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西洋のcivilizationと東洋の文明(前編)

〇はじめに

英語の「civilization」を「文明」と訳したのは、明治時代の日本人学者、言わずと知れた福沢諭吉である。ただし、英語の語彙を漢語に無理やり翻訳したものだから、当然、その過程でニュアンスに微妙な違いが生じた。この記事では西洋的な「civilization」の概念と東洋的な「文明」の概念の差異を比較・考察してみたい。

〇西洋のcivilization

英語の「civilization」とは、漢語で「文明」という意味であるが、その語源はラテン語の「civitas(都市)」である。ここから西洋圏では「都市」もしくは「市民」という概念が、その文明観の根幹にあることが分かる。西洋圏において文明を文明たらしめるものとは都市であるということだ。

都市に文明の本質をゆだねるということは、そこに単なる「たくさんの人が集まって住むところ」という意味合いだけでなく、それ以上の何らかの思いを込めるということである。

その思いとは何だろうか。

それは「公共」という概念である。古典古代のギリシア人やローマ人から中世近世近現代のヨーロッパ人に至るまで、彼らは都市に公共という思いを込め、それを文明的であると定義したのだ。

その証拠に、古代ギリシアの都市国家(ポリス)では公共広場(アゴラ)が整備されていたし、古代ローマの都市では公共広場(フォルム)や公衆浴場(テルマエ)、円形闘技場(コロッセウム)などが建設された。こうした都市内公共空間の存在は、他の古代文明、例えばペルシアや中国には見られない。「公共的」という概念が古代の地中海世界の最大の特徴であり、それは後世のヨーロッパ人にも受け継がれた(あるいはヨーロッパ人が発見して彼ら自身のものにした)。

近代ヨーロッパでは「公共的な国家」という意味合いの「共和国」という概念が都市から誕生した。共和国の政治主体は都市の住民すなわち「市民」である。また、現代ヨーロッパの多くの都市には、中心市街地に公共広場が存在している。これらの事例からも「文明は都市に宿る」や「都市は公共のものである」といった彼らの思想が伺えるだろう。

西洋のcivilization → 都市、市民

「文明とは都市である」。これは裏を返せば、非文明とは非都市である、都市に住まない人々は蛮族であるということを意味する。古代ローマ時代の蛮族として有名なのは、北方の森林に住むゲルマン民族や東方の草原に住むフン族などである。彼らはいずれも都市には住まなかった。それゆえに、ローマ人の目から見ると、彼らは紛れもない「蛮族」であったというわけだ。

〇東洋の文明

では一方の東洋での文明の根幹にあるものは何だろうか。ここでの「文明」という語彙は、明治時代に日本が近代化する中で作り出されたものであり、元来より東洋圏に存在していた言葉ではない。では西洋がやって来る以前の東洋には文明の概念は無かったのだろうか。

そんなことはない。

前近代における東洋の文明は「華」という概念であった。華は、その根幹に「文」や「礼」といったものを置いていた。すなわち東洋圏において文明を文明たらしめていたものとは都市ではなく、文や礼といった概念であったということだ。

ここでいう文や礼には、その大元に儒教の存在がある。文とは儒教的な教養のことであり、礼も儒教的な礼制のことである。前近代の東洋圏では、儒教的な教養を身に着けて漢字や漢文を自在に操り、儒教的な礼制の通りに行動を飾りたて、所作振る舞いを整えることこそが文明的(華)であり、それが適切に行われている土地こそが文明国(中華)であったのだ。

その証拠に、明清交替の事例が分かりやすい。漢民族国家である明王朝の崩壊後、満洲族国家である清王朝は万里の長城を越えて南下し、中国全土を制圧した。そのこと自体は現地の漢人もすんなりと受け入れていたが、後に清朝が「辮髪令」という命令を発すると、彼らは凄まじいほどの拒絶反応を示した。「髪を長く伸ばすこと」こそが儒教的な礼であり、清朝がそれに反した令を下したからだ。結局漢人たちは渋々この命令に従ったが、その隣の朝鮮では「中国本土では文明は死んでしまった。今や我々こそが文明なのだ」という「小中華思想」が生まれた。このことからも、中華を中華たらしめるもの、文明を文明たらしめるものとは儒教的な礼であり、そこに並々ならぬ思いが込められていたことが分かるだろう。

東洋の文明(華) → 文、礼

「文明とは華であり、華とは文と礼である」。これは裏を返せば、非文明とは武であり非礼である、武力だけを頼みにする人々や礼を知らない人々は蛮族であるということを意味する。漢代中国では、北方の匈奴の慣習、例えば息子が亡き父親の妻を自分の妻にするというような風習を以て、彼らを「蛮族」であると断じていた。ローマ人のように「都市に住まないから蛮族だ」とはしなかったのだ。このことからも礼こそが文明(華)であり、非礼は夷であると古代の漢人たちが考えていたことが分かる。

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