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ファインダーを覗いているときは、自分のことを少しだけ信頼できる。

大袈裟ですね。でも、本当のことです。

①「〜をしたい」に応えてくれる人がいるのは、有り難いことだ。

上記のツイートをしてから何人かの方々から連絡をいただいたんですよ。まず、Twitterで「〜をしたい」と呟いて、反応をくれる方がいるというのは当たり前のことじゃない、あまりに恵まれすぎています。まさに「有り難い」。

アカウントのフォロワー数とか、投稿のリーチ数に囚われすぎると窮屈に感じますが、ある程度見てもらえる土壌を築いておくと想定外の出逢いがあるのも事実で、これはとても良いインターネットだと思いますね。

てな思いがありながらも、連絡をいただいた全員と撮影をするのはスケジュール的にも精神的にも身体的にも限界があるので、恐縮ながら連絡いただいたなかから1名の方に返信しまして、今週撮影をしてきたんです。記事中に添付している写真がそれです。良い写真でしょ。

②「〜をしたい」に責任を持たなくちゃ、自分にも他人にも失礼だ。

最近思うんです。自分の「〜をしたい」という欲求に素直でなくちゃならないって。

たしかに、誰かの「〜をしたい」に応えることは「やさしい」と思いますよ。人間関係とか社会とか政治とか考えれば、それも大事なのは間違いない。

だけど、自分の「〜をしたい」という欲求って、自分以外には湧き上がってこないし、自分にしか手に負えない感情なんですよね。当たり前ですが、自分の欲求を他人は感じられない。スキルとか、役割とかは他の誰かでも代用可能だけど、「〜をしたい」は誰も代わりに思ってはくれない。あなたが「〜をしたい」と思ったら、あなたしか責任を持てない。僕はあなたの「〜をしたい」に手を貸すことはできても、根っこにある思いの部分までは責任を持てない。

やはり、自分でも他人でも、「〜をしたい」という気持ちが剥き出しになっている人は信頼できるんですよ。感情がシンプルだから。わかり易いんです。逆に何がしたいのかわからない人とは、どうやって関わったらいいかわからない。何をしたいのかわからない人には、何も提案できないんです。

だから、僕はどんなに稚拙な思いでも「〜をしたい」を言い続けたいと思っています。言い続けていると、「うるさいから誘ってやるか」「したいならやってみれば?」と手を貸してくれる人の現れる確率は上がります。手を貸してもらえたら、あとは最後まで踏ん張るしかない。これは、気合いと根性の話。昭和の価値観。

③ファインダーを覗いているときは、自分のことがちょっとだけ信頼できる。

僕はいつも不安で、自信がありません。話す言葉も態度も振る舞いも、なんとも言えないおぼつかなさがある。20数年人間をやってきたとは思えないたどたどしさで、生活を送っています。ショップ店員とかサロンディレクターの対岸にいる男。金子ノブアキみたいなロン毛の男の人間力に、一生かかっても太刀打ちできる気がしません。

そんな僕でも、カメラを握ってファインダーを覗いているときは、自分のことを少しだけ信頼できるんですよ。他にも自信を持てる瞬間はあるかもしれないけど、今は思い浮かびません。

それなりに巧くなる努力をしてきた、という事実が背後にあるとは思います。もちろん、ゴリゴリにライティングを組めるプロのスタジオカメラマンみたいな技術はないですし、写真で食っているわけでもないので、その自信は容易に崩れ去る可能性はあります。

でも、自分の「〜を撮りたい」という感情と正面から向き合える自信はあるんです。技術は未熟かもしれないけど、「〜を撮りたい」を携えて、すこしずつ撮れるようになってきた経験は、僕をちょっとだけ逞しくしてくれました。不安はありますけど、きっと大丈夫だという気持ちがせめぎ合ってくれるので、なんとかギリギリ正気を保てています。こういう状態のおかげで、自分のことがちょっとだけ信頼できるんです。

だからね、自分の「〜をしたい」をこれ以上擦り減らしたくないなと思うんです。僕もいい歳なので細かいことは言わないですが、いろいろ外的な障壁もあるわけですよ。障壁のなかにも乗り越えるべきものと、別に衝突しなくていいものがあります。後者に関しては徹底的に避けていかないとなと思うんです。自分の「〜をしたい」を守るために、気を引き締めないといけない。頑張るぞ。

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