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オーバーナイト・ハイク

 今から40年ほど前、中学2年の春休みにボクは同級生2人と神奈川県丹沢山地の麓を流れる水無川にキャンプに行った。メンバーはボクと同じ団地に住むタケシ。そして中学に入ってから知り合ったタツヒロだ。

 タケシは端正な顔立ちの優等生で物知りだった。小学校のころからボーイスカウトに入っていたのでキャンプや焚火などの野外活動、地形図の読みかたやコンパスの使い方などの知識を豊富にもっていた。だから今回のキャンプではリーダー的な存在だった。

 タツヒロは違う小学校だったが中学に入学してから知り合った。無口で友達が少なかった彼はいつもひとりで鉄棒にいた。いがぐり頭がよく似合う彼は自転車が大好きで、よく「やっぱりブレーキはカンパニョロだよな」などとマニアックに語り、当時『サイクル野郎』という漫画にハマり自転車での日本一周を夢見ていたボクとは気が合った。

 そんな3人がなにかのきっかけで「キャンプに行こう!」ということになったのだ。場所はボクらの街から小田急線1本で行くことができ、遠足でも訪れたことのある丹沢が選ばれた。予定は2泊3日。タケシ以外は本格的なキャンプ道具は持っていなかったが、小学校の林間学校のときに使った飯盒や寝袋があった。あとは家にある使えそうなものをザックに詰め込んだ。靴は親のキャラバンシューズを借りた。

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 当日、朝早く家を出発して小田急線に乗りキャンプ場への最寄り駅となる渋沢まで行く。そこからバスに乗って終点の大倉に着くまでは何の問題もなかった。とても順調なスタートに思えたのだが、キャンプ場で受付をしようしたとき予期しない問題が起きた。
 管理人のオジサンから「中学生だけじゃ泊めるわけにはいかないよ」と言われてしまったのだ。

 思いもよらない事態にボクたち3人は途方に暮れかけたのだが、自宅に電話をかけ、管理人さんと親が直接話をしてもらうことで、ようやくキャンプをする許可が下りた。

 キャンプができることなってホッとしたものの「なんだよ。あの親父!」とテントを建てながらぶつくさ文句を言っていたような気がするのだが、いま思えば、キャンプ場の管理人として至極真っ当な対応だったように思う。

 そんなハプニングはあったものの、タケシが所属するボーイの隊から借りてくれた最新式家型テントのお陰で中学生のキャンプとは思えない素晴らしく充実したテントサイトが完成した。

 テントサイトが出来上がってしまえば、あとは特にすることもない。ボクたち3人は、まったく自由な気分でキャンプ場の周りを探検したり、薪を集めて焚火をしたり、心ゆくまでキャンプを楽しだ。

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 そんな自由な気分が有り余った結果、タケシが”オーバーナイト・ハイク”に行こうと言い出した。オーバーナイト・ハイクは、文字通り”夜のハイキング”だ。ボーイスカウトの活動としては何回か経験があるようだった。ボクとタツヒロは聞きなれないその”オーバーナイト・ハイク”という言葉に魅了された。

 そうと決まれば、行く先の検討だ。
 ボクたちはさっそく、国土地理院の5万図を拡げて相談した。今なら間違くなく昭文社の「山と高原地図-丹沢」を使うところだが、ボーイスカウト出身のタケシにその発想はなかったし、そんな便利な地図があることも知らなかった。ちょっとした探検気分を盛り上げるには5万図がちょうどよかったのだ。

 そして、目的地として選んだのは”鍋割山”。なぜ、鍋割山にしたのかよく覚えていないが、おそらく夜道ということもあり表丹沢の主峰ともいえる塔ノ岳は避け、それより少し標高が低く、比較的奥まで林道でアプローチすることができる、というのが選んだ理由ではなかったかと思う。

 当時は、まったく気にしていなかったのだけれど、今にして思えば、これはもうハイクではなく完全なる登山。かなり無謀な計画だったように思うけれど、ボクたちは探検に行けるという高揚感だけで、不安や心配はまったく感じていなかった。

 夕方から焚火をして飯盒めしとレトルトカレーの夕食を済ませたボクたちは、地図、水、固形燃料と紅茶、非常食、懐中電灯と雨具をバックパックに詰め、午後8時ころキャンプ場を出発した。

 ところが、出発していきなり道に迷ってしまったのだ……。

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 水無川のキャンプサイトから鍋割山に登るには、西に尾根を1本跨いだ四十八瀬川沿いの林道まで畑や森を越えて行かなければならない。5万図には、大倉の集落から林道までの道が描かれているのだが、尾根上の登山道と違い、この辺りには地図には描かれていない生活道路や農道が縦横に走っていた。しかも街灯がほとんどない集落の夜道は暗く、誰も鍋割山に登ったことがないボクたち3人は記憶に頼るということもできなかった。

「とにかく西へ向かえば四十八瀬川にぶつかるはずだよ」と言いながら進むのだが、そんなに都合の良い道があるわけもなく、何回も進路を変えさせられるうちにボクたちは現在位置と進むべき方向を失ってしまった。

 幸いにも、大倉尾根末端であるこのあたりは見晴らしの良い丘陵地帯で、南側に広がる秦野方面の街明かりがよく見えた。月が出ていたのかどうかは覚えていないが、漆黒の闇というようなことはなく、黒い森を背景に畑や農家らしき家の形がぼんやりと見えた。

 しかし,本来進むべき道は見つからず行ったり来たりを繰り返したボクたちは、散々悩んだ末に一軒の農家で道を尋ねることにした。時間はおそらく午後9時を回っていたと思う。

 こんな遅い時間、山中の一軒家に子供が山への道を尋ねに来るというのはかなりホラーなのだが、とにかくこの家の人に道を尋ねたお陰で、竹林や豚小屋の脇をすり抜けるような細い土の道を進み、ボクたちはようやく林道にたどり着くことができたのだった。

 たどり着いた林道脇には、「丹沢大山国定公園」と書かれた立派な看板が設置してあり、ボクらは再び地図上に現在位置を確認することができた。現在地を地図上に示すことができる重要性と安心感をぼくたちは改めて実感したのだった。

 あとは、この林道を上流に向かって進んで行けば登山訓練所のある二俣に行きつくはずだ。道に迷った影響でかなりの時間を浪費し、出発してからすでに2時間ほどが経っている。ボクたちは林道を急いだ。

 まわりを木々に囲まれた林道は暗かったが、電池を節約するため時々懐中電灯を消した。少しすると目が慣れ、闇のなかに白っぽい林道がぼんやりと見える。左側の深い谷から聞こえてくる四十八瀬川の音と、自分たちの靴が蹴散らす砂利の音、それだけを聞きながらボクたちは黙々と歩いた。

 1時間ほど歩いただろうか。懐中電灯の明かりの輪のなかに石組みの階段のようなものが見えた。公園だろうか……。ベンチでもあるなら少し休憩しようかと階段を上がり、少し進んだとき懐中電灯の明かりのなかに突然人の顔が浮かび上がった。

 人の顔、しかも胸から下がなかったのだ……。

 ”心臓が止まりそうになる”、とはまさにこのことだった。

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 懐中電灯の明かりに浮かび上がった人物には胸から下がなかった。いや、胸から上しかなかった、というべきか。それもそのはず、ボクらを驚かせたのは胸像だったのだから。

 大倉から鍋割山に登ったことのある人なら「ああ、あれか」とわかるのだと思うが、登山訓練所の少し手前、林道のすぐ脇に塔ノ岳の尊仏山荘を建てた”尾関 広”という人の胸像が建てられているのだ。

 そんなことをまったく知らないボクたちは、突然浮かび上がった人の顔に本当に腰を抜かすぐらいビックリしたのだった。オチがわかってしまえば、「な~んだ」ということなのだけれど、必ず出てくるとわかっているお化け屋敷のお化けだって怖いのだ。だから、なんの予兆もなくこの場面に遭遇したボクたちの状況を想像してみてほしい。

 しかし、この胸像のお陰で登山訓練所の近くまでやって来ているのであろうことが想像できた。そうであれば中間地点ともいえる二俣や、林道の終点も近いはずだ。ダラダラした林道歩きがもう少しで終わるのだ。ボクたちは気を取り直して再び歩き始めた。

 二俣を過ぎると林道は徐々に細くなり沢の音が近づいてきた。林道と沢の高低差がなくなってきたのだ。さらに進むとすぐ脇を沢が流れる広場のような場所に出た。そこが林道終点のようだった。

 ここで、ザックを降ろして少し長めの休憩をとる(おそらく、この地点が現在「鍋割山荘への水場」と呼ばれている場所なのではないかと思う)。

 日付が変わろうとしていた。ここで引き返したとしても十分に ”ナイト・ハイク” という目標は達成できているのだが、なぜか「もう帰ろう」と言い出すヤツはいなかった。
 それぞれに不安を感じていながらも自分からは言い出しにくかったのか、「みんなで登れば怖くない」という集団バイアスがかかっていたのかはわからない。とにかくナイト・ハイクは続けられることになった。

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 休憩を終えたボクたちは懐中電灯で登山道の入口を探した。昼間なら多少距離が離れていてもペンキの〇印や道標を見つけることができるのだろうが、今は懐中電灯の明かりが届く範囲しか見ることができない。地図に道は描かれているのだが,ぐるりと回りを照らしてもそれらしい道は見つからなかった。

 3人であちこち照らしまわり,ようやく広場に流れ込んでくる細い沢の入り口に道標を見つけることができた。沢の入り口は両側に山肌が迫り狭い廊下のようになっていた。その沢を少し登ると正面が岩で塞がれた小滝ようになっている。登山道はその滝の右側の斜面に取り付き、植林された杉の林のなかへと登っていくようになっていた。昼間でもわかりにくい場所だった。
 思い返してみると,この時暗いなかでよく入口を見つけられたものだと思う。もしかしたらスタート直後の迷走が経験値となり、野生の勘のようなものが少しだけ敏感になっていたのかもしれなかった。

 杉の林のなかの道は明瞭に踏まれ、懐中電灯で照らしさえすれば迷うようなことはなかった。ボクたちは遅れた時間を取り戻すように稜線に向けズンズンと高度を上げていった。

 どれくらい登っただろうか。頬に風を感じた。稜線が近いのだ。

 そしてボクたちは唐突に稜線に出た。後沢乗越に着いたのだ。西側から少し湿り気のある風が吹いていた。汗が一気に引いて寒い。乗越とは尾根の低くなった部分で鞍部とも呼ばれる。乗越を越え、そのまま反対側へ降りていくことができれば後沢峠と呼ばれていたはずだが、ここには稜線の向こうへ降りていく道はない。地図によると西側は急な斜面でウシロ沢の源頭になっている。尾根は痩せていて細かった。

 ここから南北に連なる尾根を北に向かって登っていけば鍋割山の頂上に着くはずだ。

 ところどころに岩が顔を出す稜線の道は、単調な林道歩きや湿った苔の臭いのする杉林の道と違い、いかにも”登山”をしているという気分にさせられた。足元に気をつけながらカヤトと低灌木で囲まれた登山道をひたすら高い方へ高い方へと登っていくとだんだん傾斜が緩やかになり、前方に山小屋が現れた。

 鍋割山の頂上だった。時計を見ると午前2時になっていた。

 キャンプ場を出発したのが午後8時だったから、延々6時間も歩いていたのだ。昼間なら3時間もあれば登れるコースだから、やはり夜道という状況が大きな行動の制約になったということだ。
 しかし、とにかくぼくたちは目的の頂上に着いたのだ。

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 頂上は開けているので、暗いとはいってもぼんやりと周りの様子が見える。山小屋に明かりはなく、営業しているのかどうかはわからなかった。遠く南東の方向に街の光が見えた。ぼくたちは少しの間その光を眺めた。あの光の街にいる人たちは、ボクたち3人が山の上から眺めているなんてことなんて、まったく思いもせず眠っている。当たり前のことなのに、そんなことがなんだか不思議に思えた。

 ひととおり頂上の標識や三角点を確認したぼくたちは、登山道を少し下った場所で雨具を着て身体を寄せ合って風避けをつくり、固形燃料に火を着けた。

 風に煽られ、ゆらゆらと頼りなく揺れ動く青白い炎を見ていると睡魔が襲ってくる。

 時間をかけてお湯を沸かして紅茶をつくり、非常食のビスケットを食べた。そして、休憩を終えたボクたちは下山を開始した。暗い頂上ではすることもなく、御来光を待つには時間があり過ぎ、仮眠をするには寒すぎたからだ。

 暗いとはいえ一度は通った道、ボクたちは登りの倍くらいのスピードで山道を駆け降りて行った……と言いたいところなのだが、実はここからは記憶が曖昧になり、あまりよく覚えていない。何しろ一睡もせずに歩き続けているのだ。疲労と睡眠不足のためフラフラとまではいかないまでも、かなり集中力が落ちていたのではないだろうか。しかし、幸いにも尾根を踏み外すことも、道を誤ることもなく、ボクたちは再び林道に戻ってきた。

 夜が明けはじめ、二俣あたりまで来るころには空と稜線との境目がはっきりして山のカタチがわかるようになった。そして、お互いの表情もわかるようになって懐中電灯は必要なくなった。

 行くときはまったく見えなかった登山訓練所の赤い屋根が林道から離れた森の中に見え、暗闇でぼくたちを驚かせた胸像を再び通り過ぎるころ、タツヒロが「女の人の声がする……」と言い始めた。

ボクとタケシにはまったく聞こえないのだが、「ほら、声がするだろ」というのだ。ふざけて言っているのかと思いタツヒロの顔を覗き込んでみたが、とても嘘を言っているようには見えなかった。

 もしかすると登山訓練所に泊まっている人の声が聞こえてきたのではと思い、耳を澄ましてみたのだが、やはり何も聞こえなかった。

 すでに明るくなっていることもあって怪談的な怖さは感じなかったが、何かに獲り憑かれているようなタツヒロの様子が少し怖かった。ボクとタケシは、「気のせいだろ」と言い聞かせ、疲労と睡眠不足によるタツヒロの幻聴である、と強引に結論付け、それ以上詮索することをやめた。

 しかし、そのあと林道を歩いていると、ボクとタケシにも聞こえる不思議な音がした。それは「ひゅーん、ひゅーん」というムチを振るうようなかん高い、近づいてくる電車の音がレールから伝わってくるときのような音だった。ちょうど林道の上を送電線が通っていたので、「風で送電線が鳴ってるんじゃないか?」と大して風も吹いていないのに無理のある推論で自分たちを納得させることにした。本当のところはわからない。

 そんな出来事があったものの、道に迷ったり心臓が止まったりしそうになるような事件は起こらず大倉集落に戻ることができた。オーバーナイト・ハイクのことがキャンプ場のオジサンに知られたら怒られそうだったので、受付を通らず川を渡って自分たちのキャンプサイトに戻った。朝の7時を過ぎていたように思う。結局12時間近くも夜の山を歩きまわっていたのだ。

 朝ごはんを作る他のサイトの焚火の煙や、飯盒から漂うオコゲの香りがするなか、ボクたちはお腹が空いているのも忘れてテントに転がり込み、ただひたすら眠りこけたのだった。

これが、中学2年の春に経験した「オーバーナイト・ハイク」の顛末だ。

 ボクらはその翌日,改めて昼間に大倉尾根から表丹沢の主峰ともいえる塔ノ岳に登って表尾根を縦走したり、夜中に吹き荒れた暴風のためテントのポールを折られて一晩中交代でポールを支えていたり、ラジオの深夜放送を聞きながら大声で唄ったり、とにかく色々な経験をしたのだけれど、その話はまた次の機会にしよう。

#創作大賞2024  #エッセイ   #キャンプ #登山 #冒険


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