差値高い人」ばかりです。それゆえ戦後も会社経営などで実力を発揮したのでしょう。

当時の内閣の閣僚たちは愚かでも素人でもありません。「言論弾圧が」「軍部の独裁が」これらはみな戦後になって責任追及を逃れるためだけに言い出したのではないでしょうか。

翻って考えてみましょう。「失われた〇〇年」の政策について検証はされたのでしょうか。政策立案から効果検証まで議論されたことがあるのでしょうか。野党の責任追及は単なる「つるし上げパフォーマンス」で、役所も「無謬神話」を壊れたテープレコーダーのように繰り返す。

これでは戦前を「愚か」だの「無能」だの「戦争反対」でまとめるメディアの「8月の反省ごっこ」のほうが逆に非常に危ういものを感じます。

(4)戦後の「GHQ焚書」と「閉ざされた言語空間」による沈黙

西尾幹二先生の指摘は当たり前のことながら鋭いと思います。「日本がなぜ戦争をしたかばかり問うていて、アメリカがなせ戦争をしたのか問うていない」。

当時の閣僚たちも当時のアメリカの戦争に積極的な姿勢を認識していても、戦後に詳細を語っていない側面があります。これはGHQによる言論統制の側面も大きいと思います。西尾幹二先生の老境の大事業「GHQ焚書図書開封」で私も再認識しました。

アメリカ側の意思や動向を当時どの程度、どのように把握していたのか、のほうが興味があるところです。「アメリカ側が一方的に真珠湾でだまし討ちにされた」というのは、戦後のアメリカ側のプロパガンダの側面が一切無視視されています。

同様に、江藤淳先生も戦後GHQによる言論統制が戦後の言論空間に与えた影響を指摘しています。

別の見方をすると、当時の閣僚たちも、当時を語りえなかった占領期の事情も考慮する必要があります。

開戦に至る経緯や事情を、戦後の「呪縛」を離れて今一度、私たちの手で自由に検証する時代ではないかと思います。



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