感情に過剰反応しないことについて

身に覚えのないことを一方的に触れ回られたとしたら、普通は「私はそんなことは言っていない。していない。それは事実とは違う。」と、同じように触れて回りたくなるものだと思う。

でも、私の好きな芸人さんたちは、そんな怒りや憤りといった感情に振り回されることがない。きっと、その状況を冷静に観察し、その悪い噂を口にした人の心や状態、そして、自分にその攻撃が向けられた理由を見定める。彼女たちの語りからは、そんな思考の過程が見てとれるような気がする。ひょっとしたら、何も考えていないのかもしれないけれど、いずれにしても、感情を持ち堪える力は強いんだろうなと想像している。

そうやって、感情に過剰反応せず、自他のあり方に目をこらすうちに、人の愚かさが見えてくるのだろうと思う。愚かさとは、不完全さであり、それは人間らしく愛おしくもあるものである。そして、きっと、それは、笑いの種にもなりうるものなんだろうと思うし、もしそれを、笑いに昇華させられたのなら、攻撃の言葉を口にする人にとっても、口にされる人にとっても、救いなのではないだろうかと考える。

今の私には、ネタを書くような力はないので、好きな芸人さんたちの真似をすることはできないのだけれど、感情に振り回されず、状態を見つめる訓練なら、今すぐに始められるのかもしれない。

もし、自分に改めるべき点があるのなら、反省して改める。自分だけが完全なる被害者ということはまずない。自分自身の態度に良くないところがなかったか、振る舞いに落ち度はなかったかを振り返り、改めるべき点は改める。「悪口を言われたくない。」というのは、自己評価が実際よりも高いからこそ生まれる苦しみである。実際に悪口を言われているという状態を無理に変えるのは、諦めた方がいい。

悪口を言っている人物の心の中に、その悪口が発生する由来や理由がある場合も、諦めるしかない。私に罪悪感を植えつけて消えて欲しいと思うから、悪口を言って回るのだろうけれど、仮に、私が死んだとしても、その人の心の中で抑圧された自身の「シャドウ」が消えない限り、その心は救われることはない。私が生きていても死んでいても何も変わらない。

自分の果たすべき使命に精一杯向き合い続ける。
それが、自分にできる唯一のことだ。

周囲から誤解されることは辛い。でも、逃げ出さず、その感情を持ち堪える。きっと、この世界のどこかに、見てくれる人はいるはずだし、それでも、一方的に撒き散らされている悪口の方をを信じてしまう人たちというのは、自分とはご縁がなかったということなんだと思う。

攻撃の言葉を向ける人に対して、同じ刃を持って斬りかかることだけはしないようにしようと思う。

このnoteで、自分の感じたこと考えたことを言葉にしてみることは、そんな自分の状態を見つめるための一つの有効な手法だと思っている。感情を一旦、自分の外に置いてみることで、それを客観的に見ることが比較的容易になると感じている。

いつか私も、怒りや憤りの感情を笑いに変換できるような器の大きさと頭の柔らかさを持てるようになれたらいいなと願うが、果たしてそれは、死ぬまでに叶うだろうか。