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分割された世界と、孤児たちの旅路―『クララとお日さま』とカズオ・イシグロの小説たち


※『クララとお日さま』『わたしを離さないで』のネタバレをものすごくしているので、ネタバレ嫌な人はまわれ右でお願いします! なにとぞ!


そこで、プライバシーに関わることかもしれませんが、リックに尋ねたいことがあります。リックとジョジーの愛情が本物かどか、心よりの愛で永続的なものかどうか、教えてください。知らねばなりません。答えがイエスなら、交渉の材料ができて、街での過ちを取り戻せます。ですから、リックはよく考えて、ほんとうのことを教えてください」

「考えるまでもないよ。ぼくとジョジーは一緒に育って、二人ともお互いの一部だ。そして二人の計画もある。だから、もちろん、ぼくらの愛は心からのもので、永遠だ。一方が向上処置を受けてて、他方が受けてないなんて、ぼくらには関係ない。それが答えだ、クララ。これ以外の答えはないよ」

「ありがとうございます。とても特別なものが手に入りました。では、忘れないで。夕方七時十五分に。いま立っているこの場所で、また会いましょう」

(カズオイシグロ『クララとお日さま』p382~383、早川書房)


孤児たちの寂しさと愛情。

さまざまなジャンルを越境し物語を紡ぐカズオ・イシグロの描いたテーマは、結局そこにあったんじゃないか。最新作『クララとお日さま』を読むと思う。

私はイシグロのことを作家として本当に信頼しているのだが、それはなにより、「私たちだって世界においては孤児である」というテーマを掲げてくれたからだ。

私たちだって、知らないうちにこの世界に捨てられた、ただの孤児だった。


1.孤児の主題――『わたしたちが孤児だったころ』までのイシグロ作品


『クララとお日さま』の話をする前に、イシグロの過去作品が描いてきたテーマについて少し書きたい。『クララとお日さま』に至るまでのイシグロは、何を描いてきたのか。

イシグロのデビュー作『遠い山なみの光』そして『浮世の画家』は、「日本を舞台にしていること」によく焦点が当たる。日系イギリス人作家が描いた戦後日本の物語、という経歴も含めた評価。しかし重要なのは舞台設定ではない、と私は考える。戦後イギリスを舞台にした三作目『日の名残り』も含め、イシグロの初期三作品は、ほとんど同じ話を書いているからだ。

戦後、無理やり故郷を捨て渡英したことが、娘が自殺する原因を作ってしまったのではないかと回想する母の物語『遠い山なみの光』。戦時中の価値観のなかで成功した画風を、戦後も捨てられずもがく画家を描いた『浮世の画家』。そして戦時中ドイツに肩入れしていた主人を持つが、その思想は間違いだったのではないか、と戦後になって思いを馳せる執事の物語『日の名残り』。

つまり三作品とも、「戦争というひとつの大きな時代が終わったのに、その時代の変化を受け入れきれず戸惑う人々の物語」だった。

イシグロは、日本とイギリス、場所を変えてほとんど同じ話を書いている。――これは別に作品の新しさがないとかそういう話ではなく、たぶん書きたいものを持っている作家というのは、同じ話をぐるぐると繰り返してしまうのだと思う。というか作家のみならず、私たちもそうだろうけど。自分にとって大切な話を、皆、手を変え品を変えなぜか繰り返してしまう。

信じていた思想、つまりは「親」的なものが、突然消失する。でもだからといって「親」への愛情や執着が消え去るわけではない。その狭間で人々は孤独に苦悩を抱える。親――信じていた大きな背中――の失踪による孤独と、愛情。それがこの三作品のテーマだった。

さらにイシグロ作品の面白いところは、「愛情」の部分が、「記憶の捏造」というかたちで現れることだ。親がいなくなったからといって、親への愛情や執着が消えるわけではない。だから記憶は常に嘘をつく。親が間違っていたことを受け入れられず、親の記憶を、美しいものに書き換えてしまうのだ。

この「親がいなくなった孤児たちは(寂しさあるいは愛情から)記憶を捏造する」というテーマが前面に出たのが、四作目『充たされざる者』や五作目『わたしたちが孤児だったころ』だった。『充たされざる者』はかなり実験的な小説なのだけど、とある世界的ピアニストが出会う過去への後悔や挫折が、登場人物として現れてくる物語。そして『わたしたちが孤児だったころ』は、父母を失った孤児であったクリストファー・バンクスが見え探偵として過去を思い出してゆく物語である。どちらも過去の回想を描いた小説だ。

私は『わたしたちが孤児だったころ』という小説がとても好きで、そして文庫版に寄せられた古川日出男の解説もまた、とても好きなのだけど。そこにはこう書かれてある。(この解説を読んだとき、心から「だよね! これってそういう話だよね!」と叫んだ記憶がある)。

孤児たちは、自分が孤児になった瞬間を覚えている。「まるで世界が自分の周りで崩れてしまったんだよ」と思う。「全世界が粉々になってしまったんだよ」と思う。孤児たちはその瞬間の記憶を、反芻する。
 孤児たちは子供だった。
 だから孤児たちは思う。大人になれば。大人になれば。大人になれば。

(古川日出男「もう、よせよ。忘れた振りなんかするなよ」『わたしたちが孤児だったころ』ハヤカワepi文庫解説p531、早川書房)

孤児だった名探偵バンクスは、自分の記憶を正しかったことを証明しようとする。でもその記憶は、実際には正しくない。でも、正しくないことを受け入れてしまっては、自分の世界が壊れてしまう。せっかく世界を一から頑張って作り上げてきたのに、それをまた壊すなんてできない。だからバンクスは記憶に嘘をつく。帰りたい、親がいた世界に帰りたい、と叫びながら。


2.時代の濁流と個人――『わたしを離さないで』


イシグロって本当に日本で人気の作家だよな、と、書店に行くと思う。翻訳がかなり読みやすいとか、ノーベル賞とか、それらしい理由を挙げようと思えば挙げられるけど、それにしたってTBSで日本版実写化の企画が現代海外文学ってなかなかない。なんでこんなに日本で人気なんだろう、とたまに考える。

イシグロのデビューは1982年、ノーベル賞が2017年。日本でいえば平成時代の作家だ。そしてその時代を考えると、イシグロの描く「大きな思想から取り残された人々の回想」というテーマは、日本で大きな物語(経済成長!大企業!結婚!家父長制!)が失われていった時代の空気と合っていたのではないか、とぼんやり思う。いや、あんまり時代の物語に還元しすぎるのもよくないけれど。それでもやはり、イシグロ作品の「戦後というシステムから取り残される人々の物語」は、日本の「昭和的な大きいシステムがなくなって戸惑う私たちの姿」と重なるのではないか。

例えば村上春樹や村上龍も「システムと個人」というテーマを書くけれど。W村上は個人がシステムに対抗しようとする姿――たとえば企業や組織や大きい鳥に巻き込まれず、自分ひとりで戦う姿とか――を描く。対してイシグロはもう一歩進んで、「システムへの郷愁」を前面に据えている。もはや戦うべき大きいシステムなんてどこにもない時代の物語だ。そこに存在するのはただただ流れが速く、私たちを使い捨てるだけの世界である。

もちろん壁と卵だったら我々は卵なんだけど、壁になることができないというのも、孤独なものだと思う。

しかしイシグロのいいところは、ロマンチストなところだ。彼は、システムがなくなった後の世界においてもっとも大切なものは、個人同士の愛情である、と考えるのだ。

「おれはな、よく川の中の二人を考える。どこかにある川で、すごく流れが速いんだ。で、その水の中に二人がいる。互いに相手にしがみついている。必死でしがみついてるんだけど、結局、流れが強すぎて、かなわん。最後は手を離して、別々に流される。おれたちって、それと同じだろ? 残念だよ、キャス。だって、おれたちは最初から――ずっと昔から――愛し合っていたんだから。けど、最後はな……永遠に一緒ってわけにはいかん」

(カズオ・イシグロ『わたしを離さないで』ハヤカワepi文庫p431~432)

小説『わたしを離さないで』では、何度かこの比喩が登場する。――主人公たちは激しい川に流されそうになる。しかし流されそうになるその最中、誰かの手をとろうとする。でも結局、手は離れ、流されてしまう。

……今までの文脈を踏まえると、なんとなくこの比喩の意図するところも、分かるのではないだろうか。

川というのは結局、どんどん変わっていく流れの速い世界のことだ。その中で個人同士は、必死にしがみつく。しがみつくその一瞬、愛情は成立する。でも最後に愛は勝つなんてことはなく、川に流されてしまうのだけど。……ね、ロマンチストだと思いませんか。ちゃんと川の中で一瞬でも個人同士がしがみつくことに意味があると、イシグロは真剣に考えているのだ。

細部の話を先にしてしまったけれど、イシグロの六作目『わたしを離さないで』は本当に傑作なので、まだ読んだことない方がいたらぜひ読んでほしい。主人公は「提供者」の介護人キャシー。彼女は全寮制施設ヘールシャムで過ごした思い出を回想する。彼女が育ったヘールシャムにいる子どもたちは、あるものを「提供」するために養育されている。そしてその事実を知るのは、子どもたちが思春期に入ってからだった。

「提供」の意味が分かったとき、読者ははっとする。子どもたちに、なぜこのような運命を背負わせたのか。私たちが読んでいた少女時代のキャシーの思い出は、いったい、なんだったのか。(このあたりはネタバレするには惜しすぎるので、ぜひ小説を読んでみてほしいのだけど)。

しかし「提供」の意味にショックを受けていた読者も、きっと小説を最後まで読めば分かる。キャシーたち「提供者」の言葉の意味するところは、けっして別世界の話やSF物語の設定などではなく、ただただ、私たち自身の比喩だったのだ、と。

『わたしを離さないで』には、しばしば「捨てられるビニール袋」というモチーフが登場する。

ビニール袋。なにかを入れるだけの存在。そして入れるモノがなくなったら、捨てられるだけの存在だ。このビニール袋とは、つまりは「提供」し終わったキャシーたちの比喩なのである。(そして同時に、この世界になにかを提供するために産み落とされた私たちの比喩でもあるのだ)。

そのビニール袋が風に飛ばされる手前で、すこしだけ有刺鉄線に引っ掛かる場面が、小説のラストに登場する。そしてその風景を見ながらキャシーは故郷を思い出す。これはたぶん、川の流れにあらがおうと少しだけ誰かにしがみついているのと同じ話なのだ。誰かといようといまいと、流される手前の、一瞬の抵抗が、愛情が、郷愁が、孤独を忘れさせてくれる。そう『わたしを離さないで』は言う。そんなの、一瞬の抵抗に過ぎないけれど。

帰る場所を回想しながら、一瞬だけ風に飛ばされまいとしがみつくビニール袋。……切ないけど、でも私はこの比喩がとても好きだ。『わたしを離さないで』以上にいい小説なんてこの世にない、と読み返すたび心底思ってしまう。


3.分割された世界でーー『クララとお日さま』


七作目『忘れられた巨人』を経て、最新刊『クララとお日さま』が出版された。『忘れられた巨人』は、「システム側の記憶もまた、捏造されている」話なので、これもものすごくイシグロらしい話だった。そして『クララとお日さま』、『わたしを離さないで』と同じく若干SF風味。AIが出てくる話なのだ。

ただ『わたしを離さないで』もそうなんだけど、これはSFを描こうとして描いているというよりは、どちらかとうと「孤児」というイシグロのテーマを拾い上げると、ロボットやクローンを小説の真ん中に据えることになるだけなんじゃないかと思う。ようは、親のいない子どもたちなのだ。それらは。

『クララとお日さま』は、親を持たないAIロボット・クララの物語である。

主人公のクララは、AFと呼ばれる人工親友ロボットだ。この世界ではロボットも進化を続けており、クララたち旧AFよりも進化したB3型ロボットと一緒に棚に並ぶ。今の人気は最新型B3型ロボットなので、クララはなかなか購入されない。だからクララはショーウィンドウの外に見える人間世界をじっと見つめる。そして学ぶ。人間たちの様子を。――そしてやっと、ある少女がやってくる。病弱な少女ジョジーはクララを購入したいと言う。ジョジーの母親は、クララにある奇妙な指示を出す。クララがその奇妙な指示のほんとうの意味をわかるのは、ずっと後のことだった……。

『クララとお日さま』のテーマのひとつに、親の子への愛情がある。しかしその描き方も決して単純ではない。たとえばこの小説には「向上処置」という言葉が登場する。「向上処置」。はっきりと何なのかは告げられないけれど、文章から察するに、「親が子に受けさせる、頭が良くなる遺伝子編集処置」という意味なのだった。

向上処置を受けていない子は、大学進学が難しい。そこは生まれながらの能力ではなく、この処置を受けられたかどうかで、大学進学可能かどうか決まる世界なのだ。しかしこの処置にもリスクが伴う。子供にも負担がかかるのだ。ある場合は向上処置を受けさせたことが原因で死ぬこともあり、病弱になることもある。しかしそれでも処置を受けないと、大学には進めない。

クララのAFロボットの世界における「旧型と新型」の違いだとか、ジョージら子どもたちの世界における「向上処置」を受けたかどうかの違いだとか、『クララとお日さま』の世界には、自分ではどうしようもない格差が存在する。(読んでいると、遅かれ早かれこういうふうに「親が子に施す科学の力で、自分ではどうしようもない能力差がつけられる世界」というのはやって来そうで、暗澹たる気持ちになる)。子どもたちのあいだの格差を進めるのが、親の愛情だ、という話は、すごく納得してしまうと同時に、悲しい。

しかしそんな複雑な親の愛情を、クララは間近で見て学習する。ジョジーの母親を観察し、クララは分析する。そしてそのうち、ジョジ―の母が時折見せる眼差しに、ちょっとだけ不穏なものが混ざっていることを知る。これはジョジ―の母とクララが滝を見に行った時の描写だ。

母親は目を細め、テーブルに身を乗り出してきました。滝が周辺に追いやられ、顔が八個のボックスを産めるまでに強調され、一瞬、ボックスごとに母親の表情が異なっているようにも感じられました。たとえば、あるボックスでは目が残酷そうに笑い、隣のボックスでは悲しみをいっぱいに湛えています。
(『クララとお日さま』p151)

クララの視界はいくつかのボックスに分割されていて、それらの組み合わせでものを見ているらしい。しかし滝を見に行ったとき、母親の表情はボックスごとに異なっている。残酷さのボックスと、悲しみのボックスが、双方クララの目に入る。

なぜクララの視界はボックス状なのだろう? これはクララのロボットとしての設定だけではなく、「分割された視界」というモチーフを出すための仕掛けだと思う。

この作品には、「さまざまなブロックが組み合わさってひとつの絵になる」というモチーフがしばしば登場する。たとえばクララの視界。あるいはビルの風景。ガラス窓から差し込んでくる陽の光。そしてクララの目にうつる人間の感情。

秀逸なのが、「ボックス」の仕掛けが、視界の話だけに留まらないところ。そのクララの分割された視界は、いつしか記憶にも流れ込む。

ここ数日、わたしの記憶の断片がいくつか奇妙に重なり合うようになってきています。たとえば、お日さまがジョジ―を救ってくれたあの暗い朝の記憶や、モーガンの滝へのお出かけの記憶、バンスさんが選んだ強烈に明るいレストランの記憶が、なぜか一つの場面に混ざり合って出てきます。母親が滝から上がるしぶきを見ながら、わたしに背中を向けて立っているのに、わたし自身はそれを木製のピクニックベンチからではなく、バンスさんのレストランのテーブルから見ています。
(中略)これが記憶や感覚の失調ではないことはわかっています。というのも、その気になれば、記憶どうしをいつでも分け、それぞれのあるべき文脈に戻すことができますから。それに、そのような複数の記憶が一つに合成されて現れるとき、わたしは記憶と記憶のあいだにある粗っぽい境目をいつも意識しています。まだはさみをうまく使えない子が、もどかしがって指で何かを引き裂きます。そのときできるような不規則な破れ目が、滝の前の母親とレストランのテーブルのあいだにあることを意識しています。先ほどの情景を注意深く見つめれば、上空にある黒雲の縮尺と滝の前にいる母親の縮尺が同じでないことがわかるでしょう。それでも、最近、そんな複合的な記憶が鮮明に心に浮かぶことは事実です。
(『クララとお日さま』p425)

ふつうは混ざるはずのない、「滝を見に行ったときの風景」と「レストランのテーブルにいたときの風景」が、クララの目の前に同時に現れる。ロボットであるクララは、これはおかしいことであると分かりながらも、それでも記憶のブロックが組み合わさって、ひとつの景色が浮かぶことを知る。

分割されたブロック。そしてそれが組み合わさって、ひとつの風景――記憶になる。

イシグロは記憶の捏造を描く、と前章で述べた。でもきっと私たちが記憶に嘘をつくとき、どこか断片的に「ここだけ」嘘をつこうと思ってついているわけではない。人間もまた、記憶のブロックをいくつか重ね合わせているうちに、どこかで現実と異なる組み合わせを持ってしまってるだけだ。クララのブロック状の記憶は、そんな構造をイシグロらしい手つきで綴った描写だろう。

そしておそらくこの「分割されたブロックの組み合わせ」というモチーフは、ロボット同士の分割、そして人間同士の分割の話にもつながってゆく。

ジョジーの幼馴染リックは、自分とジョジーがいまは一緒にいられても、生きていくうちに道が分かれるのだとうすうす勘づいている。ジョジーが受けた向上処置を、リックは受けていないからだ。リックは、同じ人間に見えても、そのなかで確実に「ブロックの分割」が存在することを知っている。ひとつの視界におさまるはずの風景が、クララの目で見たらブロックで分割されているのと同じように。

しかしリックは、自分とジョジーは道がわかれることを分かりながら、それでも、自分たちの間にある愛情はきっとなくならないだろう、と言う。

「ジョジ―とぼくは、これから世の中に出て互いに会えなくなったとしても、あるレベルでは――深いレベルでは――つねに一緒ということさ。ジョジ―の思いは代弁できないが、ぼく自身は、きっといつもジョジ―みたいな誰かを探しつづけると思う。
(『クララとお日さま』p411)

ひとつひとつの個体が、出会って、別れる。それは分割されたブロックが、あるときは組み合わさり、それでいてまた離れるようなものなのかもしれない。クララの目にはそのような人々がうつる。たとえば道で再会を喜び抱き合うふたり。あるいは、今は一緒にいてもいつか別れてしまう(けれど心の中では繋がっていると信じる)ジョジーとリック。あるいは、いつか離れる時がくるかもしれないとうすうす感じながら日々を過ごすジョジーと母親。それはクララにとっては、ひとつひとつのブロックが、ある一瞬だけ――たとえばお日さまの光が射しこんだときだけ――組み合わさってひとつの景色をなすのと、同じように見えているのかもしれない。

ブロックの分割とは、大きいレベルでいえば社会における格差の話であり、そして小さいレベルで言うと、たとえ親と子であったとしてもおなじ人間ではないという人間一個体の孤独の話でもある。私たち人間はみんな孤独で、一個体にすぎず、だからこそある一瞬だけでも同じ景色におさまりたい、と思うのかもしれない。

ブロックたちの孤独。

たとえ親がいても、私たちはこの世界にたった一人で産み落とされた孤独な孤児である。

イシグロが描いてきたのは、常に、そういった人々の物語ではなかっただろうか。


おわりに


カズオ・イシグロの描く孤児たちの旅路は、いったいどこまで続くのだろう、と思いながらずっと読み続けている。『クララとお日さま』は、まるで児童小説みたいに優しくて眩しい話でありながら、イシグロらしい静謐な残酷さもあり、これだよこれ、と読みながら頷いていた。

分割されたこの世界に放り出された、すべての孤児たちに。

作者がそう言っているのが聞こえるかのような、『クララとお日さま』という物語。

それはどんどん流れの速くなるこの世界を生きる私たちに、きっとなにかしらの陽の光をゆっくりとかざそうとするみたいに書かれた物語に、きっと違いないのだった。



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