きみが夢にでてきたよ #読書感想文

こんばんわ。にゃみです。

昨日投稿したnoteで宣言していましたが今日はこちら。


今回は別に何聴いててもいいです。


はじめに


死んでしまいたいと思うくらい憂鬱なときほど、自分の中に見つけられた微かな希望や、誰かがかけてくれた言葉は、普段よりもいっそう色濃く強いものとしてわたしの中に深く刻み込まれていました。これのために生きようと思えた一筋の強い光を見つけられた場所は、いつだって暗くて逃げたくなるような場面にあったのです。

光を見出すためには、それよりも暗いところからでないと観測できない。そういう風な表現に至るのがモモコらしいなと思う。



マラソンで勝つ方法


いくら能力が高くても何かの拍子で簡単に動きを止めてしまうより、足を止めずに自分のペースでしっかり歩きながら進む。長期的に見れば、そのほうが少しずつレベルアップできる気がするし、道の途中で思いがけない能力を身につけることができるかもしれない。
いつも100%の自分でなくてもいい。全力で走らなくてもいい。手を抜くとかそういうことじゃなくて、自分の今できる「できるだけ」を大切にする。何か心を乱すことや、うまくいかないことがあっても、自分の電源が切れないように、0%にならないようにする。人にはわからないくらいの歩みでもいいからとにかく止まらない。

自分のペースを守ることって本当に難しい。調子がいいはついついオーバーペースになってしまう。そしてそのツケをあとから払ってしまうハメになる。最近見ていないけど昔よく見ていた自転車レース、ツールドフランスみたいなロードレース、なんかでもそういうシーンを本当によく見たなあと思い出した。結局長期的に見て、結果を出せるのは自分の力を実力通りにたんたんと、しかし確実に発揮できる能力がある選手なんだと思う。いや、選手に限らず、人生において勝てる人はそういう人なんだと思う。

また、自分の今できる「できるだけ」を大切にする。というのは

ここで取り上げた劣勢になったら、とりあえず一歩引くに通じることがあるなと思った。



NHKツアー


今日初めて知った人でも、昔から応援してくれている人でも、同じ空間で同じ音楽を聴いている。そこには何の格差もなく、同じ生きているもの同士としてどこまでも平等だ。メンバーの名前を全員言えなくても、誰が作詞した曲だとか知ってても知らなくても関係ないのだ。ライブを通して何かを感じられれば、それでいいのではないだろうか。

本当にそう思う。どうしてもオタクというのは古参がえらいみたいな風潮があるなと思うのだけど、そんなものは関係ないと思っている。新参が古参をいい意味で尊敬したりするのは勝手だけど、古参が新参に偉ぶりだすとそのコンテンツは終わると思う。僕はBiSHを知ったのはプロミスザスターだから今となっては新参ではないのかなと思うけど古参でもない。でも正直気にしたことはない。それでいいんじゃないだろうか。

最近有楽町を乗り換えでよく利用するのだけれど、毎回去年の今頃NHKツアーで国際フォーラム来たなあって思いながら通っている。

本当にはやく全力で声を出せる空間が戻ってきてほしい。


どうしても踏み出さなくちゃいけないときに考えたこと


わたしは足がすくんでしまいそうになるとき、自分自身に問いかける。「わたしが思っていることを伝えられるのは自分だけ。自分の気持ちを表現することの何が恥ずかしいのだろう?自分の気持ちを否定してなかったことにするのは、自分の存在を否定することにならないか?」
こんなふうにわたしが自分の一番の味方になったつもりで考えると、いったい何をためらっているんだろうという気分になる。
わたしが死ぬ気で踏み出した一歩が他の誰かに踏みにじられたり、期待していたような結果が出ずに空振りに終わったとしても、自分の足で進んだことは消せない事実だ。自分の殻を破ってせっかく踏み出した一歩を頭ごなしに否定してくる人がいたり、恥ずかしい思いをしたりしても、傍観者にしかすぎない人たちよりもアクションを起こした自分のほうが偉い。

少々引用が長くなったけど、本当にそう。ありとあらゆる自己啓発本なんかでも同じことが書いてあるし、マコなり社長も言っている。自分が一番の自分の味方であるべきだし、その行動を起こした自分が誰よりも偉いんだ。



傷の話


傷つくことはもちろん怖い、だけど人は傷つかずには生きていけない。生きることは戦いであり、同時に傷つくことだと思うからだ。
勝っても負けても、いつだって戦いに傷跡はつきものだ。生まれたてみたいなまっさらな傷跡一つない心よりも、いろんな傷跡をつけて自分だけの柄があったほうがきっと何倍もその人らしく魅力的だ。

こっちの成長痛でも書いたけど、自分はやっぱり人間関係で傷つくことを恐れがちな性格をしていると思う。そんな自分が、一番傷着いたなあと思うのはやっぱり社会人1年目くらいに付き合ってた子と別れたことだと思う。

どちらかというと相手から好きになってもらって始まった恋愛だったけど、本当に好きだったなと思うし、別れを告げられたときは、今よりもっとメンタルが弱かったから正直だいぶヘラってた気がする。

そんで、たまたま今日その子に連絡して(聞きたかったことがあったのは事実だけど、でもタイミングが今日だったのは多分この話なんかが無意識化でそうさせたのかもしれない)、ちょっと昔話をして、時間が経ってお互いもう交わることのない世界に生きてるんだろうなってのもあるけど、懐かしいしあのころはあのころでよかったねという感じになった。

傷ついたら、その直後は痛いかもしれないけど、あとから思い返すと、いい思い出になるんだなと身をもって理解した。

傷つくことを恐れすぎるのはやっぱりもったいないね。



まずは好きになってもらわないといけない


意味もなくお高くとまってカッコつけるよりも先に、わたしたちはまず誰かに好きになってもらわないといけない、知ってもらわないといけない。わたしはもっと死に物狂いで好かれにいくべきだったのだ。
~中略~
少し勇気のいることだけど、好きになってもらうために自分から動く。この行為を「媚びている」という理由で避けていたら自分が一番損をすることになる。

自分の昔からの癖で、媚びるのがへたくそってのがある。どうしてもカッコつけられない。自分が好きな人とか尊敬してる人にはせっせとついていって行動で示してたタイプだからそこまで損もしてこなかったけど。

けど来年からやろうとしてることとか、そもそもいまもそうなんだけど、自分が興味ない人からも好かれる必要はあるんだろし、もうちょっとうまくカッコつけれるようになりたい。

理想を言えば、このnoteだって3ヶ月もやってるんだからフォロワーがもうちょっと増えていてもいいはずだと、冷静に思った。



自分のことを笑ってくれる人


一見、完璧で隙がないように見える人でも、それは隙を隠すのがうまい人か、隙を見せるのが苦手で不器用な人、どちらかだろう。隙を見せるのがうまくなれば、古びた自転車のチェーンに油を差すように、ギスギスした人間関係も円滑になったりして、完璧な自分でいるよりも実はいいことが多いと思う。

自分はまさに隙を見せるのが苦手だなあと思う。いじってもらったときのリアクションがどうにもうまくできない。あと、いじりすぎたかなあとあとから反省することも実は多い。

へんにとりつくろわずに、もうちょっと隙を見せていけるようになりたいなあと思った。



おわりに


2冊の本を読んで、自分の言葉にできていなかった思っていたこととかを代弁してくれているかのような表現が多くて、なるほど、自分はこう思っていたのかと気づかされるような発見がいくつもあった。
2冊とも感想文の形式が、引用→自分のことっていう風になったのは、やっぱり自分事として引っ掛かる部分がとても多かったから。

もちろん好き故のバイアスなんかも入ってるだろうけど、だからこそ、やっぱり彼女に惹かれたんだと思う。


夢じゃなく、現実で目を合わせられる機会が早く来るといいなと思う。


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