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10数年ほど前、甲子園アルプススタンドより

1.

今年も高校野球選手権の時期がやってきた。
私の母校である別府大学の付属高校、明豊高校も一回戦を乗り切り次の試合へ向けて動いているというところか。

大学の吹奏楽団が朝四時から大分から甲子園へ応援演奏の出発をしたという。夏のコンクール県大会だって前後にあるだろうに大変である。

かくいう私も10数年ほど前、その一人であったことを思い出している。
具体的には夏には参加していない。色々あって私はその頃吹奏楽団に在籍していなかったからだ。
春のみであった。

そんなアルプススタンドでの話をちょっと書きたいと思う。

2,

私もよくは覚えていないが、ちょうど世間は現ソフトバンクの遊撃手、今宮健太選手が投打二刀流で持ち上げられていた頃だ。
私の住んでいる下宿にはいわゆるスタメンから落ちた大学の野球部員がいたから彼らから色々情報を聞いたものだった。
「今宮は別格」
「河野(元MHPS)もドラフトにかかるチャンスある」
などだ。

吹奏楽団では私が団でも屈指の野球好きだったのでそこの総指揮を執っていたから色々手を付けさせてもらった記憶がある。とはいえ、所詮はよく分からないまま手渡された半端な権力。もらった譜面をにらみながら応援とのバランス整えをしていた程度だ。

その頃私は大学と「特待生として大学院に進学させてもらえないか」と掛け合っている時期でもあったから、結構必死だった記憶がある。
今はどうか知らないが当時別府大学の吹奏楽団は強化部であったので大分の強豪と言われる高校から数名特待生を招いていた。
特待生と言ってもまあ選ばれた人々は練習をしている姿をあまり見せなければお世辞にも上手と言える人はいなかった。
「特待生として招かれている」事よりも「キャンパスライフを充実させたい」みたいな気持ちが強すぎて、貧乏学生の私はいつも苛立っていた記憶がある。
私は片親で金銭面の負担を賭けさせていたという負い目がずっとあったからのほほんとしてキャンパスライフを送っている、特待生として能力があるわけでもなければ模範たる姿を見せているわけでもない特待生たちに苛立ちがあったし、あれでいいなら自分にも分けろと考えていたのだった。

そういうわけで私はそれが出来ないか、と大学の教員の方を通して掛け合っていたのだ。
丁度大学の教授から「万葉集研究で大学院に行ってみないか」と紹介を受けている時期でその道にも興味があったから「やって損はないだろう」という感じだった。
今になって考えてみればほとんど実績のない、強化部にいるだけで真面目以外取り柄がない学生を特待生にするわけがないのだが、それは私があまりにも子供すぎたという事だ。私だって別に昔から大人だったわけでもなければ今日昨日年を取ったわけではない。

そのアピールも兼ねていたというわけだ。

結果としては失敗し、大学側も「前例がない」という言葉でお断りされてしまい、それに腹を立てて全て投げ出すと同時に大学院への進学はしたかったのでその資金を捻出するためにアルバイト生活になっていく。そしてその姿に吹奏楽団の面々は怒り、私は団から出禁状態になる。
若さゆえの過ちという言葉を使っていいならこれも当たるのだろう。
また、割と尖っていて、国民体育大会のオープニングセレモニーで高校や社会人との合同練習の際に「(指揮者の指示に対して)声が出てない」「福岡ではこんなに冷めた合同練習は見たことない」なんて檄を飛ばしていたから、まあ、嫌われていただろうし、そこに特待生云々の話があったからそれに腹を立てて全て投げ捨てるという暴挙に出た。

その頃女性と付き合い始め、女性と進学のための金銭に追いかけられていた時期でもあった。
そんな私の音楽人生として甲子園は最後の輝く場所であったのかもしれない。
そんな私が大学で野球の知識における怪物と出会い、今昔の野球を追っていく事になるのだからある意味偶然とは不思議なものというか。

3,

そんな私が甲子園の応援席に入った時の記憶は未だに覚えている。
三塁側のアルプススタンド席入場口だった。

涙が抑えられなかった。
周りの同輩や明豊高校の応援組は不思議な顔をしていたが。

私の高校は大して強い野球部ではなくいつも県大会に行く前に敗北を喫する場所だった。
甲子園でも毎年勝ち上がるほどの抜群の名門校はないがどこが勝って甲子園に進んでももおかしくない強豪県の福岡らしく、県大会に行く前の強豪や中堅に阻まれ消えてしまう何ら珍しくない、どこにでもある高校の一つだったのだ。
だから甲子園に行くなんて夢のまた夢だったのだ。

そんな私が、大学を経由して初めて甲子園の応援席に入る。
それも観客ではなくアルプススタンドの身内として。
高校時代叶えられなかった事が図らずもかなったのだ。

考えてみれば今まで音楽と野球を愛した私への、二つの神様がくれた最後の贈り物だったのかもしれない。
前述したとおり自信が行き過ぎて傲慢になっていた私はここから音楽人としてかなり悲惨なものになり、野球でくだ巻くだけの一市民になってしまった。
音楽人としてはある意味頂点であったし、普門館からも遠かった私には最後の花束だったように思える。この後吹奏楽団と喧嘩別れし、女性とも振られ、必死になりながら大学院の入学金、授業料を自分で修め、しかもそれは学歴としてもあんまり強く発揮されないという、今思い返しても波瀾万丈の生活を送る事になるのだがそれはまた別の話。

だが、ある意味そこで救われた記憶がある。

丁度春の選抜大会だったから甲子園の空は澄み渡っていた。
一塁側のアルプススタンドには常葉菊川高校の応援団がそろい踏みだ。
エース戸狩、二塁手に町田などがいた。
ドラフト史や消えていった天才などでよく名前の出る選手がそろい踏みの試合だったと言ってもいい。この中で活躍したのは結局今宮選手のみだったというのもプロ含む日本野球の深さを感じさせる。

別に甲子園のアルプススタンドが素晴らしかったなど言うつもりはない。
高校野球が多くの綺麗ごとという清流と、その裏に流れた金と人の濁流によって成り立っているのはいまさら言う事でもないし、この大会の、この試合だってそういったものが多く流れていただろう。

しかし、甲子園のアルプススタンドはそれを理解したうえであったように覚えている。
清濁併せ呑む、という言葉があるが、まさに高校野球のうわべっつらも、汚れた部分も、同じ高校野球だから、と受け入れてくれていたように思える。

そこに難しい顔をした大学生が、アルプススタンドに上った時に感極まって泣いた男の高揚感をも飲み込んでいったように、今振り返れば考える。

それは私という人物が清流であろうとしながらも濁流に吞みこまれていきながら最後の輝きを見せようとした私をも受け止めてくれたのだ。
だからここが私にとって最後の輝きと思い出させるのだろう。
「人間なんだから清濁あって当たり前」
と思えず、どんなに薄汚れた考えをしていても心のどこかに清いものが必ずあると信じていた若者の揺れを受け入れてくれるような場所であったのだ。

だから今でも甲子園の、あの青い空を覚えている。
それに伴うかのように芝生は萌えていた。
あの日を人生の到達点という気はしないが、一つの絶頂であったのは間違いなかろう。

4,

今、多くの高校生や、彼らに関わる人々が同じようなものを経験しているだろう。
野球に興味がないからいやいやながらアルプススタンドに足を運んでいるかもしれない。野球にいい思いをした人間がいれば野球に嫌な思いをさせられた人間がいる。それは必ず起きてしまう悲劇のようなものだ。
だからこそ今、私は「野球は素晴らしい」なんていう気もない。
自分の愛しているものが万人にとって素晴らしいものであるはずがない。それをわざわざ素晴らしいというのは自己偏愛の一種でしかないのだ。

それでも私はあのアルプススタンドに来てほしいと思う。
晴天であればなお喜ばしい。曇天であっても悪くはないのだが、やはり私は晴れを望む。

あのコントラストは、永遠に残り続けるだろうから。
全てを許してもらえる、あの空間を、ぜひ一度だけ感じてもらいたいと思うのだ。

去年大阪への長期出張があったために一人で甲子園を訪れた。
甲子園ガイドがあり、添乗員二人と私の三人で甲子園を独占した。
新型ウィルスの兼ね合いでベンチに入る事は出来なかったが、甲子園の特等席に座って全体を眺める事が出来た。

ふと三塁のアルプススタンドを見た。
すると、あの時の、傲慢で、まっすぐで、未来に対して不満と不安を覚えたトランペット吹きが、必死になりながら演奏をしていた。
その強い音と、何かを思案している顔を見ながら、私は笑っていた。

その日の甲子園も、晴れていた。
薄雲がかかっていたが、確かに晴れていたのだ。

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