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1992年の北海道「聖地巡礼」ツーリングの道程を、記憶を再構成してここに記す

当時のバイク乗りにとって北海道ツーリングは憧れであり、流行だった。
そして僕はファミコンの推理アドベンチャーゲーム『オホーツクに消ゆ』が大好きなので、物語の舞台となった道東エリアで、今で言う「聖地巡礼」をしてみたかったのだ。
大学1年の夏休み。時は来た。高校生の時から憧れだった北海道へのツーリングに行くのだ。
いや最近ね、ある歴史的な出来事がツーリング中に起きたことを思い出したんすよ。それによって日付の特定ができるようになったので、あいまいだった記憶の再構成もできるんじゃないかと思って書き始めたら、こんなエントリができちゃった。

後年、阿寒湖を再訪したときに嬉しくなっちゃったヤツ

夏の北海道11日間の旅

1992年7月29日[水曜日] 1日目

  • 北海道ツーリングを決めてはいたものの、天候が思わしくなくて家で数日ゴロゴロしてたら親に「おやおや、いったいいつ行くんですか?」とイヤミを言われたため、半ギレして出発。

  • 国道285号線をぶっとばし、大館、碇ヶ関、大鰐を越えて弘前から7号線に入って青森入り。

  • 青森港でフェリーに乗船。いま思えばハイシーズンなのに予約なしでよく乗れたものだ。

  • 約4時間の航路の果て。はるばる来たぜ函館。

  • もう夕方だったのでライダーハウスにチェックイン、しようとしたら満員。しかしオーナーも商売人で、入り切らなかった数人はオーナーの家に泊めてくれるという。ありがたい。ホッケの干物をオカズにした夕飯もつけてくれてありがたい。

  • 廊下に寝袋をしいて寝てた明け方、オーナーの飼い猫数匹が俺の顔を踏んづけて大暴れ。旅の醍醐味を味わった。

1992年7月30日[木曜日] 2日目

  • ついに北海道ツーリングが始まる。興奮してきた。

  • この日は1日でどれくらい進めるのかの確認もあるので、宿泊地を決めるのは午後になってからにする。とりあえず道東を目指す。

  • 洞爺湖を左手、昭和新山を右手に見ながら登別方面に向かう。

  • 登別温泉郷で泊まれたらいいなと考え始める。当時のCMで見た、バスクリンの登別カルルスが水色できれいだったからだ。

  • 登別温泉郷にあるデカめの温泉旅館はツアー客で満員。とりあえず飛び込んでみた温泉宿は、ご主人が眼帯とかした怪我人で、通された部屋もなんか陰気で、ちょっと怖くなっちゃったので、先に進むとお断りしてしまった。

  • その日はどこかの海岸にあるキャンプ場で泊まった。走った時間を考えると登別からそんなに離れてないはずなので、たぶん白老町あたりだったと思う。

1992年7月31日[金曜日] 3日目

  • 苫小牧辺りまでの朝の国道でキタキツネの轢死体を多く見た。よく轢かれちゃうのね。

  • 目的地のひとつ「日高ケンタッキーファーム(2008年に閉園)」に行く。ここは景山民夫のエッセイで読んで行きたかったところ。小一時間のレッスンをすると場内コースで乗馬体験ができるのだ。「花壇の花を食べたがるので手綱を強く引いて食べさせないでください」と注意されたのを覚えている。

  • 自分で馬を操る初めての乗馬。一緒に回ったのが女子中学生だったのだけど彼女はとても乗馬がうまくて、僕はといえば速歩をさせたときの揺れで落馬しそうになり、非常に恥ずかしかった。乗馬はすごく楽しかった。

  • 襟裳岬。コイン式の双眼鏡で沖の岩場で休んでいるゴマフアザラシを見る。岬の土産屋からは森進一の『襟裳岬』がエンドレスで流れていた。

  • この日の宿泊地は十勝郡浦幌町のライダーハウス「ミッキーハウス」。ドライブインが副業的にやってるとこ。

  • 卓上コンロでジンギスカンを食べているとテレビ中継ではバロセロナオリンピック。柔道で古賀稔彦が金メダルを取った。

  • 「古賀稔彦バルセロナ金メダルの日付」を起点にツーリングの日程を再構成することができたってワケ。

  • 店主が浜で採ってきたハスカップを漬けたホワイトリカーで同宿の人たちが祝杯をあげていた。同宿にはナース2人組もいて、僕はドキドキしてた。

1992年8月1日[土曜日] 4日目

  • ついに『オホーツクに消ゆ』の舞台となった阿寒摩周国立公園に向かう日だ。

  • 『オホーツクに消ゆ』のイベント地、和琴温泉をちょっと見て屈斜路湖の縁を走る。クッシーは現れなかった。

  • 屈斜路湖から摩周湖に向かう途中にある硫黄山を観光。ここはあちこちにある噴出口から硫黄の噴煙を上げ続ける活火山。白っぽい岩から湯気がブワーっと出てて、そこが硫黄の黄色に染まってる。箱根でいえば大涌谷みたいなとこ。温泉卵やソフトクリームを食べたはず。

  • 憧れの摩周湖。『オホーツクに消ゆ』では重要な出会いの場所である。霧が晴れてる日が少ないと言われてるけど、ちゃんとカムイシュ島も見ることができた。

  • 弟子屈を通って阿寒湖に向かう。阿寒湖に行けばライダーハウスが複数あるからだ。

  • 峠にさしかかるとすごく寒くなってきた。とにかく持ってる衣服を全て着た。タンクバッグから雨ガッパを取り出して着込み、ライディンググローブの上から軍手をつけて、それでも寒かった。

  • 命からがら、阿寒湖にあるライダーハウスにチェックイン。ここはすごく広いホールみたいなとこで、たくさんのライダー客が雑魚寝するスタイル。「今日は寒い、8月なのに寒すぎる」「大雪山では雪が降ったらしい」などの噂が流れていておもしろかった。

  • 夜は阿寒湖アイヌコタンを散策した。『オホーツクに消ゆ』に出てくるのだ。今でこそゴールデンカムイ効果もあるが、当時は寂れたフォーク感に満ちた土産屋の商店街。イヨマンテの儀式の観覧イベントがあります的なポスターもあったな。

木彫りのクンネレクカムイかっこいい。奥に見える建物が儀式を披露するイベントホールとなる。

1992年8月2日[日曜日] 5日目

  • 昨日ほどは寒くない。峠越えも難なくこなし弟子屈まで出る。

  • 釧路湿原を展望台から観光。コイン式の双眼鏡でヒグマを探すなどした。いなかった。

ヒグマを探せ
  • 釧路、厚岸を通って根室方面に向かう。北方領土の返還を訴える看板が増えてくる。国境を実感できる道のりである。

  • 花咲蟹も食べたいし、納沙布岬にも行ってみたいが、この日は知床方面に行く予定。納沙布岬まで行ってしまうと日暮れの時間にすごい原野でひとりぼっちになりそうなので、北海道の最東端は諦める。

  • 野付崎は標津町から海に突き出した砂嘴。砂でできた低い土地は湿原と草原がほとんどで、海に沈んで枯れた白樺が立ち並ぶトドワラは『オホーツクに消ゆ』の事件現場。この侘びた風景に憧れて北海道に来たのだけど、半島の先のトドワラまで行ってしまうと日暮れの時間にはすごい原野でひとりぼっちになりそうなので諦める。

  • この判断を僕は一生悔いることとなる。

  • 知床半島に入り、昆布で有名な羅臼から知床横断道路を越えてウトロ港に到着。ライダーハウスに宿泊。ウトロも『オホーツクに消ゆ』の舞台なのだ。

  • 紋別の親戚の家に泊めてもらうことになっていたので、明日行く旨を電話で知らせる。


1992年8月3日[月曜日] 6日目

  • 早朝にライダーハウスを出発して知床五湖に向かう。もちろん『オホーツクに消ゆ』の事件現場を歩いてみたかったからだ。

  • 朝の湖は薄靄が晴れていくところで、まだ低い太陽の光に鈍く光って見えて、なんかマジでいいなって思った。

  • 知床五湖の奥にはカムイワッカ湯の滝がある。上流で湧いた温泉が、沢の水と混ざって、いい湯加減の滝壺になっている「野湯」である。

  • カムイワッカ湯の滝に向かう林道を走っているとすぐ近くにエゾシカがいた。しばらく見つめ合っても逃げていかないのは人馴れしちゃってたのかな。

  • カムイワッカ湯の滝で全裸になって滝壺入浴。自然と一体になる幸福を全身で感じる。あまねく自然の神々と混浴している気分である。

  • とんでもない開放感を味わいながら宇宙の真理に迫っていると、滝の上にバスツアーの観光客の団体さんが来ちゃった。早朝から19歳男子の裸とか見せちゃって申し訳ない気持ちになった。

  • (たぶん、いまやっちゃいけないことなのでマネしないでください)。

  • 知床半島の真ん中あたりにあるオシンコシンの滝の前には駐車スペースがある。軽トラの焼き芋屋みたいなノリで焼きとうもろこし屋が出ている。焼きとうもろこし食べながら滝を見物。ググるとわかるけど、ここは絶景である。

  • 今なお、この時に食べた焼きとうもろこしの味が僕の人生最高とうもろこしとなっている。

  • 『オホーツクに消ゆ』の聖地巡礼で欠かせないのは網走監獄、網走刑務所である。

  • ゲームの舞台は「刑務所」の方。「監獄」はただの観光地である。

  • 網走監獄を普通に観光して、もちろんお土産売り場でニポポ人形を買う。ニポポ人形を買うことはこの旅の目的でもある。詳しくは『オホーツクに消ゆ』を参照されたし。

  • サロマ湖を右手に見ながらバイクをぶっとばして紋別を目指す。

  • 紋別市内に入ったので親戚の家に電話をかけて家までの行き方を教えてもらう。スマホ以前のやり方はこうなんです。時代を感じるでしょう。

  • 手ぶらでは行けない。たぶん漁協の直売所みたいなところでズワイガニを2、3杯買った。紋別はカニの街なのだ。

  • 紋別の親戚は僕をもてなすためにズワイガニをたくさん用意してくれていた。紋別はカニの街なのだ。

  • 親戚たちとは幼いころに法事で会ったっきり。約10年ぶりの再会だ。あの小さかった子供が自力でバイクでこんなに遠いところまで来た、という出来事は親戚にとってたいへん感激的なものだったと思う。

  • ホットプレートで焼くジンギスカンなどの北海道の家庭料理でもてなしてくれた。すごくうれしかった。

  • 北海道の人はタンチョウヅルを「タンチョウ」と言うことを知った。アクセントは「タ」。

  • カニがすごく余った。


1992年8月4日[火曜日] 7日目

  • 紋別の親戚の家に泊めてもらい、朝ごはんもごちそうになり、見送ってもらった。

  • 紋別の親戚から「お昼にこれ食べなさい」と、余ったカニを4杯くらいいただく。

  • 宗谷岬に向かってバイクをぶっとばす。ここから先の北海道はマジで原野と海。

  • 宗谷岬。日本の最北端。ここから北に日本はない。「はじっこに立っている」。果てしない感慨に包まれる。

  • バイクの荷台ではカニが順調に温まっている。

  • 稚内港を経てノシャップ岬に到着。

  • カニを食べ始める。おいしい。しかしひとりでは食べきれない。そこらへんのライダーに声をかけて野外カニむさぼりパーティを始める。なぜかどんどん人が集まってきて、速攻で完食できた。タダカニの集客力ハンパない。

  • この日、稚内でカニを振る舞われた記憶がある人はいるだろうか。それ、僕です。

  • 今日の宿泊地を探しながらオロロンラインを南下。海に浮かぶ利尻富士が右後ろ方向にぶっとんでいく。

  • たぶん羽幌町だと思うけど、ライダーハウスがあった。廃バスを利用した、雨風をしのげる程度の「ねぐら」って感じ。

  • 廃バスの中で寝袋で一夜を過ごす体験。やっといてよかった。最高だった。こんな未整備で野放図な宿泊システム、もうできないでしょ。


1992年8月5日[水曜日] 8日目

  • オロロンラインを天塩で折れて旭川方面に。

  • 旭川のびっくりドンキーでハンバーグとメリーゴーランドを食べる。なんで北海道まで来てびっくりドンキーなのかと自分のダサさを嘆く。

  • 富良野には複数のライダーハウスがあった。いろいろ迷って宿泊地を決める。たぶんここで五右衛門風呂に入った気がする。

  • 当時の富良野はドラマ『北の国から』のブームが猖獗を極めていた時期。劇中で黒板五郎が作った家や露天風呂のレプリカ展示が観光地になっていて、たくさんの観光バスが並んでいた。

  • 僕は『北の国から』が苦手でな。

  • ライダーハウス同宿の若者に連れられて富良野の寿司屋に。ここは握りがデカいのが特徴で、マジでおにぎりみたいな寿司でビビった。

  • 中学時代からの女友達が札幌の短大に通っていた。「明日札幌に着くのでよろしく」との旨、電話連絡したはず。


1992年8月6日[木曜日] 9日目

  • 占冠、夕張を経て札幌に向かう。

  • 夕張の道端でトラックの夕張メロン売りを見つけ、「メロン食べたいけどひとりでは手も足も出ない」と泣きながらバイクをぶっとばす。

  • 札幌大通り公園で女友達と合流。屋台の焼きとうもろこしを食べる。

  • 今なお、この時に食べた焼きとうもろこしの味が僕の人生最高とうもろこしとなっている。

  • 短大生のアパートに泊めてもらった。

  • 19歳の男女。なにが起きたかはご想像におまかせする。


1992年8月7日[金曜日] 10日目

  • 天気予報では北海道に台風が迫っているという。

  • 女友達ともう少し札幌をうろつきたかったが、函館まで急ぐことにする。

  • 函館でライダーハウスに宿泊。

  • 翌日のフェリーの空き状況などを確認した気がする。

  • 台風は逸れて、勢いも弱まっていた。

  • 女友達と札幌をうろつけばよかったと後悔の念に押しつぶされる。


1992年8月8日[土曜日] 11日目

  • 午前のフェリーに乗り、僕の北海道ツーリングは終了だ。

  • 青森から弘前、大鰐、碇ヶ関、大館、国道285号を突っ走って実家に帰宅。

  • 楽しかったが、無事に帰れたことにもホッとした。


これほど自由を実感できた日々はない

「予定を決めずに一人旅」って耳にタコができるほどよくあるロマンシングじゃないですか。でもね。こうして今になって思い返してみると、これほど自由を実感できた日々はないんですよ。
たとえば、家でゴロゴロしてる11日間も、その日のねぐらを探しながら知らない土地をウロウロする11日間も、自由な日々ってのは同じじゃないですか。「自由だわー」という実感の強さは、自分を不安定な環境に置くと強まるのかもしれないよね。
あと、10日以上朝から晩までバイクに乗ってたらバイクが自分の身体みたいになってきてたのよね。もう数センチ間違ったら死ぬというムーブを無意識にキメられるようになっていたんですよ。
野付崎のトドワラに行けなかったことが最大の後悔。30年も経つと立ち枯れてた白樺がマジで枯れて倒れており、湿原も海に沈み、ゲーム画面で見たあの光景とはすっかり違う場所になっちゃったみたいなのだ。あの風景を見たくて行ったのに、もう一生見れなくなってしまった。

1992年の旅のしおり

現金はどうする?

多くの現金を持っていくのはイヤだったけど、当時は今みたいにあちこちにコンビニがあるわけじゃなかったし、地銀のATMが連携してるわけでもなかった。しかし郵便局なら全国津々浦々、北海道の寒村にもあるだろうということで、お金はゆうちょに入れておいて、郵便局のATMから適宜下ろして補充していく方法をとった。

バイク

俺の愛車。ホンダのCB50JX。「ベンリィ」なんていう恥ずかしい愛称を与えられた実用車スーパーカブの仲間だけど立派なスポーツバイク。50ccの原付きエンジンは、ご存知カブ系の驚異的な燃費の良さ。40km/Lは余裕であったと思う。しかも時代的にリミッターがついてない。広い北海道を貧乏旅行するのに大変頼りになったのだ。

日程の組み方

基本的に、次の宿泊地を決めるのは前日の夜だった。あらかじめ行くと決めてた場所や誰かと会う約束はあったけど、基本的にはなにも決めないで行く「冒険方式」とした。もちろん『オホーツクに消ゆ』の舞台になった場所に行くための旅なのでおおまかなルートは決まっていたのだけど。

地図はどうしてた?

今、バイクのナビにはスマホを使うのが当たり前なんだけど、スマホもインターネットも無かった時代はどうしてたかといいますと、紙の地図を使ってたのよ。バイクのガソリンタンクって両膝の間に収まるんだけど、そのタンクに磁石で貼り付けるバッグがありまして。たいていのタンクバッグは天面が地図を入れるための透明なポケットになっている。そこにゼンリンの北海道の地図を入れて、見ながら走るんですよね。あと、北海道のガソリンスタンドなんかではそのエリアの観光マップをもらえたりしたんですよね。それを参考に、観光したりメシ食ったりするんすよ。

ライダーハウス

記事中に出てくるワードで謎なのが「ライダーハウス」だと思うので解説しておくと。ツーリングするライダーが多い北海道には、そういう人たちのための素泊まり専門の宿があったんです。「ライダーハウス」と呼ばれる場所で、まあ2,000円くらいの料金で泊まれるんすよ。寝袋スペースを与えてくれるっていうか。メシは外で食うとか、便利なとこではドライブインや食堂が併設されてて「そこで食べてね」ってシステムになってたりしてたのよ。作りもいろいろで、民家そのものだったり民家の小屋だったり、廃バス利用の場所もありましたね。お風呂も普通の家風呂もあれば、近くの温泉や銭湯を使うところもあったし、逆に不便な五右衛門風呂を売りにしてるところもあった。五右衛門風呂、おもしろいんですよ。

脳内BGMはこれでした


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夏の思い出

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