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看取ること

私は看取り士
わがままな最期を支えます

柴田久美子著

超超高齢社会に突入し、その後 多死社会になるという。
そりゃそうだ。
人は死はまぬがれない。
高齢者が増加すれば、死亡数もそれに比例する。

今は、病院で亡くなる人がほとんどではなかろうか。病院勤務の私がよく目にするのは、
患者が亡くなると、ものの数時間で、死亡退院され、早ければ、すぐ次の患者がさっき亡くなった患者のベッドに寝ているということも少なくない。
つまり、亡くなった患者さんの家族はゆっくり対面して、死を惜しんだり、声をかけて労をねぎらったりという時間を持てないのだ。
もちろん、医者や看護師だって、そうしてあげたいのはやまやまなのだろうが、切迫した状態の次の患者を待たせることもできないのだろうと思う。
なんだか、切ない。

医療が進歩したことにより、医療現場では
助けてなんぼだと考えられている。
しかし、望まぬ治療により、ただ命が延ばされているだけということもあるのだ。

冒頭の著書の柴田さんは看取り士で、在宅で看取る家族さんのフォローをしてる人であり、一般社団法人 日本看取り士会の会長である。

医療現場では、あらゆる治療により死にたいする挑戦が繰り広げられているが、
死は敗北ではないのだと、柴田さんは言う。

死にいく側の求めているものは何か、
自分の愛する人たちに見守られて安らかに逝きたいと願う人が多いのではないだろうか。

病院のベッドの上で、急いで死んでバタバタ片付けられてって、なんだか、ちょっと待ってよ、余韻に浸らせてよっと思わないだろうか。

そういうことに疑問を感じる家族は家で看取りたという人も増えてきているし、在宅の選択肢しかない家族もいる。そんな家族を支える一人がこの柴田さんのような看取りのエキスパートである。

柴田さんいわく、亡くなった人は数時間、エネルギーを発してるそうだ。
柴田さんは、看取る人に、亡くなっていく前後、その人を抱いていてくださいとお願いする。
このエネルギーを看取る人が感じて、亡くなる人から命のバトンを受ける。
そうすることで、悔いのない看取りが完了するという。

死の前には、食事が取れない、意識混濁、呼吸の乱れ、など どうみてもつらそうな症状が出る。
が、本人はもうあまり痛みを感じないそうだ。
だけど、看取る側からするとかわいそうなのでつい救急搬送してしまう。そうなると、さっきのバタバタ、はい、さようならとなってしまうことになりかねない。

こういうときに、プロの看取り士の支えはどれだけ心強いだろう。
死に行く本人とそれを見守る家族の双方にとって納得の行く 死のあり方 を実行するために、その支えとなる看取り士の存在は大切だ。
家でゆっくりと死にいかれる人と最期の時間を一緒に共有し、その命のエネルギーを頂くことで、
死が怖いものから、尊さに変わっていくのではないだろうか。

安心して、「逝ってらっしゃい」と声がけできるように 看取る側が心を準備して、整えていければ
よいなと思う。

死というワードはタブー視されてるが、やはり生前、どのように死にたいかを家族で話し合い、きちんと、エンディングノートなどに記しておくべきであると思うのだ。









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