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短編小説/扇風機埋葬

「どうしましょうか?」
 僕はたずねる。
 男は——仮に〈教授〉としておく。
 教授はショートケーキのフィルムを舐めながら言う。「どうしようもないさ」
 僕らが話しているのは、扇風機のことだ。昭和時代に大量生産された骨董品。
 半透明の羽根は青く、胴体部の塗装は剥げ落ち、錆色の地肌を見せている。強中弱のボタンを切り替えるたびに大げさな音を立てて、そのくせ、貧弱な風しか送ってこない。どのボタンを押しても同じだ。今にも首が落ちそうに金属の軋む音をあげながら、ちろちろと回ることしかできない。
 今朝届けられたダンボール箱に入っていた。
 そろそろ暑くなってきたな、もう夏だな、と話し合った翌日のことだったので、喜びもひとしおだった。壊れていることがわかったときには、教授なんてさらに人を殺しそうな顔をしていた。
「なあ」教授が言う。「誰がデイサービスの老人を雇いたいなんて言った?」

 毎朝、無人ドローンが東の空から飛んでくる。
 まだ太陽は昇りはじめたばかり。
 オレンジと灰色が混ざり合った空に、やがて小さな光が現れる。音もなく、光の大きさが極端に変わることもない。虹色の発光体は、まわりの空間を蜃気楼のように歪ませながら、のろのろと近づいてくる。
 受け渡しの場所はアパートの中庭——目覚めたばかりの瞼を擦りながら、僕らは空を見上げる。活動をはじめていない脳は、まだ夢の中だ。会話する気力はなく、僕らの意識は、網膜のなかで溺れる細胞のように視界から遠ざかる。
 僕らの頭上で、ドローンは停止する。
 これだけ近づいても、このドローンがどんな仕組みで飛んでいるのかわからない。
 プロペラなどの推進力を得られそうな装置は、少なくとも肉眼では確認できない。全体を包む虹色の光はライトではなく、その表面が昆虫の翅のように輝いている。
 下のハッチが開く。
 ダンボール箱が姿を現す。
 糸か何かで吊られているようにゆっくりと僕らの足元に着地すると、それと同時にドローンは忽然と姿を消している。

 ドローンは最新科学の結晶だというのに、運ばれてくるダンボール箱は、シワだらけだったり、一度破れたものをガムテープで補修していたり、スーパーマーケットの〈ご自由に〉のコーナーに積まれているダンボール——産地直送の文字がならび、底には干涸びたキャベツがへばりついている。
 ダンボール箱には、当面の食料と日用品の類が入っている。
 教授が言うには、それらの食料品はすべて賞味期限が切れている。肉や魚は変色し、野菜は萎びて黒ずんでいる。豆腐は崩れ、半額シールの貼られた毛蟹はすごい悪臭を放っている。
 腐っているわけではないので、胃袋を満たすだけなら問題ない。
 賞味期限が切れていない場合もあって、その場合には、商品棚に陳列されるだけの価値を失っている。
 たとえば、ランチパックは踏まれて、中身のピーナッツバターがはみ出している。
 たとえば、ステーキ肉はラップの上から何度も指で押されて、凸凹のクッキーみたいな有様だ。
 たとえば、教授がいま食べているショートケーキには、最初から苺が載ってなかった。
「からかっているのさ」と教授は言う。

 誰が? 何のために?

 わからない。
 わからないと会話する時に不便なので、僕らは〈神〉と呼んでいる。
 信仰の対象としてではない。この世界の創造主、心優しい飼育係、ネットゲームの運営会社ぐらいの意味で。多少の皮肉を込めて。

 僕らが住んでいるのは、古ぼけたアパートの二階。
 狭い玄関を入ると、リノリウム張りのキッチン兼ダイニングがあり、その奥に六畳の和室がある。この和室で、僕は一日の大半を過ごす。たいていは寝て過ごす。
 色褪せた畳に頬をつけて、顔のすぐ前でダニの死骸が崩れていくのを眺めている。遠近感を失った視界は、畳の網目模様を果てしなく広がる砂丘に変化させる。
「なあ」教授が言う。「おまえを見ていると、気が滅入るんだ。どっかに消えてくれないか?」
 教授はダイニングの粗末なイスに座って、コーヒーを飲んでいる。アパートのダイニングは、どんなに天気がよくても薄暗い。

 教授が飲んでいるコーヒーも、もちろん毎朝のドローンによって運ばれてきたものだ。保存方法が悪く、劣化したコーヒーはクレヨンの味がする。クレヨンの味を打ち消すために、教授は大量のコーヒーフレッシュを投入するが、古くなった乳脂が表面に浮かぶだけで、コーヒーの味からはますます遠ざかる。それでも教授は、日に三杯のコーヒーを欠かさない。
 誰かがコーヒーを飲んでいる風景とは良いものだ。
 僕は畳の砂丘越しに、宮殿でコーヒーを飲んでいる巨人の姿を思い描く。

 このアパートに住んでいるのは、僕らしかいない。他に住人はいない。
 ためしに隣の部屋のドアを開けたことがあるが、そこは何もない空間だった。
 ゲームデザイナーが手抜きして、不要な部分を省略してしまったようだ。最終的にドアは開かないようにプログラミングされる予定だったのかもしれない。
 アパートは、山の斜面に建てられている。窓の向こうは緩やかな下り坂になっていて、背の低い梅の木がならんでいる。花が咲けば美しいのだろうが、一度も咲いたことがない。一年を通して、見える景色が変わることはない。
 思いのほかアパートの敷地は広く、一般貸しではなく、どこかの会社の独身寮だったのかもしれない。
 アパートの敷地を出ると、旧街道の宿場町といった風情の町並みが続く。

 人はいない。
 鳥や、野良猫や、虫さえもいない。
 それでも時おり、遠くから味噌汁の匂いが香ってくることがある。
 もしかしたら、僕らに見えないだけで、本当は誰かが住んでいるのかもしれない。

 この世界については、教授とも話し合ったことがある。
 永い夢を見ているのかもしれないとか、僕らが存在していたなんてそれこそ欺瞞で、そもそも過剰な自己意識のバグなんじゃないかとか。余計な空白とか、意味ありげな句読点に過ぎないのではないか——結論は出なかった。
 結論は出なかったが、僕らが死んだ後、気が遠くなるような時間が過ぎ去ったことは事実だ。

「おまえが本気で殴るからさ」教授が言う。「こっちは手加減してるのに」
「それはそうでしょう」僕は反論する。「こっちは殺されかけてるんですから」
 教授は、もちろん大学の教授ではない。ただの通り名だ。ネットの誰かが名付けた。被害者が女子大生だったから。

 N大学連続女子大生殺人事件。

 最終的に三人の女性が殺害された。世間的には知られていないかもしれない。一年に一度、六月六日に一人ずつ女性が殺害され、それに対して別々の犯人が捕まっていたから〈連続殺人〉と報道するメディアはなかった。警察の動きはわからない。地元では「そういえば、去年もこんな事件なかったっけ?」と話題に上がることはあっても、去年の何月何日だったかまで記憶している人間はいなかった。
 気づいたのは、ネット民だ。
 六月六日にN大学の女子大生が殺害され、これがもう三年も続いている。来年の六月六日もきっと誰かが殺される。そんな投稿だった。そんな一人の呟きがあっという間に拡散した。探偵役を買って出るアカウントが次々に登場した。
 僕も、その探偵役の一人だった。推理小説が好きだったし、殺人事件の現場となっているN市は地元だったので、殺害現場の写真を撮ってアップしたりして、虚栄心を満足させた。勝手な推理を展開し、奇想天外なトリックを編み出し、他のアカウントだって同様だった。本気で犯人を捕まえようなんて誰も思っていない。
 しかし思いがけず、僕は犯人にたどり着いてしまった。

 きっかけは〈鳥を探して森林浴〉と見出しされた地元新聞の記事だった。
 普段だったら新聞なんて読まない僕が、どうしてその日は新聞を開いたのか?
 おそらく母と喧嘩していたのだ。話したくない、話しかけられたくないという理由で、僕は新聞を読んでいるふりをした。
 読むところなんてそんなになかった。一面の見出しと週刊誌の広告、文化欄の映画や小説のレビューを流し読みして、偶然、目に止まった。
〈広場〉と題された読者投稿欄だった。
 抜粋だが、左記のような文章が掲載されていた。

〈春先から新緑の季節まで、私は森に入って鳥を探す。お目当ての鳥にはなかなか出会えないが、舗装されていない山道を歩いているだけでも気分転換になるものだ。バードウォッチング四年目、今年はどんな鳥に出会えるかと楽しみにしている〉

「手加減してたんですか?」僕は問う。
「どちらにしても死ぬつもりだったからな」教授は答える。「名探偵を殺す必要なんてなかった」
 名探偵でも何でもなかった。N大学の裏手に森と呼んでも差しつかえない雑木林があること。あとは四年目というキーワード——たったのそれだけで殺人事件と結びつけたのは、当時この事件のことばかり考えていたからだろう。ネタ切れを起こして、フォロワーがみるみる減りはじめていた。
 教授までの道のりは、時間と労力をかけただけのおもしろくない地道な努力なので割愛する。
 N町東西線の駅のホームで、僕は教授の後ろ姿を見つけた。
 歩きながら、少しずつ距離が狭まって鮮明になる教授の姿は、ありきたりな会社員に過ぎなかった。中肉中背にだぶついた黒いスーツ、黒い革靴に黒いブリーフケース。ちらりと見えた横顔は、狐目に無精髭——僕の誤算は、犯人像を冷徹な頭脳派と思い込んでいたことだ。少なくとも、駅のホームみたいな人の多い場所で凶行に及ぶなんて考えてもなかった。
 結果はこれだ。僕は胸から腹まで計七か所を刺され、教授は急行列車に飛び込んでバラバラになった。

 目覚めると、ここにいた。
〈死後の世界〉と呼ぶには、平穏過ぎる世界だ。

「ここがな」と僕の傷口を見ながら、教授が言う。「もうちょっと左だったら、北斗七星だったんだけどな」
「何に見えます?」
「?」
「星座なんて自分で考えてしまえばいいんですよ」
「なるほどな」と教授は言って、僕の体に指を這わせる。「こことここを結んで、ゴジラ座はどうだ?」
「いいですね」僕は言う。「でも僕だったら、こことここを結んで、ウルトラマン座」
「いいね」

 それにしても暑い。
 ないよりはましだと思い、扇風機の電源を入れているが、首が完全に馬鹿になっていて、項垂れるように下を向く。針金を使って、どうにか上を向くように補修しても、届けられるのは、暑さに負けた熱風でしかない。
「やっぱり捨てるしかないですかね?」僕は教授に問う。
 教授はショートケーキを食べる手を止めて、僕を見つめる。薄暗いダイニングにいる教授の表情はわからず、その背景にキッチンの蛇口が鈍く光っているのが見える。
「自分だったらどう思う?」教授が口を開く。
「?」
「もしも自分が扇風機の立場だったら、どう思う?」教授は話す。「使えないとわかったら捨てるしかないとか言われて、どんな気持ちがする?」
 僕らは〈転がる石〉だ。
 よう、どんな気持ちがする?
 完全なる未知の心喰いだ。
「埋めてやろう」教授は言う。「ちゃんと弔ってやろう」

 決行は深夜。
 僕らは扇風機を背負って、アパートの裏側の斜面を登る。道はすぐに雑木林に遮断されて、道なき道を進んでいく。
「裸は可哀想だからな」と教授の提案で、扇風機はタオルケットに包まれている。タオルケットから回転部だけを覗かせる扇風機は、一九八〇年代にヒットした映画の宇宙人みたいらしい。僕は観ていないので知らない。そう言ったのは教授だ。
「子供のころに観たんだ。映画館で」
「どんな映画なんです?」
 僕の後ろから、教授が懐中電灯で足元を照らしてくれる。
 踏まれた枯れ葉がみしみしと砕ける音が、追いかけてくるように響く。
「何だったんだろう?」教授が話す。「子供たちが宇宙人を守ってやるんだが……自転車のシーンは覚えてるだが、当時は、どうしてこんな映画が人気なんだろうって感じだったな。宇宙人もグロテスクだしさ」
「映画、好きなんですか?」
「子供の頃はよく観たな。映画館なんて託児所だったんだよ。二本立て四時間、お菓子持たされて放りこまれて……そういや、線路の向こうにもう一人埋めたっけ?」
「えっ?」
「最近、記憶が曖昧でな……このあたりでいいんじゃないか」
 教授が立ち止まる。
 木々の間隔が広く、少しばかり平坦になった場所だった。

 シャベルを地面に突き入れる。穴掘りに慣れているらしい教授がするのを真似て、シャベルの刃の後ろに足をかける。強く踏みこむ。
 何層にも積み重なった枯れ葉の下には湿った腐葉土があって、掘り進めるうちに、子供のころ、コンクリートブロックを押しのけて(昆虫たちを探して)苔むした日陰の匂いが充満していく。
 扇風機にガムテープで巻きつけた懐中電灯があたりを照らしている。
 じめじめとして蒸し暑く、額の汗を腕で拭う。
「考えていたことがあるんです」と僕は言う。
「待ってくれ」と教授が僕の作業を手で制す。「根っこがすごいな。ちょっと待ってくれ」
 穴に入って、教授が木の根を切断する。「それで何って?」と話を促すように僕を見る教授の顔は、すでに泥と汗に塗れている。
「いや」僕は言う。「今度にします。覚えていたら、また明日でも」
 教授は何か言いたげだった。口に入った泥なのか枯れ葉なのかをぺっと吐き出す。
 僕らは穴掘りを再開する。
 じんわりと噴き出した汗を拭うたびに、僕の顔も泥だらけになっていく。

 僕が教授に話したかったのは、毎朝ドローンで届けられるダンボール箱のことだ。
 中に入っているのは、賞味期限が切れた食料品、商品価値を失ったケーキやステーキ肉、かろうじて機能する扇風機——それらが現実社会の〈ゴミ〉であることは間違いない。世界中のゴミ捨て場から、僕らの住む世界に運ばれてくる。
〈ゴミ〉とは、すなわち死だ。しかし彼らはまだ食べられるし、機能もする。
 これは不完全な死だ。
 想像しなければならないのは、物語の背景だ。
 たとえば、ショートケーキ——アルバイトの不手際で苺が欠落した。ただそれだけで、商品にならないというだけで廃棄処分決定だ。
 よう、どんな気持ちがする? 生クリームやスポンジケーキの立場だったら、どんな気持ちがする?
 たとえば、扇風機——孤独死した老人の家で発見された。異臭によって周辺住民が騒ぎ出すまで、モーターを擦り切らしながら、扇風機は回り続けた。からからと軸がぶれている音がする。そんなになっても、ご主人の体を少しでも冷やすために回り続けた結果がこれだ。業者によって廃棄処分された。

 僕らは不完全な死後の世界の住人だ。
〈転がる石〉だ。
 死してなお、転がり続ける。

「そろそろ、どうだ?」教授が言う。
 僕らが掘った穴は、五歳の女の子がすっぽりおさまるサイズだ。
 扇風機から懐中電灯をはずして、教授が穴のなかを照らす。
 教授が僕を見る。
 僕は頷き、扇風機を抱きかかえて、「そっとだ、そっとだぞ」と指示する教授の声にしたがって、やさしく穴に寝かせる。
 タオルケットから顔だけ出して眠っているようだ。
「おっと」と教授が言う。あわてて穴の下に降りていく。「首が苦しそうだ」扇風機の向きを調節する。

 そのときだった。
 一瞬にして眩い光に包まれる。
 ピントの調整が間に合わず、何も見えない。
「神だ!」と教授の驚愕する声が聞こえた気がする。
 少しずつ慣れてきた視界で、本能的に木の幹に隠れる。
 夜空が唸っていた。
 巨大な鐘が打ち鳴らされているような共振する金属音が響いている。鈍くて重い音波は、木々を揺らし、空間を捻じ曲げる。
 顔が風船みたいな音をたてて破裂した。手をあてると鼻血が出ていた。
 空に浮かんでいるのは、光の渦だった。

 神なのか、暴走する狂気なのかわからない。
 ダンボール箱を運んでくるドローンの数十倍の大きさだった。特大のミラーボールが空に浮かんでいる。
 本体が放つ光とは別に、触手のように細いサーチライトが雑木林を這いずりまわった。侵入者がいないか確認しているのかもしれない。
 金属音は止まなかった。体中の血が逆流して、毛細血管がプチプチと弾けていく。呼吸が苦しくなって嗚咽する。血の涙があふれる。内臓が沸騰する。自分が壊れていく!
 もうダメだ——
 と思った瞬間、ふっと体が軽くなった。

 瀕死の心臓が激しく高鳴っている。
 禍々しい光の渦は消えて、その代わりに古代ギリシャの彫刻を連想させる光の塔が立っていた。
 天使に誘われるように、扇風機が浮かびあがるのが見えた。

 光のベールで作られた円柱のなかを扇風機が上昇していく。
 眼窩に溜まった血のなかで、赤い光が乱反射している僕が思い出しているのは、子供のころにテレビで観たマジックショーだ。
 金髪の美女が足を組んでイスに座っている。黒ずくめの魔術師が右に左に動きまわり、観客にアピールする。
 ハロー・アメイジング!
 魔術師の決め台詞で、金髪美女の体が空中に浮かび上がる。光沢のある紫色の舞台幕の前をそろそろと上がり、舞台上では、魔術師が手にした指揮棒で、重厚なクラシックを奏ではじめる。
 のろまな少年は呼吸をするのも忘れて、テレビに見惚れている。
 劇場の天井まで上がって、美女は微笑む。
 魔術師の指揮棒が熱を帯びてくる。
 クラシックが最高潮に達する。
 ——そして消えた。

「よう」教授が言う。「大丈夫か?」
 そこがあらかじめ決めた待ち合わせ場所だったかのように、僕らは自分たちが掘った穴に向かって歩いていく。扇風機は消えて、僕らが掘った穴の底には、古ぼけたタオルケットだけが残されていた。
「なんとか」と言って、僕は鼻血を啜る。
 教授は空を見上げた。教授の顔も血まみれだった。
 教授が見つめる夜空——木々の枝や葉で覆われていたはずの空が、僕らの頭上だけ円形にぽっかりと穴ができていた。
「成仏できたかな」と教授が言う。「あの扇風機」
「ですね」と僕は答えになっていない回答をする。
 なんとなく厳かな気持ちになって、「古墳でも作りましょうか?」と言ってみる。

(了) 


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