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今の退屈な自分を愛されても仕方がないから、強くなってちゃんと愛されたいくせに、退屈な自分のままでも甘やかされたい。

退屈な自分に退屈してるのは、他の誰でもない自分自身だ。退屈な自分を愛してくれる人なんて、きっと同じように退屈な人だ。解決策はただひとつ、自分が強くなることだ。強くなった自分なら愛されても納得できる。強くなるというのは、おもしろい話ができるようになるとか、ちゃんと生活を維持するとか、良いものを作るとか、そこら辺をイメージしてる。今の自分はすべてが足りない。

強くなるのは大変だ。途方に暮れるくらい、険しい道のりだ。何度も強くなろうと決意しては途中で挫けている。挫けると弱音を吐きたくなる。一般的に弱音は何も生まないし、他人から見ると退屈だし、「グチグチ言ってんじゃねえ」と思われる。僕が他の人の弱音を見たって、きっと苛立つ。

僕の良いところでもあり悪いところでもあるのだが、弱音を吐くのが結構うまい。弱音を表す語彙のバリエーションがそれなりに豊富なのだ。それは多分、他人の吐いた様々な弱音に縋って、知らず知らずのうちに吸収してしまったからだ。先人達が積み重ねてきたありとあらゆる弱音を取り込むことだけには無意識のうちに熱心になっている。だから、変に弱音の厚みが増してきた。エッセイチックな弱音、風刺的な弱音、痒いところに手が届く弱音など、取り揃えている。人呼んで、弱音のコンビニエンスストア。次第に弱音が共感されるようになると「このままでも、いっかな」とさえ思えてくる。もう、このまま愛されてえなと思う。自分で書いていてわかるが、典型的なクズだ。現代文の偏差値だけ高いタイプのクズ。遅刻しても怒られないタイプのクズ。複数人で飲んで1人2500円になった時「あっ、今500円ないから今度払うね!」とか言って永遠に払わずじまいでも許されるタイプのクズ。こういう奴がいるから真面目な人が損をするんだよね。

このままでは一向に救われない。だって、退屈なままじゃ愛されたところで自分が納得できないのだもの。弱音を弱音のまま吐き出して慰められたところで気休めにしかならない。厳しい現実だけど、なんとかして強くならないといけない。弱音を粉々に握りつぶしていかないといけない。

他人の弛まぬ努力を眺めて、自分を悲観するエンタメはもういいんだよ。自分が退屈なままだと、すばらしい作品を見ても自分の現状と比べてしまって、素直にすばらしさを感じられない。こんなのはしょうもなさすぎる。

そうは言っても、やっぱり甘やかされたい。醜く情けない自分でも「大丈夫だよ」と言ってくれる存在が、ひとりくらい居てもいいんじゃないのかと思う。正確に言えば、そういう存在は何度も居たけど、その深い優しささえも吸い尽くすだけ吸い尽くして、枯れるまで縋ってきただらしない過去がある。

こんな人生はさっさと断ち切らないと駄目だ。退屈な自分を救うために。なにより、こんな退屈な自分でも愛そうとしてくれた人に報いるためにも。

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