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感想と批評の違いを考える #例の醤油皿

本記事で取り扱う炎上の概要

①芸術家である山下昇平さんが腹部を掻っ捌いた人体を模した醤油皿を作成
 その画像を自身のXにポスト

②それに対して「生命への冒涜」といった感想が寄せられる

③上記の感想への反論として「最近、芸術的表現方法が個人の好き嫌いで淘汰されてしまっている」というポストに注目が集まる

まえがき

 この類の炎上は混乱が大きく、触れるのは怖いですが勇気を出して書いてみました。
 本記事を要約したものを示します。

①山下昇平の醤油皿は”食材”に生命を吹き込む効用がある
②感想は鑑賞者自身の感情に基軸が置かれ、批評は作品、または作者の意図に基軸が置かれる
③私論:感情に軸を置いた感想を言っても良い
④私論:芸術方法が淘汰されるとしたらそれは鑑賞能力の低下ではなく、評論家や考察屋が仕事を怠っているのが原因

 以上を解説していきます。

 少し長くなってしまったので、目次から『まとめ』を先に参照していただいて、興味のある部分だけ読んでいただくことをおすすめします。
 よろしくお願いいたします。


作品読解 —”食材”に生命を吹き込む皿—

 動物・生物を模した容器というものは本件の醤油皿に限らず、商品としていくらでも売られています。
 例えば、寿司を買ったときについてくる魚型の醤油容器のランチャーム。

 他には豚型の貯金箱も挙げられます。

 などなどいくらでもあるわけですが、これらを使用する様子を少し穿った視点で見ると、ランチャームは魚の体液を絞り出しているように見えるし、貯金箱は豚の背中にコインをねじ入れているようにも見える
 といった具合にとてもグロテスクなものとして見ることもできます

 そんなの考えすぎだ、と思われるかもしれませんがこの例え話で私が言いたいのは次の通りです。

「山下昇平の醤油皿はそういったグロテスクさの排除された世界で
私たちが暮らしていることに疑問を投げ掛けている作品」

 と解釈できるということです。

 醤油皿を使う場面、即ち、食卓はグロテスクさを排除されています
 そのグロテスクさとは食用肉であれば屠殺のことを指します。

 私たちの食卓にはそのグロテスクさが全くと言っていいほど排除されている。その食材がどういった経緯でここに運ばれてきたのか全く想像できなくなっているし、想像できないように発展したと言ってもいいでしょう。

 この醤油皿に「生命の冒涜だ」といった感想が寄せられましたが、別視点だと、屠殺という残酷な現実を無いものとして扱い、皿の上に乗る動物を”ただの食材”として見ようとする行為こそ「生命の冒涜」と言えるのではないでしょうか。
 この醤油皿はそんな食卓へグロテスクさを再付与し、”食材”に生命の尊厳を取り戻すという効用があるのです。

(ちなみにこの作品が傑作か否かについては私個人では判断しかねます)。

感想と批評の違い

 本件の大きな争点として「感想 VS 批評」というものがあると思います。
 ここからはその点について考察していきます。

 まず感想と批評の違いについて解説します。
 感想と批評の大きな違いは「分節化の基軸を置く場所」だと考えます。

 「感想」は鑑賞者自身の感情に基軸が置かれたうえで「なぜ好きと思ったのか。色使いが好みだからだ」「なぜ嫌いと思ったのか。グロテスクだからだ(引用したポストだと医者としての経験が想起されたから)」といった具合で感情を分節し、言語化されます。後々、深く語りますがこれはある種、自身の感情を批評しているとも言えます

 これに対して「批評」は作品や作者の意図に基軸が置かれたうえで「なぜこの色使いなのか。構図の真ん中に位置する赤色を目立たせるためだ」とか「なぜ醤油皿にグロさを取り入れたのか。それは屠殺という残酷な現実を強調して”食材”に生命を吹き込むためだ」といった具合で意図を分節し、言語化されます。

 このように基軸の違いによって「感想」「批評」は区別できるのです。

感想編:個人の感想を言ってはいけない?

「感想」は「批評」より下ではない

 前述の内容を用いると、チャロくん(@haino_san9)のポストの内容は鑑賞時に想起された感情を基軸にして言語化がされているため「感想」と区別して問題ないと考えます。

 これを前提に、次は「感想」の発露は自己理解に繋がると主張します。

 先にも書きましたが、チャロくん(@haino_san9)のポストの内容はある種、自身の感情を批評していると言えます
 勝手ながらチャロくん(@haino_san9)の心情を推察すると「自分はこんなにも命に対して責任を感じていたのか」といった具合で、自己理解を深めたのではないかと思います。

 つまり芸術をきっかけにして自己理解を深めたのだと解釈できます。

 このように自己理解を深めるきっかけ作りも芸術の役割だと考えます。

 拙いとしても鑑賞者から感想が出てくるのは自分を見つめさせることが叶ったわけですから、芸術が芸術としての役割を果たしている証拠です。
 決して芸術は批評”される”ためだけにあるわけではありません。

「感想」は自己理解。
「批評」は他者理解。
それぞれ効能が違うのです。

 また別の視点として、「批評」が「感想」から生まれることがある点も「感想」を擁護する理由になるでしょう。
 例えば、とある作品を時代がどう受け止めたのか、という視点で論じることはとても有意義です。

問題となった感想の正当性

 ここからチャロくん(@haino_san9)のポストの内容について考察します。記事として読みやすくするためにもう一度引用させていただきます。

 チャロくん(@haino_san9)の感想には、ある程度の正当性があると考えます。
 自身の個人的な経験や倫理観によって不快感を覚えてしまった、という文章に破綻は有りません。医療・仁術に携わる人間としては「人体を模した醤油皿」がどこか悪ふざけのように見えてしまうのは至極当然かと思います。

「感想」「批判」の役割の違い

 ここで考えたいのは「これは芸術とは思えない」の部分です。

 この部分の問題点は短絡的な言葉選びにあると考えます。
 察するにチャロくん(@haino_san9)は「この作品からは『真善美』といったものが感じられなかった」と伝えたかったのではないかと思います。
 このように変換してみれば、特に問題は感じられなくなります。

 この言葉選びの何が問題だったかと言うと、

「感想」の中で短絡的な「批評」的言葉選びをしてしまった

 ということです。

 少し話が逸れますが「感想」「批評」はそれぞれ効能が違うと前述しました。
 ここで主張したいのは「感想」「批評」は役割も違うということです。

 簡潔に書けば「感想」には自己理解の発想法を増やすという役割があり、「批評」には他者理解の発想法を増やすという役割があります。

 例えに自分のことを使うのは恐縮ですが、私が本記事のような考察をし始めたのはネット上で映画や漫画等の考察記事・動画を見ていた時に「そんな見方をしてもいいんだ!」「そんな見方があるんだ!」と目から鱗が落ちる経験をしたことがきっかけです。
 そうした考察、批評を読むことで、私自身のいわゆる読解力が向上し、作品への理解が捗る結果になっています。

 なぜ自分はこの作品に心惹かれたのかといった疑問に、他者の「感想」「批評」はそれぞれ自己理解に役立つ言葉と、他者理解に役立つ言葉を与える役割があるのです。
(チャロくん(@haino_san9)の「感想」から私なりに抽出してみると「グロイものを見た時のオエェ~というあの感覚には死が怖いという感情だけでなく、尊厳への危機感のようなものも含まれているのか」といった具合で、自己理解に役立つ言葉を得ることができます)。

 話を戻しますが「感想」の中で短絡的な「批評」的言葉選びをしてしまったことの何が問題なのか。
 問題点は二点あります。

 まずはその言葉選びによって「感想」なのか「批評」なのか判別しづらい、という点です。
 この判別のしづらさによって、その文章は「感想」「批評」の役割を果たしづらくなります。

 二点目は「批評」的言葉選びをした箇所が、短絡的であるがゆえに「批評」の役割を果たしていないという点です。
 「芸術とは思えない」という言葉選びには「批評」的な論拠は無く(「感想」的な論拠は有る)、「批評」的な正当性は全くありません。
 その正当性の無さには読み手も眉をひそめるしかありません。

 以上の二点により、せっかくの「感想」も効能が減り、その役割を果たさない結果になったのだと考えます。

「感想」を述べる時の注意点

 主には前述した二点を気を付けるということになります。

①「感想」なのか「批評」なのかはっきりした文章を心掛ける
②「批評」的な文章を挿入する場合は感情以外の論拠を示す

 また少し文字数を多くするよう意識することも有効かと思います。
 SNSに投降する文章ですから、速いコミュニケーションをすることや、バズることを優先してしまい、さほど推敲もせずに短い文章を書いてしまいがちです。
 ですが短い文章というのは文字数に伴い、穴が多くなるものです。
 「感想」とは言え、名前も顔も知らない誰かのポストとは言え、本件のような炎上騒ぎを起こすほどの力を持つ場合もあるので注意は必要でしょう。

批評編:「批評」のほうが芸術の見方として偉い?

マウントでは社会的合意を持つ「批評」は形成されない

 チャロくん(@haino_san9)の「感想」に向けて、ふふんふんふん(@enpa_meinico)は「作者の気持ちを知る楽しみを捨てた上で表現方法だけ見ても、そりゃ楽しくないし芸術なんてわからないよ」と悪態をついています。
 この悪態にはおそらく

個人の「感想(感情に基軸を置いたもの)」を流布する行為は、
芸術作品に対する社会的合意を持つ「批評」の形成を阻害するもの

 という発想、考えが根底にあると推察します。

 この考えのとおり「感想」は発信してはいけないものなのか?
 私はそうは考えません。
(「感想」の役割については目次『「感想」「批評」の役割の違い』を参照してください)。

 芸術というものに対しての「感想」を述べることは簡単で低級なもので、批評できない人間は鑑賞能力が低くくて笑い物にされるといった空気を私は好ましく思いません。
 そういった行為は芸術の権威性を悪用したマウントだと思うからです。

 マウントでは社会的合意を持つ「批評」を形作ることは出来ません。

 よって「批評」を志すのであれば、作者の意図を理解するうえで適切な分節化を行えなかった人に対して「なにも分かってないねww」といった言動は慎むべきものでしょう。
 そんなマウント合戦ではなく、該当作品について分かりやすく解説するとか、もう少し「感想」を深堀りしてみるとか、そういった建設的な行動が求められると考えます。

 目次『「感想」は「批評」より下ではない』でも書きましたが、決して芸術は批評”される”ためだけにあるわけではないですし、マウント合戦は「批評」の本懐である他者理解からは程遠いものです。

芸術方法の淘汰の原因は評論家・考察屋さんの怠慢

 ここで読みやすさのために、ふふんふんふん(@enpa_meinico)のポストをもう一度引用します。

 実状は分かりませんが、もし芸術表現が淘汰されてきているとしたら、それは人々の鑑賞能力の低下によるものではなく、評論家ないし私のような考察屋さんが仕事を怠っているせいだと私は考えます。

 私は個人的な趣味として考察屋さんをしている者ですが、淘汰を食い止めるためにこそ、私たちのような者が前述したようなマウント合戦を行っている場合ではないと思います。

 むしろ本件は芸術表現の危機ではなく、「批評」の危機が世間に表出したものだったのではないでしょうか。

まとめ

 本記事の内容の簡単なまとめを示します。

内容まとめ
①山下昇平の醤油皿は”食材”に生命を吹き込む効用がある
②感想は鑑賞者自身の感情に基軸が置かれ、
批評は作品、または作者の意図に基軸が置かれる
③「感想」は自己理解、「批評」は他者理解の効能がある。
④「感想」は自己理解の発想法を増やす、「批評」は他者理解の発想法を増やす役割がある。
⑤「感想」を述べる時は、「感想」なのか「批評」なのかはっきりさせることと、「批評」的な文章を挿入する際には感情以外の論拠を示すことに注意すべし。また文字数を増やすことも有効な手段。
⑥マウントでは社会的合意を持つ「批評」を形作ることは出来ない。
⑦芸術は批評“される”ためだけにあるわけではない。
⑧芸術方法が淘汰されるとしたらそれは鑑賞能力の低下ではなく、
評論家や考察屋が仕事を怠っているのが原因。
⑨本件は芸術表現の危機ではなく、むしろ「批評」の危機の表出。

 本件の感想を少し書かせていただきます。
 私自身、どこか作品の「感想」を述べることに億劫な節があります。
 それは「これが誰かの役に立つのだろうか」といった考えや、「批評」的な思考をしないとどこか自分の考察屋さんとしての腕を振るえていない気がしているからだと思います。
 ですが本件を考察しているうちに、そういった考察屋さんとしてのプライドまたは傲りが「感想」への悪態を生み、今回の炎上を引き起こしていると分かって、自分もそういった傲りには気を付けなければならないと気を引き締められました。

 また「感想」を述べる際には、なにか見落としが無いかや、「感想」だからデタラメなことを言ってもいいだろうという、いわゆる”一個人”としての傲りに気を付けなければならないと気を引き締められました。

 長文にお付き合いいただきありがとうございました。
 皆様のご一助になれれば幸いです。

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