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「甘味」で歴史や宗教をナメてみる

ハチミツは人類の歴史の中で、古くは古代エジプトの時代から食を始めました。薬や美容に使われてきたことで、世界の宗教とも関わりを持っている特徴があります。

カトリックでの蜂蜜

キリスト教カトリックの世界において、ミツバチは象徴的にも重要な役割を担ってきました。女王蜂は交尾せずに産卵すると思われていたようです。これが聖母マリアの処女懐胎との連想で聖性を付与された要因と考えられます

カトリックの聖人アンブロジウス Sant'Ambrogio(339 - 397)は、ミツバチ、養蜂家の守護聖人として知られます。その肖像画には、ミツバチの巣箱をもつものもあります。

カトリックの聖人アンブロジウスSant'Ambrogio(339 - 397)左手にミツバチの巣箱

聖人アンブロジウスはミツバチの巣を教会と比較し、それぞれの花から蜜という最高の産物を摘み取る働き蜂をコミュニティーのメンバー(教会員)に見立てたともいわれています。働き蜂の勤勉さと秩序正しい営みは、修道院生活の模範となったことで、修道院は養蜂推進の中心的な役割を担ったという面も考えられます。

また、ハチミツの甘さはキリストの「無限の慈悲」を象徴し、ハチの刺針は生涯の最後の審判の罰のシンボルとしても相応しい、と考えられているようです。

旧約聖書の中には、約束の地として知られるカナンの描写に、「乳と蜜の流れる場所」と言う記述があります。また「心地良い言葉は、蜂蜜のように魂に甘く、身体を健やかにする」ということわざも登場します。

親切な言葉は蜜の滴り。魂に甘く、骨を癒す。

箴言/ 16章24節 新共同訳

英国-ケルトの伝統文化での蜂蜜

カトリックだけでなく、英国史を見てみましょう。2022年9月に英国でエリザベス2世が崩御しました。これを受け王室に仕える養蜂家がバッキンガム宮殿にあるミツバチに女王崩御と新たな王の即位を報告したと伝えられています。

王室公認の養蜂家であるジョン・チャップル氏によると、バッキンガム宮殿には5つ、王室の邸宅であるクラレンス・ハウスには2つの養蜂箱があり、多い季節には合計で100万匹ほどの蜜蜂がそこで飼われているようです。

チャップル氏はそれぞれの巣箱に黒い喪章をつけてから各巣箱を訪ね、しめやかにエリザベス2世の崩御を報告すると共に新国王であるチャールズ3世が蜜蜂の主人となることを告げました。

チャップル氏が行った儀式はヨーロッパに古くから伝わるしきたりによるものです。古代ケルトでは蜜蜂が神聖視されており、その文化を受け継いだ欧州各地には蜜蜂を家族の一員とみなし、誕生や死去の際は蜜蜂に報告する風習が残されています。もし報告を怠ると蜜蜂は蜜を集めなくなり、やがて巣箱から去ったり死に絶えたりしてしまうという言い伝えがあるようです。

イスラームでの蜂蜜

またイスラム教のクルアーンの中でもハチミツは楽園のシンボルとして使われています。クルアーンには、第16章に「蜜蜂の章」があります。

神は蜜蜂に言った、「山を、木を、人間が蜜蜂のために建てた物を、住居とせよ。あらゆる果実を吸い、神の道に働け。」

16章68節69節

蜜蜂の腹から、人間の薬になる様々な色の飲み物が出る。それは神の御しるしである。

16章69節

ハディースにも「人間には二つの治療法がある。蜂蜜とクルアーン。」というような記述がありムスリムにとって蜂蜜は癒しとしても知られています。

いずれにしても西欧やイスラーム世界などで甘味として蜂蜜が聖的な位置づけであることには注目されます。

仏教での蜂蜜

仏教ではどうでしょうか。「王舎城の悲劇」という『観無量寿経』という経典に出てくる物語で出てきます。王舎城とは昔インドにあったマガダ国という国の首都の名で、釈迦の当時、王宮内で起こった親子の争いをもとにした実話のようです。

王舎城に頻婆沙羅(ビンビサーラ)という王がいて、お釈迦様は親しく、王は釈尊に竹林精舎を寄進したほどでした。その王子に阿闍世(あじゃせ)がいます。彼は王妃の韋提希(いだいけ)夫人との間にできた子でした。あるとき阿闍世は、あの悪名高き提婆達多(だいばだった)に唆され、王位に就こうと父を幽閉します。

王は水も食料も与えられず獄死しそうになりますが、そこに妻の韋提希が現れます。蜂蜜が登場するのはこの場面。韋提希夫人は夫を助けるために体中に蜂蜜を塗り、衣服に葡萄の汁を隠してひそかに王のところへ届けた、というところです。

その後の展開は、仏教の解説で確認されたいと思いますが、仏教で蜂蜜が登場するのは、ここぐらいで、他はあまり見たことがありません。

仏教では、蜂蜜に宗教性のある「ネタ」は余り無いようです。甘味としては「甘茶」の方が本来は仏教としての「聖性」があって有名ではあります。甘茶は釈迦の生誕時に八大竜王が、これを祝って産湯に甘露を注いだという故事によります。花祭りに使うため各地の寺院の庭に植えられてもいます。

花まつり。釈迦誕生直後の「天上天下唯我独尊」のポーズ

なお、甘茶は濃すぎると中毒を起こすようで園児たちが飲みすぎて中毒症状の事例もあり、厚労省も注意を呼び掛けています。

実はそうした事情を把握しているからこそ、甘茶がメジャーにならずに常飲されなかったのかもしれません。医療情報が少ない昔は仮に中毒症を起こせば「バチが当たった」等の話が出てたと想像します。

日本の仏教では「一休さん」等の影響なのか、僧侶が隠れて水飴を舐める場面などあり、お坊さんの甘味好きを落語でも冷やかされています(もっとも「左党」も多いようですが・・・)

なんと、これを揶揄した一休さんの麦芽水あめまで販売されています。仏罰などクソクラエと言う感じですが仏教界が全く抗議すらしないところが日本的な長閑な宗教の風景とも言えます。

中国の「はちみつ」の注目のされ方

中国でのはちみつに注目してみましょう。紀元前1~2世紀、後漢から三国の頃に成立した中国の本草書『神農本草経』ではちみつは「美味で毒はなく、体によい、痛みをやわらげ、喉の渇きをいやし、飲み続ければ不老の効果もある。」と書かれています。

毒の有無や健康への注目など現代中国人も好きそうなフレーズが2000年前でも並んでいることに苦笑を禁じ得ませんが。

中国のはちみつを巡っては他のキリスト教文化、イスラーム文化と異なり、聖性、宗教性が無いのが特色です。中国古典でも本草や養生に関する書物以外では蜂蜜に関して著名な記述は余りありません。

明代の著名な医薬学者である李時珍(1518-1593)は著書『本草綱目』ではちみつの品質、生産管理法などを詳細に述べています。蜂児、蜂の巣、花粉についても言及しています。中国ではドラマまで放映されています。しかし徳治や聖性、宗教性とは全く関連付けていない点が注目されます。

なお、『本草綱目』は江戸時代に林羅山が手に入れ徳川家康にも献上されています。江戸中期には平賀源内にも影響を与え、幕末にリンネの分類学を踏まえた西洋植物学が入るまで続きました。この『本草綱目』の影響を克服するのは牧野富太郎(最近ドラマで話題ですが)まで続いたと言えます。

しかし、やはり中国での養蜂中国の在来養蜂と言うより西洋からの近代養蜂の導入が大きいようです。まず、1896年にロシアでの養蜂が黒竜江で行われ、1912年に米国から、そして1913年に張品南(福建省)が日本からセイヨウミツバチを導入。次いで河北省でも日本経由でセイヨウミツバチの近代養蜂が始まっています。中国の近代養蜂も、明治日本の西欧文明の咀嚼のワン・クッションを置いている点は注目に値します。

蜂蜜が定着しなかった日本の文化

ところが、日本史の中では、中国と同様に養蜂・はちみつは大きく文化として定着したとは言い難い面があります。日本史でのはちみつを振り返ってみましょう。日本の養蜂の歴史については、以下のサイトで良くまとまっています。

日本書紀に「百済の太子扶余豊璋が初めて三輪山で養蜂を試みたが失敗した」とあります。嫌韓派が喜びそうな?記述ですが、日本書紀では開発の失敗も含め正直に記述している一例でもあります。

平安時代の『延喜式』では甲斐・相模・信濃・能登・越中・備中・備後国は各々1~2升(2.5-5kg)蜂蜜を進上することが定められています。

皇學館大學には「延喜式検索システム」があります。(今昔文字鏡のインストールが必要です)

しかし、その後蜂蜜は、日本の甘味としてはメジャーになりませんでした。この理由は、他にも簡便な甘味があったからだというのが私の推測です。

それが先に仏教で出した水あめなのかもしれません。子供の夏休みの自由研究ぐらいでも作れる意外に簡便なものです。

産業革命による砂糖の圧倒的な存在感

同じく甘味としては砂糖があります。

室町時代にも既に日明貿易などで砂糖が入っていたようです。
8代将軍足利義政が禅僧のもてなしに羊羹を振る舞ったとの史料もあります。スイーツ喰う前に応仁の乱を何とかしろやとツッコミ入れてやりたくなりますが、ここでも僧侶が登場。僧侶はやはり甘いもの好きなのでしょうか。

南蛮貿易で本格的に砂糖が登場しますが、蜂蜜はこのときにあまり日本には伝播しなかったようです。むしろ砂糖を歓迎しているのが読み取れます。大航海時代とは言ってもミツバチや蜂蜜は航海に堪えられなかったこともあるかもしれません。

と、ここまで甘味について好き勝手、書き散らしていますが、ここまで書けたのも脇にあったスイーツのおかげであることは言うまでもないでしょう。

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