アイデンティティは環境に依るという話
気が付けば8月も折り返し。
社会人になって4カ月が経とうとしています。
なんかできるようになったこともあれば、特に変わっていないこともあって、まあなんだかんだ生きていくことはできそう、そんな感じです。
ここまでの3ヶ月ちょいで、なんとなく思ったことを文字にしたいと思いこの記事を執筆しています。
アイデンティティとは何か?
大体の人間はサカナクションでアイデンティティなる言葉を知り、高校の倫理の授業でその答え合わせをするのではなかろうか?
ざっくり言えば「自分らしさ」であり、倫理で習ったのはアイデンティティの拡散(自分らしさを見失う)を経験し、アイデンティティを確立するといった内容だったと記憶しています。
もう少し踏み込んでみましょうか。
では、そのアイデンティティを形成するもの、根幹にあるものは何か?
ほとんどの方は経験・歴史に起因するアイデンティティを持っているのではないでしょうか。
こんな時にいい思い・嫌な思いをしたから、自分はこういうパーソナリティなんだろうとか。
スポーツで成績を残したから、プレイヤーとしての自分が一番しっくりくるとか。
ここまでが教科書的な説明ですね。
社会人として職場にぶち込まれて、自分がふと思ったのは「他人と違うところ」がそのままアイデンティティになるということです。
なんか当たり前のことで拍子抜けしてしまいますが、本気で僕は思っています。
みんな優しかったら自分の優しい性格がユニークにならないし、みんな2m超えている環境だったらタッパは特徴づけにならない。
結局のところ、環境が変わればアイデンティティも変わるということです。
無くなるアイデンティティ
環境が変わればアイデンティティはリセットされます。(少なくとも自分はそう思っています。)
読者の皆さんも、いろいろなコミュニティに属した方なら何となくわかるのではないでしょうか。
自分が成長して、その実力に合わせた集団に入ると優位性を保つのが難しくなること。
僕は小学生の頃喘息持ちだったので、水泳をやっていたのですが、最初は結構いい感じにステップアップできていても、最後の方まで続けている生徒は皆速いので全く優位性を持てていませんでした。
部活だって、部内で優位性を持っていても、大会に出れば井の中の蛙であることを思い知らされます。
競争環境ができているものでアイデンティティを保ち続けるのは、至難の業です。
その頂点がオリンピアンであったり、テレビにコメンテーターとして出演できる業界の人間であるわけです。
ほとんどの人間にとって、コンペティティブなアイデンティティは喪失するものだと思っています。
想像外のところから湧き出る
今の職場において、自分のアイデンティティは「公立中出身」です。
でも、これは中学生当時なら絶対に成立しないアイデンティティ。
なぜなら皆同じ中学校に通っているから、差別化できない。
なんなら(公立)高校でも、ほとんどの人が公立中卒で来るので差別化できないでしょう。
んで大学、大学院、そして職場と環境が変わっていくわけですが、この流れの間で一気に中高一貫出身の人に触れる機会が増えました。
どんどん周りも頭よくなっていくので、その点で優位性を保つことが難しくなっていったわけですが、それとは反対に公立中出身はどんどん減っていったのです。
なんなら職場に入ると帰国子女なり海外大卒なりも出てきて、公立中出身がアイデンティティとして使えるくらいに周りのレベルが高くなってしまいました。
自分は公立中はあまり戻りたい環境ではありません。
そんなところが、自分のアイデンティティになるなんて思ってもみなかった。
あとは部活とかも、やっていた方がだいぶ少なくなってきました。
中高のときとかは皆何かしら所属していましたから、ほんと未来のことは読めないなあって思います。
前にも書いた気がしますが、結局のところ自分の過去は変えられるわけで、これまでに積み上げてきたものはすべて何かしらの意味を与えられると僕は信じています。
だからこそ、何かを経験できるチャンスがあるならばそれを無駄にはしてほしくない、それを皆さんにお伝えしたかったのです。
いつアイデンティティに化けるか分からないから。
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