『心は孤独な狩人』を読んでみつめる2020年のこと
この記事は、藤ふくろうさんが主催している「海外文学・ガイブン アドベントカレンダー」12月9日のエントリです。おじゃましました! 12月1日から25日まで、海外文学好きの方々がエントリを挙げてます。よければぜひ覗いてみてください~。
https://adventar.org/calendars/5669
アメリカの黒人文学といえば、英文学のゼミで読んで「む、難しい」とおののいた記憶ばかりが残る。
たしか題材はフォークナーの短編だった。とにかく英語が難しかった。予習の段階で、単語を調べつつ日本語訳を読みつつでようよう読んだけれど、結局どういう話なんだっけ、と日本語訳をもう一度読み通した。しかも題材も、たとえばサリンジャーやフィッツジェラルドのような華やか(と一概に言ったら怒られそうだけど)な青春小説に比べると、黒人社会の差別や貧困、あるいはキリスト教への信心をテーマにすることが多く、なんだかとっつきづらかったのである。黒人ばかりのまちで貧困や閉塞感に苦しむおじさんがテーマだと言われても、はあ、なるほど、と理解したような気になって終わるだけだった。
今思えば、日本も世界も自分も、まだまだオリンピックや経済成長といった言葉がたしかな実感として明るさを持っていた時代だったのかもしれない。たった数年前――そういえばそのゼミを受けていたとき、トランプ大統領の当選が決まったのだった――の話なのだけど。
今年に入って、世界的なパンデミックは起こるし、大統領選ではやたらと「分断」と言われるし、なんだか4年前よりもずっと貧困や差別といった言葉を身近に感じる世の中になってしまった。自分が大学院を出て、社会人になったことも大きいのかもしれない。「ああ、世界はこれからどんどん、大きい企業が隙間を埋めるように、陣地を敷き詰めるようにして、小さなひとびとの場所を奪っていくようになるのだな」「こうして社会に埋められない差は広がってゆくのだな」と暗澹たる気持ちになることが、なんだか多かった。
そんななかで続けて読んだ二冊のアメリカ黒人文学――フォークナーの『八月の光』、そしてカーソーン・マッカラーズの『心は孤独な狩人』は、妙に納得感が深く、そして自分の読みたいものを読んでいるという実感を伴った読書体験だった。今読めてよかった、と思える小説だった。
「モーツァルトって人がつくった作品よ」
ハリーはかなり良い気分になっていた。彼は敏捷なボクサーのように再度ステップをした。「それって、ドイツ系の名前みたいだな」
「そう思うけど」
「ファシストかい?」
「何ですって?」
「そのモーツァルトって人ってのは、ファシストかナチかって言ったんだよ」
ミックは少し考えた。「違うわ。そういうのは最近起こっていることだし、この人はもうずっと昔に死んでいる」
(p123『心は孤独な狩人』カーソーン・マッカラーズ著、村上春樹訳、新潮社)
とくに『心は孤独の狩人』という小説は、はじめて読むマッカラーズ作品だったのだけど。たしかにアメリカ南部を舞台とした小説の例にもれず、貧困や差別、そしてなによりもそれを生み出す、社会の分断というものを描いている。にもかかわらず、どこか語り口はユーモアがあって、ちょっとした面白さをかならず忘れないのである。
舞台は1940年代のアメリカ。そろそろファシストの勢力が強くなり、二次大戦に向かう時代だ。暗くならないわけがない。そして登場するのは、たとえば空回りする活動家、たとえばどうしても精神的に不安定になってしまう少女、たとえば倒錯した性的欲望をもつ男性など、どこか自分の性質に苦しんでいる人々たち。彼らの貧しい生活は続く。アルコール依存症、銃社会、安い賃金。しかし目の見えないひとりの男性――彼がこの物語の中心なわけだけど――が、奇妙に、彼らの孤独を、苦しみを、ひとの心のいちばん暗い部分をすくいとっているのだ。といっても彼らは目に見えてすくわれるわけではない。このすくいのなさこそが、ある意味、そのまんま時代や彼らの閉塞感を表しているようにも見える。聾者の主人公含めた彼らに幸福な結末は、どう読んでも、あまり訪れていない。
だけど読み終わったあと、妙に、癒された心地になる。
それはこの小説が、そして作者が、ひとびとの孤独をちゃんと芯から理解してくれているからなんだろうと思う。
戦争に向かっていく民衆や、アメリカを覆う資本主義の大きな波に、のみこまれきれない人々は、孤独だ。だって戦争や資本主義に全面的に大賛成、その流れに乗ってこうぜ! そしてあわよくば儲けようぜ! と言える人々は、もう、それだけで勝ち組なんだろう。なにに勝っているのかうまく言えないけれど、時代のマジョリティの感性にてらいなく乗っかれるというだけで、ある意味ちょっと勝っている。少なくとも私はそう思う。しかしそこからこぼれ落ちる、そこに乗りきれずにあえぐ人々は、どの時代にもかならずいる。そして『心は孤独な狩人』は、そのような人々を主人公に据える。彼らの行く先は、たしかにこの小説ではハッピーエンドではないけれど。それでも彼らのことを理解している作者の視点があるというだけで、読者としては、なんだか癒されてしまう。
もちろん作者のユーモアやちょっとした哀愁みたいなものが効いているからこそ、私たちはこの暗くてすくいのない小説をなんだか切なく癒される小説として読めてしまうことは言うまでもないだろう。
そこで彼ははっと思い出した。店頭の日よけがまだ上げられていなかったことを。戸口に向かいながら、その足取りは次第に確かなものに変わっていった。そして店内に戻ったときには、もう落ち着きを取り戻していた。そのように彼は、朝日が昇るのを静かに待ち受けた。(p389『心は孤独な狩人』)
小説の最後のシーンに昇る朝日は、ちょっとした希望も覗かせる。ハッピーエンドではない世界で、それでも希望を失わないなにかが、書かれているような気もしてしまう。こうまとめては、生ぬるく聞こえるかもしれないけれど。
『八月の光』については、以前書評で書いたことがあるので、詳しく言及するのは避けるけれど。やっぱりこの小説もまた、「一見すくいのない人々を、作者がちゃんとあたたかなまなざしを持って見ているからこそ、なんとなく一筋の光のようなものが見える作品だったのだ。二冊続けて読んで、ふしぎと、2020年の状況ともあわせて、なにかちゃんと実感として希望のようなものが掌に乗っかったような心地になったのは、不思議な読書体験だった。
なんだか今年は、いつも以上に、「社会」について考えることが多かった。分断という言葉がしきりに唱えられたりもしたけれど、「社会は、どうなっていくのだろうか」「結局、誰かの苦しみを私たちは見て見ぬふりをして社会を成立させていたのではないのか」ということを考えざるをえないような、パンドラを箱を開けたような年だった気がする。
世の中はきっともっと悪くなっていくし、ここからなにかがよくなる未来なんてなかなか見えない。――ネガティブかもしれないけれど、まあ、ありていに言ってそんなふうに思っている人も多いだろう。私もその一人だ。
しかし一方で、やっぱり『八月の光』や『心は孤独な狩人』のような小説を読むと、そんな閉塞感ばかりが募る社会でも、それでも誰かの孤独をそっとすくいとることはできる、愛やひとすじの光が見つかる瞬間がある。そう思えるような気がしてくる。慈愛とか同情とかそういったものを知ることができる気がする。人間は根源的には自由だし、孤独だからこそ誰かを理解しようと思えるのだと、思う。
もちろん小説を読んでも現実は変わらない。それでも、現実を見つめる視点を変えることはできる。だからこそ、誰かを、そして世界を理解するために、やっぱり明日も私はなにかを読むのだろう。
もうちょっと遠くまで行ってみよう、見れるだけのものは見よう、と決心したんだと思うね、なにしろ今度どっかに落ち着いたら、後は一生どこにも行けそうにないと知ってたんだろうな。
(『八月の光』フォークナー著、加島祥造訳、p655)
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