カバ子先生の話。

中学生のころの話だ。

昔の記憶になればなるほど覚えていることは少なく、彼女を思い出したのは突然だった。お世辞についての文章を読んだとき、ある記憶の扉が急にパタンと開いた。

「先生も、お綺麗ですよ」
「ありがとう。お世辞を言えるのはこれからの社会で大事だよ。」

そのとき先生がどんな表情をしていたのか、いくら思い出そうとしても思い出せない。

中学生の頃、「カバ子」というあだ名の女性の先生がいた。数学教師で、たしかソフトボール部の顧問で、20代半ばくらいの年齢だったと思う。

申し訳ないことに、本名が思い出せない。なんとなくそれっぽい名字は浮かぶが、確信はもてない。顔はぼんやり、思い出せる。

鎖骨くらいまでの長さのコシの強そうな黒髪に、輪郭はやや下膨れ、印象的なくちびるの持ち主だった。俗に言う「たらこくちびる」だったと思う。メタルフレームっぽい眼鏡をかけていて、目の細い人だった。

何年生かのころ、数学の授業を担当してくれていた。いつからか、どこからかはわからないけど、生徒の間では「カバ子」が通称だった。わかりやすく、容姿を揶揄されたあだ名だった。

よくグレーのスーツを着ていた印象がある。タイトスカートに、基本スニーカーを履いていた。グレーが印象に残っているのは、ひとつ嫌な思い出があるからかもしれない。

ある夏の授業で、男子生徒から脇の汗染みを笑われていたのだ。シャツで授業していたのだけど、その後グレースーツの上着を着直していた。印象的な記憶は、感情とともに思い出される。

「いやだな」「可哀想」「恥ずかしいな」「ああはなりたくないな」

今思い出しても、複雑に入り混じった感情。男子生徒への嫌悪と、先生への同情と、蔑みに近いなにか。

先生は、あまり弱くはない人だったと思う。いや、弱く見せないようにしていた。男子に対して強い態度で怒り、気の強い女子にも負けずに意見していた。出身がどこかは忘れたが、わざと強い東北訛りでからかいを諌めたり、少しだけ自虐したりするようなところがあった。

あのころのわたしは、先生のことを遠くから見ている感覚だった。
影で日向で「カバ子」と呼ばれていること、生徒から「絶対結婚できない」と噂されていること、ひらひらのスカートを着ていたり、いつもよりメイクが少し濃いだけで「デート?」とからかわれること。容姿は生まれつきのものだし、自分も自信のないほうだったから、「仕方ない」と感じていた。

どこかで、大人は傷つかない生き物だと思っていた。

なにかの活動で一瞬先生と話す機会があり、どんな流れか覚えていないけど「お綺麗ですね」と言ったのだ。思っていないことを言った感覚がし、言葉が滑った。とても違和感のある言葉だった。「お世辞」というものを言ってみたい、大人ぶりたい時期だったんだろう。

その言葉に、先生は「ありがとう。お世辞を言えるのはこれからの社会で大事だよ。」と返してくれた。"ちゃんと"お世辞を言えたのに、そのとき感じた引っ掛かり、居心地の悪さを、今なら理解できる。

わたしは先生を、傷つけたのだと思う。

今わたしは23歳になり、社会人2年目になった。
あの頃の先生とは、2つ3つくらいしか変わらない。毎日いろんなことで大なり小なり傷ついている。大人も傷つくんだと、社会人になってから知った。一番身近にいたお母さんはよく傷つく人だったけれど、それは「お母さん」だからで「大人」は傷つかないと思っていたのだ。今思うとよくわからない理論だけれど。

カバ子先生を思い出してから、当時の彼女の気持ちを想像してとても悲しい気持ちになる。毎日からかわれて、学校に来るのは辛くなかったのだろうか。数学を教えるのは好きだったのだろうか。教師陣のなかに優しくしてくれる人や、仲間はいたのだろうか。傷ついたことを、吐き出せる相手はいたのか。自分のために着飾ることを、諦めてしまったことがあったのではないか。。

想像力の足りない子どもだった。

想像できないことを、人は簡単に分断する。「傷つかないだろう」と判断する。今思うと、ほんとうに幼稚で恐ろしい態度だ。

もしかしたら、「傷つきにくい」人だった可能性もある。でも、ぼんやりとだけれど、彼女が泣いている顔を見たことがある気がするのだ。たぶん一度だけ、生徒の前で泣いたことがあった。それでもわたしは、なぜ泣いているのか分かっていなかったと思う。想像できていなかったと思う。

未熟だからと言って、誰かを傷つけていいとは限らない。どんな条件でも「傷つけていい」許可が下りることはなく、ただ「傷つけてしまった」結果だけが残る。それを理解するのに、10年かかった。

10年早くそこにたどり着いていた先生は、わたしに「ありがとう。お世辞を言えるのはこれからの社会で大事だよ。」と言った。今のわたしはその言葉に100%賛同はできないけど、生きている中で大事な場面もあるのだと思う。未熟さを包含された言葉だったと思う。

この世界は、基本的に「自分ひとり分」しかわからない。ひとり分すら、わからないかもしれない。どんな感情なのか、なぜその行動をしたのか。ひとり分以外は、全部想像するしかない。

ひとり分だけの世界にいるのか、ひとり分+想像力の世界にいるのか、選べると思う。究極のところ、選択は自由だ。どちらにいてもわたしは誰かに傷つけられるし、誰かを傷つけることに変わりはないと思う。

でもわたしは、想像力と思いやりのある自分でいたいと思っている。想像力があるとは、だれかの傷つきに敏感になれることだ。

傷つけて、傷つけられて、その繰り返しの中で生きるしかないなら、「傷つくかもしれない」「傷ついているかもしれない」に繊細でありたい。間違っていてもいいから、思いやりのある人でいたい。自分が傷つけられたときも、傷つけた相手の心を想像できる人でありたい。

できることなら、それをゆるせる人でありたい。ゆるして、「あなたとわたし」の関係性をよりよいものにする行動をしたい。そうあれることが、ゆたかな生き方なんじゃないかと信じていたい。

今なら先生に、もっと寄り添う言葉がかけられるんじゃないかと思っている。

「どんな先生も先生です。わたしは先生の魂の強さを尊敬しています。でも、悲しいときやつらいときは誰かを頼って弱音を吐いてほしいです。幸せでいてほしいです。いつも、授業ありがとうございます。」

そう伝えられたら、ほんとうによかったのにな。



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