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東京藝大油画科合格記 (現WEB学部NFT科ウサギ専攻)

◇ 合格倍率50倍!東京藝大油彩科

はるか昔。
まだ音楽に形があり(CDと呼んでいた)、電話が電話しかできなかったころ。
ボクは群馬から上京し、東京藝術大学(以下、藝大)美術学部絵画科油画専攻を受験しました。
第二次ベビーブームの受験期、募集人数60人に対して受験者約3000人。
実に倍率50倍。

当時のボクの藝大に対するイメージは、こう。
神々に選ばれし天賦の才を授かった者が努力に努力を重ね、磨き抜かれた技術でキャンバスにこの世の全てを表現する人たちの集う場所。

当たり前のように不合格でした。
こうしてボクは新宿の美術予備校で浪人生となりました。

20歳の自画像
キャンバスに油彩 1995年作

◇ 才能なんてあるわけない

浪人していても絵は本当に下手で、上手く描けないとすぐに心が折れて、予備校をサボっていました。
そんなある日、先生が僕を呼び出しました。
これから一度でも休んだり、遅刻したり、早退したら予備校はやめてもらう。

僕は焦りました。
田舎から出て来て、自分には絵しかない、先生しかいない。
そんな状況で、見捨てられる寸前だったのです。
一瞬ためらいましたが、決めました。
とにかくもう生活の全てを美術にかけよう。

それからの毎日。
朝5時に起き、5時50分までに予備校に行くとビル掃除のおじさんが玄関を開けるので一緒に入ります。
皆が登校するまでに2時間絵を描き、8時のクロッキーに参加。
9時から4時まで授業で絵を描き、帰宅。
クーラーもテレビも風呂もないアパート、あるのはラジカセと石膏像と大量の画集。
疲れ果てるまで絵を描き、就寝。
この繰り返しでした。

でも、描いても描いても描いても、上手くならない。
才能がないんじゃないか、なんていう疑念はとうに果て、描くのが辛くて苦しくて、逃げたい。
でも、約束があるから逃げられない。

そのうち、白いキャンバスや紙を見ると、自分が何かを描くと汚れてしまうような気がして、嘔吐するようになりました。
それでも、描き続けました。
汗まみれで、吐いて、泣いて、身体中の水分が無くなって、震えながらも描きました。
それでもやっぱり、絵は下手なままでした。

◇ 体の悲鳴と心の摩耗

そんなある日、右足が痺れて動かなくなりました。
無理し続けていたので何度か体調を崩してはいましたが、それまでのものとは明らかに違います。
なんとか足を引きずって予備校に行ったのですが、激痛で座っていられないので、ついに先生に禁断の一言を発してしまいました。

先生、足が痺れて、痛くて座っていられません。
病院に行きたいのですが、早退しても良いですか?
約束から約半年後のことでした。

先生は約束のことなんてとっくに忘れていて、そこまで我慢していた僕を叱りました。
病院で診断してもらった時には、医者にも同じように叱られました。
足が地面から5cmしか上がらなくなっていました。
一日中絵を描いているので姿勢の問題と心の問題、両方が原因でした。

入院ではなく通院での治療にしてもらったものの、一週間予備校に通えず、アパートの部屋で寝たきりでした。
とうとう絵も描けなくなってしまった自分の今までとこれからを思いながら、一日中天井を見つめる日々を過ごしました。

歩けるようになって、予備校に復帰しましたが、もう季節は秋、周りは受験の空気に変わっていました。
少し戸惑いながらも、久しぶりにデッサン用紙と向き合いました。

東京藝術大学校門前

◇ 何より大切なことがあった20歳

それからは自分が日に日に変わっていくのが分かりました。
倒れる前は先生も頭を抱えていた一番絵が下手だった生徒が、一週間後には一番良い評価をもらっていました。

当時は大学センター試験と成人式が同じ日。
皆が華やかな衣装を見にまとい、はしゃいでいるのを横目に、意気揚々と試験を受けに行ったのを覚えています。
その頃のボクは、どんなものより美しい、すごいものを描ける自信に満ち溢れていました。
合格率50倍の当時の東京藝大油画科の受験も自信を持って受験し、合格しました。

あの一年と同じくらいひとつのことを頑張ることは、もう一生できないでしょう。
あの頃夢見た未来の自分にはまだまだ追いついていませんが、当時を思い出すと、あの時あれだけ頑張れたのだから何でも出来ると思えます。

まあ、暗い新成人でした。
最初の画像は、20歳の頃の自画像です。
何かあるたび、逃げる代わりに丸坊主にしてました。

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・・・NFT出てこなかった。。
ルーツということで、ご勘弁。

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