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ある決意表明の再録

ある政治団体と、距離を置くことにした。いわゆる左翼系の団体だと言えるが、看板に若干の難があると考えたためである。右と左の分断ではなく、上と下との分断の時代だと言われて久しい。だが自分は他者からどういう立場に見られようと(右でも左でも上でも下でも)、自分自身でありたい。イデオロギーに呑み込まれてしまうのは、恐ろしいことである。

もっとも、真摯に活動している方々を批判するつもりはない。むしろ個人単位では交流したい。ただ自分は外野のほうが、何かと気楽なのである。とはいえ、この団体で当初語った「決意表明」には、筆者の信条が凝縮されているようなので再録する。レーニンの名前が出てくるが、詳しく知っているわけではない。ちょうど中沢新一『はじまりのレーニン』(岩波現代文庫)を読んでいたためだ。短いスピーチだったため、その場にいた人たちも覚えていないだろう。せっかく考えたのに、少しもったいないと思ったのだ。そして、「文化の力」を強調しているところが自分らしいと思うーー小学校のころから、そういう作文を書いていたからだ。


<スピーチ原稿> 

 こんにちは、〇〇と申します。本当に楽しく活動させていただいております。活動を続ける上で気をつけたいことなどを自戒と共に述べ、決意表明としたいと思います。

 さて、「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」と申します。私は歴史が苦手なので慌てて勉強しているところです。「歴史は繰り返す」とも言いますから、我々は過去の失敗を繰り返してはなりません。
 
ベトナム戦争に反対していたヒッピーたちの運動が現在のGAFAの源流になってしまったとか、全共闘の盛り上がりをほとんどの人が放り出してバブルを生み出し、弾けたらロスジェネにツケを押し付けたなどという歴史もあります。そういう皮肉から学ばないと、前進したことにはなりません。では、かつての社会主義はなぜ失敗してしまったのでしょうか。

 私がひとつ思うのは、(同じタイトルの本がありますが)「空想から科学へ」行き過ぎたのではないかということです。教わったことですが、「史的唯物論」というのは物質主義ではなくて客観主義だそうです。つまり「(それ以前の)哲学は空想ばかりだ、もっと客観的に考えないと」というアイデアだった。そういう考え方はとてもよく分かるのですが、全く空想しない人間もいないのではないでしょうか。機械なら話は別ですが。

 客観的に考えすぎて人間心理を無視したために、「計画経済」などを導入してソ連などは崩壊したのではないかと思うのです。そういう意味で私は民主的社会主義というのは、心やモラルなどの人間性を大切にした「血の通った」社会主義であるべきではないかと思います。

 レーニンは、よく笑う人だったそうです。そういう人間らしさを大切にしたい。政治は本来、大衆のものであるべきです。一握りの知識人だけのものではない。子供とか若者とかお年寄りとか、誰もが気軽に政治を語れる社会を目指すべきです。

 そういう意味で例えば✕✕さんの素敵な歌や躍動感ある✕✕✕、これはまだ拝見していませんが✕✕✕のコンサート、私は音楽など大好きですけれども、そういった心に直に平和の大切さを訴えかける「文化の力」を大切にして国際的にも緩やかに連帯し、輪を広げていくのが理想的ではないか。そう考えております。

 これからも努力いたします。ありがとうございました。

(以上)


私の拙い記事をご覧いただき、心より感謝申し上げます。コメントなどもいただけますと幸いです。これからも、さまざまな内容をアウトプットしてゆく所存です。どうぞよろしくお願いいたします。