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奥美濃・郡上「古今伝授」の意義(世界史の中の岐阜⑥)

岐阜県郡上市大和町に「古今伝授の里フィールドミュージアム」がある。

この歴史的意義を日本の古典になじみのある人向けの説明だけでは不十分ではないかと感じた。そこで「世界史の中の岐阜」ということで考えてみた。

中世の320年間にわたってこの地を拠点に東(とう)氏が奥美濃郡上を治めてきた。古今伝授を確立した東常縁(とうのつねより)をはじめ、代々和歌の家柄でもあった東氏。1471年(文明3年)、東常縁は美濃国妙見宮(現在の郡上市明建神社:トップ画像)において連歌師宗祇に古今集の伝授を行った。当時は応仁の乱(1467-1477)の真っただ中に、京都の公家や僧侶が戦乱を避けて、地方に下向する。飯尾宗祇も、その一人だった。京都では戦乱で学びにくくなった古今集をわざわざ奥美濃の郡上まで来て古今伝授を受ける。

鎌倉時代初期、藤原定家の御子左家は「歌の家」として確固たる地位を確立した。やがて定家の孫の代になり、歌の名家は二条、京極、冷泉の三家に分裂したが、古今伝授はこのうち、主流であった二条家(二条流)に伝わったもののようだ。これが、「秘伝」のように扱われてきた。郡上市八幡には、「宗祇水」もある。

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飯尾宗祇

これが一般的な説明だろう。筆者としての解釈や愉しみ方を書いてみよう。

そもそも、万葉・古今・新古今で知られる日本の古典文学の和歌では、古今和歌集より、万葉集が人気だ。元号「令和」で採用されたこともあるが、江戸時代後半からは「万葉集」が国学の隆盛によって「発掘」されて評価が高く、「古今集」は特に明治に入って正岡子規などが酷評している。

貫之は下手な歌よみにて古今集はくだらぬ集に有之候

正岡子規『歌よみに与ふる書』

なお正岡子規についてはNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』で香川照之の衰弱から病死の迫真の演技が印象に残る。最近は銀座で元気一杯。

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NHKスペシャルドラマ「坂の上の雲」での秋山真之(本木雅弘)と正岡子規(香川照之)

蛇足ながら新古今和歌集についても加えると、勅撰したのは後鳥羽上皇。大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では尾上松也が好演している。

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NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」での後鳥羽上皇(尾上松也)

ちなみに筆者が好きなのは新古今和歌集の藤原定家の和歌だ。

見渡せば 花も紅葉も なかりけり 浦の苫屋の 秋の夕暮

新古今和歌集 藤原定家
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しかし、筆者としては「伝授」という手法によって継続性のある「古今集」が日本史全体のなかでは和歌の伝統の起点ではないかと考えている。他に古今集を高く評価しているのは三島由紀夫だ。

ぼくは日本文化というものの一番の古典主義の絶頂は『古今和歌集』だという考えだ。これは普通の学者の通説とは違うんだけどね。ことばが完全に秩序立てられて、文化のエッセンスがあそこにあるという考えなんです。あそこに日本語のエッセンスが全部できているんです。

三島由紀夫「守るべきものの価値」

われわれの文学史は、古今和歌集にいたって、日本語というものの完熟を成就した。文化の時計はそのようにして、あきらかな亭午を斥すのだ。ここにあるのは、すべて白昼、未熟も頽廃も知らぬ完全な均衡の勝利である。日本語という悍馬は制せられて、跑足も並足も思いのままの、自在で優美な馬になった。

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一方で万葉集は結果として読まれなくなった時代があり断絶しているため、伝統の復興という側面がある。これはこれで世界史的な価値があり、江戸の国学に至る知的熱情と欧州でのギリシャ・ローマへの熱情と文献学、中国清朝の考証学での古典への傾倒の類似は西尾幹二先生の指摘(『江戸のダイナミズム』もあるが筆者もこれには唸った。

筆者からすれば、日本語には奈良時代の漢字の流入(唐文明の衝撃)で、日本語に漢字が内包されている。これをうまく使いこなし、自在に表現できるようになった平安時代の「完熟」を古今集に見出せるのではないだろうか。筆者は拙稿でも述べたが、万葉集に結実した「志」に中国語韓国語使いとしての強い思い入れがある。

古今集の「伝授」と万葉集の「復興」の2つが「伝統」を鍵として対称的に「世界史の中での日本文学史」を彩っている。

そもそも古今和歌集は上流階級の教養である和歌の中心を成していたが、注釈無しでその内容を正確に理解することは困難だった。このため、古今集解釈の伝授を受けるということには大きな権威が伴った。

古今集が宗教書でもないのに、「伝授」という手法で千年を経て続いてきたことに何も疑問視されず説明されるが、ここにこそ価値がある。宗教書であれば、宗教がその書物を必要とするから、経典聖典の伝統は続くのが当然だろう。信仰だからだ。信仰には強制力を伴う。経典のような信仰の対象とは一歩引いた形での文献が読み継がれてきた。(日本仏教では経典の文献学・解釈学が発展しなかったことと対照的でもある。)

宗教・信仰には禁欲がつきものだ。禁欲を徳目として、あたかも生活の規律であるかのように書に記載するのが、グローバルな一神教では一般的だ。ところが、この「古今和歌集」は何だろう。徳目は一切出てこない。禁欲も無い。それどころか、男女の恋愛の熱情に至っては、高校生の授業で取り上げていいのか不安なものとすらある。

筆者の感覚からすると、五七五七七の言葉にうまく落とし込んで表現した、と言ったらよいだろうか。詩であるから、解釈はいく様にもできる。ここから考えると、知識を教養として、雅なものに触れたい文化への渇望と言えないか。しばしば指摘される日本人の「知的好奇心」の一端ではないだろうか。

また、「伝授」の「秘伝」とは何だろう。秘密と価値はセットと言って良いだろう。現代でも、企業で秘密保持契約を締結するときがあるが、対象除外として「公知公用」があげられる。公に知られてしまえば、その秘密とする価値は必然と低下する。

古今伝授の場合はどうだろう。日本の識字率は江戸のイメージで語られる。
しかし、中世は識字率は極めて低かった。そういった知的環境の中で、一部知識階層だけが読みうる書籍の中で、伝授を必要としてまで、彼らは何を読み解き、何を得たかったかったのだろう。この熱情はどこから来るのか。
ここが、世界史的に見て、異例な現象の一つ
なのだ。なお現在では古文の授業でも習い、一般に知ることができるが「伝授」によって雅なものの価値をさらに高めている

そして、飯尾宗祇が伝授された影響も重要だ。宗祇が美濃郡上に来たのは、応仁の乱の最中だった。応仁の乱は単に戦乱の文化破壊ではなく戦乱による文化の伝播の面が非常に重要だ。この古今伝授をさらに地方に下向し伝えて広がっていく。飯尾宗祇の郡上における古今伝授もそのうちの一つだ。

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応仁の乱 京都での「前のいくさ」は応仁の乱

ちなみに、応仁の乱の文化破壊と言えば、1990年代に政治改革で有名だった細川護熙首相の父君の護貞氏は「お宝たくさんあるんですよね?」と問われ「前の戦争で焼けました」と答えるジョークが有名だ。この「前の戦争」は当然、応仁の乱を指している。

古今集に限らず、地方に下向した(都落ちした)貴族たちの持参した書物に必ず「天皇」や朝廷が出てくる。中世の戦乱の無秩序の中、無学な地方の、言ってみれば人殺し屋、荒くれものの武士たちが「天皇」を発見し、憧れる。宗教書でもない、ただの和歌集が歴史を動かす原動力になっていく

これが戦国時代における「天皇」権威上昇の契機にもなっている点が非常に重要だ。中世は戦乱で毎日が殺し合い。今風にいえば暴力団が、日常の人殺しに疲れ果て癒しを求めた書が古今集だった。ここに戦乱を終わらせる平和の原点としての「天皇」の発見がある

細川氏の先祖である細川幽斎は、古今伝授を三条西実枝から受けていたが関ケ原の戦いの前哨戦として田辺城(京都府舞鶴市)の戦いで石田三成の軍勢に囲まれた。

NHK大河ドラマ「麒麟が来る」の細川藤孝。光秀も裏切っている。出家後に「幽斎」。

幽斎の弟子の一人だった八条宮智仁親王は2度にわたって講和を働きかけたが、幽斎はこれを謝絶して籠城戦を継続。敗北を悟ったのか使者を通じて『古今集証明状』『源氏抄』『二十一代和歌集』を八条宮・朝廷に献上。書物はあっても、幽斎戦死では古今伝授が途絶えると考えた八条宮は後陽成天皇に奏請する。三条西実条らが勅使として田辺城に下され、関ヶ原の戦いの2日前に勅命による講和が結ばれた。幽斎は2ヶ月に及ぶ籠城戦を終えて城を明け渡した。

江戸時代に細川氏は熊本を拠点とし、「古今伝授の間」が水前寺公園に伝わる。

この細川幽斎の徹底抗戦と講和を通して徳川家康の正統性が各方面に周知されてしまったとも言え、関ケ原の合戦の帰趨を決めた一つにもなっている。
言い換えれば「裏切り常習犯・細川幽斎」も後陽成天皇の講和勧告には素直に従った点に注目するべきだ。講和でも古今集そのほかは石田三成には渡してはいない。石田三成に渡ったら関ヶ原の合戦で西軍有利の要素にもなっただろう。そこを仲介したのが古典で繰り返し登場してきた、ほかならぬ「天皇」だったのだ。古今伝授は、その後の世界史に見ても稀な250年にわたる江戸時代の平和(Pax Tokugawana)の端緒となる「象徴」でもあるのだ

そして、この古今伝授が、何より文化の中心であった京都でなく、草深い奥美濃に息づいてきた。飯尾宗祇も500年以上前に伝授を受けた当時と変わらない紅葉や花々、せせらぎの千年変わらないその風景が、その重要性を語りかける。

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