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グリーンモンスターの番人は遠くなりにけり

【MLB】吉田正尚のトレード報道にRソックスファン反発 「佐々木朗希や他の日本選手がボストンにくることはなくなるだろう」

グリーンモンスターの番人、という言葉もいささか古めかしい言葉になりつつあると思わずにはいられない。

ボストン・レッドソックスのレフト、と言われて誰を思い出すだろうか。ある人はマニー・ラミレスを思い出すだろうし、ある人はカール・ヤストレムスキーやジム・ライス、マイク・グリーンウェルなどを思い出すかもしれない。
いかにしたってテッド・ウィリアムズ以降はグリーンモンスターの番人としてレッドソックスを代表する面々がその守備位置についた。
グリーンモンスターを背に向けて試合に出場する。それはボストン打の象徴であった。

1,グリーンモンスターの番人以前

グリーンモンスターを背中にプレーした最初の選手はだれかご存じだろうか。
それは「100万ドルの外野陣」と呼ばれた一人、ダフィー・ルイスであった。

サンフランシスコからボストンに渡ってきた

彼がチームでデビューするのはフェンウェイ・パークが起工するハンティントン・アベニュー・パーク時代の1910年でその二年後にフェンウェイ・パークが開場するのだからまさしくフェンウェイと外野は切っても切り離せない関係であることを改めて思わせる。
ルイスはその足や守備も高いこともあるが、通算264という犠打数にも注目したい。通算打率も.274(5351-1518)という当時としても高いとは言いにくいにせよ低いわけでもない。巧みなバッティングセンスを持っていたことが分かる。

センターにはトリス・スピーカーが、ライトには同じ大学の先輩であったハリー・フーパ―がおり、応援歌としていまだに歌われ続けるTessieをファンが口ずさんだ。

まさに今のフェンウェイ・パークを作った原型がここにある。
ここからトリス・スピーカーのトレードを受けて開いた穴を埋めていくのが強打のティリー・ウォーカーであったり二刀流をやらされていた頃のベーブ・ルースであったりするのだが、ここから打撃を得意とするレフトという形が形成されていった。


ティリー・ウォーカーもまた118本本塁打を放った強打者
最晩年フィラデルフィア・アスレチックスで37本打っている

ここから活躍自体は短いものの長短関わらず打てる人間が数年活躍しては消えていく時代を迎えていく。

2,グリーンモンスターの番人の誕生

グリーンモンスターの番人、というイメージを作った人物は誰か、問われたら間違いなくテッド・ウィリアムズだろう。

説明不要の大打者

通算打率.344、521本塁打、1839打点。うち打率は歴代5位、本塁打歴代21位、打点歴代18位という球史に残る大打者が現れたことが大きい。
だが彼はデビューの1939年は意外なことにライトを守っている。
レフトにはクリーブランド・インディアンズ(現ガーディアンズ)などで活躍したジョー・ボスミックが一年支えている。彼は翌年ドム・ディマジオを雇ったレッドソックスからブルックリン・ドジャースに金銭でトレードされているため、新生レッドソックスの基盤として彼らを使おうとしていたのが読み取れる。

ただ意外なことにウィリアムズがこのころはまだ打線の軸ではない。
まだファーストにXXことジミー・フォックスがおり、ショートには兼任監督でありながら打線の要の一人を担っていたジョー・クローニンがいる。
テッド・ウィリアムズと鎬を削ったボビー・ドーアがセカンドに、戦争がなければキャリアも変わっていただろうジム・タボアがサードに、と打撃に一言ある選手がそろっていた。
それゆえに40年に彼が出した23本、113打点も目立つものではなく唯一.344という高打率と96四球という若手にしては異常すぎる選球眼を残すのみとなった。

その彼が主体となりはじめたのは翌年41年。
ジョー・クローニンやジミー・フォックスが全盛期から衰えに入ろうかとし始めていたその時彼が打率.406という数字を残してシーズンを終えたのである。
今でいう「最後の四割打者」誕生の瞬間であった。
1910年代と比べ、打ったあとどうやって走りぬき一塁に到達するか、というスポーツから脱却しつつあったベースボールにおいて1930年ニューヨーク・ジャイアンツのビル・テリーを最後に登場していない。
そのビル・テリーの時代ですらベーブ・ルースによって本塁打という打撃の価値が見直され、段々と遠くに打つことが打者の役割として持たされてきた時代だ。すでに30年代のジャイアンツを象徴する長距離打者の一人であるメル・オットーも出ている。
もはや一年に一人四割打者が出るかもしれない、みたいな時代ではない。そういう意味ではビル・テリーですら奇跡に等しい。

そういう奇跡の終わった時代と言っても等しい時代に四割を放ったのだ。
それはある意味でレッドソックスの主砲が変わった瞬間でもあった。見届けたフォックスやクローニンは翌年から出場を一気に減らしている。
この瞬間にグリーンモンスターの番人はボストン打の象徴として始まったのであった。
翌年42年には三冠王。まさしくア・リーグを代表する打者になっていった。

しかし43年よりバットを機関銃に変え、ボールを我々日本に向けることになる。そして45年シーズンまで彼は軍人として一パイロットとして空を飛び回っていった。
こういう成績を調べていると第一次大戦や太平洋戦争(大東亜戦争)、朝鮮戦争といった多くの戦争に出ていった野球選手がもしシーズンを過ごせたら成績はどうなっていたのか、という疑問がある。彼らより優れた選手が出ていたのか。一方で選手不足がドジャースに黒人選手との契約に至るきっかけになったのだからメジャーリーグに黒人選手の登場はもっと遅かったかもしれないし、ルーブ・フォスターが生み、ジャッキー・ロビンソンの登場によって余命を言い渡されたニグロリーグがどうなっていったのか。ロビンソンの登場で生み出された新人王はいつメジャーの歴史に生まれてきたのか。多くの歴史が大きく変わっていった可能性がある。
戦争の影響は別に日本だけではなかった。そういう意味で見ればやはり戦争というものは文化やスポーツに対して多くの不幸、そこから生まれた多くの偶然を読み取れてしまう。

かくして彼は太平洋戦争、朝鮮戦争の二度を経験しながら二度の三冠王(42年、47年)を中心に1960年まで活躍していく。首位打者に関して言えば彼が39歳の時である58年である(.328)だからいかにすさまじい選手であったか。
ここからグリーンモンスターの番人の印象をつけたのだ。

この最晩年期に彼の守備固めで出てきたのが元南海で息子が阪神でエース級の働きをするマーティ・キーオなのだがそれは別の機会に話そう。ここに出た多くの名前の歴史を掘り進めるだけで膨大な量の物語が生まれてしまう。

3,テッド・ウィリアムズの轍に続く選手たち

テッド・ウィリアムズの後を継いだのはキーオや彼の守備固めの一人であったキャロル・ハーディではなく21歳にしてグリーン・モンスターの番人と選ばれたヤズことカール・ヤストレムスキーであった。
初年度こそ長打が少し打てる程度の存在であった彼がメジャーの舞台に慣れてくると実力をめきめきと発揮し、63年には打率.321で首位打者になりウィリアムズの後を継ぐことになった。

しかし彼は意外なことに経歴が若いころはあまりホームランを打てる選手ではない。
リー・トーマスやトニー・コニグリアロが打線の中核を担っており、いわゆるよく打てる選手として三番に置かれていた。チームの主砲はコニグリアロであった。
だから20本塁打以上を放っていない。むしろ三振が少なく四球の多い、のちのマイク・グリーンウェルに受け継がれていくような選手像であった。

その彼の打撃がさく裂したのが67年。ライト、トニー・コニグリアロと共にホームランを量産。8月の時点ではコニグリアロを超えチームトップになっていたところに8月18日のエンゼルス戦、先発ジャック・ハミルトンの死球によってコニグリアロが退場。そこから孤軍奮闘し打率.326、44本、121打点という強烈な数字を残し、三冠王を獲得する。
そしてこの三冠王が20世紀最後のものとなり、2012年デトロイト・タイガースのミゲル・カブレラまで待たなければならないのは今更話すことでもないだろう。

守備も堅実でレフトでの守備率は.982。通算盗塁数は168とまさにトータルツールなプレイヤーであった。現在も孫がジャイアンツでプレーをしている。孫のマイクは右翼だが。

そのヤズも78年には新しい選手に番人を譲り渡す時が来る。
73年登場したDHに75年から座っていた若者、ジム・ライスがレフトの席を奪うと彼はライスのいたDHに追いやられた。このころにはヤズも30年代後半。打撃こそまだ力があるもののもう老境になっていた番人に新しい役がついたのだ。

ジム・ライスは77年に39本で本塁打王。打率も.315と高かった。
しかしウィリアムズやヤズと違ったところが多くある。
まず彼はいわゆるアフリカ系アメリカ人であった。今まで白人が守ってきたグリーンモンスターの番人に初めて肌の黒い選手が守ることになる。それも強力な打撃を以てしてだ。ここでグリーンモンスターに新しい風が吹くことになる。また彼は100を超える三振をする、いわゆる当たればヒット以上になるが当たらない日はどうにもならない打者であったのだ。彼はボールを選ばない。積極的に振って結果を残すのだ。
77年から二年連続本塁打王、78年には二冠王でMVPにも選ばれた彼やセンターを守るフレッド・リン、捕手のカールトン・フィスクと共に強力な打線を形成し70年代から80年代前半の打線を支えることになった。
のち83年にも二冠王、まさに強打のレッドソックスを代表するような選手であった。

そのライスがヤズをDHに追いやったように、彼がDHに追いやられる日が来る。
その彼を追いやったのがかのマイク・グリーンウェルであった。
日本では神のお告げ発言などでネタ外国人にされやすい男であるが彼がライスから番人の役を奪った時の打率.325(590-192)、22本塁打、112打点という強烈な成績がどういった選手かを物語る。
しかしそれ以上にすさまじいのは38三振と87という四球数である。これほどの打率を残してこの三振数と四球数は脅威というほかない。
目立った成績を残せず、無冠の帝王で終わってしまった彼だがスタメンになった88年以降三振が四球を超えたシーズンは92年と96年の二年しかないといえば選球眼の高さが分かるだろう。その二年も怪我で調子を落としたシーズンだ。
4623打席に対し安打数1400、本塁打130、726打点は決して華々しいものではなくても三振数364に対して四球数460と100近い差を出していることは日本では知られていない彼本来の姿である。

4,グリーンモンスターの番人はどこへ

しかしある意味でこれがグリーンモンスターの番人の歴史の終焉ともいえる。
ここから先は自前の選手ではなくなる。
この後輝くのは日本でも知る人の多いマニー・ラミレスだ。
しかし彼はクリーブランドでメジャーデビューをし、99年打点王を獲得、本塁打王などはとれていないもののいつとってもおかしくないような、リーグを代表する選手であった。それをFAで獲得したことはある意味でグリーンモンスターの番人という発想が20世紀のものであったと言わしめているようであった。

そういう意味では初めて尽くしの男であったように思う。
FA初のグリーンモンスターの番人であり、初めてアメリカ国籍でない男がグリーンモンスターを守った。それは古めかしい33.7フィートの壁に新しい時代の訪れを象徴する出来事であったようにも思う。
そして野球が打撃のスポーツへと変化していくにつれ打撃の要はDHに移り変わり、ミネソタからやってきたデビット・オルティーズがレッドソックスの代表に移り変わり、いつしかグリーンモンスターの番人はレッドソックスのレフトへ変わっていった。

もはやレッドソックスのレフトは、レッドソックスの象徴ではなくなった。
誰がいてもよければ、いい選手がたまたまレフトならそこにいていい、というようなものになってしまった。
グリーンモンスターの番人は過去のものになってしまった。

5,東洋の国からやってきたグリーンモンスターの番人候補

そこに2022年、日本は大阪とかいう土地の球団、バファローズという3Aの地名のような球団から一人の選手がポスティング、という珍妙な移籍で入ってきた。
ポスティングという制度で入ってきた東洋人がグリーンモンスターの壁の前に立ったのである。

そしてなにより、あのテッド・ウィリアムズが銃口を向けた、いわゆるジャップがその壁を守るのである。軍人として対アジアで多くの戦績を残したテッド・ウィリアムズから始まったグリーンモンスターの番人の歴史は、FAなどの大きな歴史をめぐってジャップに向けられたのだ。
ジャップが歴史に変わり、日本人プロ野球選手がグリーンモンスターの壁の前に立つ。
一つの時代が始まったのである。

また彼と共にレフトを守るロブ・レススナイダーは韓国系アメリカ人だ。
ここでもテッド・ウィリアムズが戦場を駆け巡った朝鮮半島出身の男がグリーンモンスターの前に立つ。

歴史の不思議がここに表れた。

タイ・カッブに飛び蹴りされた写真があまりにも有名なポール・クリッチェルがヤンキースのスカウトとなってルー・ゲーリッグを連れてきたように、歴史の奇妙なつながりが新たな一歩を踏むのだ。

その歴史も風前の灯になろうかとしている。
やはりレッドソックスのレフトはレッドソックスのレフトでしかないのか。もはやグリーンモンスターの番人ではなくなったのか。

そこに待ったをかけているのがファンというのも面白い。
もちろん「佐々木朗希を誘致を考えて」という少し下品な発想が見えているのは苦笑も漏れるが、それでも彼を守ろうとする不思議な縁があるようにすら思えてしまうのは面白い。

「吉田は十分にやっていた。秋はWBCの疲れもあったはずだ」

https://www.sanspo.com/article/20240107-5VQUIGDF2ZO6JJLNYUV3OUFP3U/

これは最初に出した記事から抜粋した。
まるで来年の活躍を期待しているかのように。

それは私は巡り巡って日本人の手に渡ったグリーンモンスターに、もう一度番人を復活させてほしいという、まるで日本武士をイメージして描かれたジェダイを復活を願うヨーダたちスター・ウォーズの人々の言葉のように映ってならないのだ。

吉田正尚をグリーンモンスターの番人とするか、それともまたレッドソックスのレフトで終わらせるか。
それはこれからにかかっている。

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