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西洋のcivilizationと東洋の文明(後編)

〇古代西洋における蛮族のcivilize

さて、西洋においては都市こそが文明の根幹であり、都市に住まう人々(市民)こそが文明人、都市に住まわない人々は蛮族であるという世界観・文明観であった。

排他的な古代ギリシア人はこの認識のままで思考を停止させたが、寛容な古代ローマ人はここの区分けを大きく開放した。すなわち、蛮族であっても市民になれるという制度を設けたのだ。

ローマでは蛮族(非都市、非文明)から市民(都市、文明)へのステップアップの登竜門として、ローマ軍団を間に置いた。都市に住まわない蛮族をローマ軍に加入させて一定期間従軍させ、退役後に彼らと彼らの子孫に市民権を与えるという方式を以て、ローマ帝国は蛮族を「文明化」したのだ。

蛮族(非文明人) → ローマ軍団に加入 → 市民(文明人)

これは蛮族を文明化する過程であると同時に、蛮族の地すなわち都市のない土地を文明化する過程でもあった。多くの蛮族が加入したローマ軍団の主要任務というのは、実は戦争ではなく「都市の建設」であったからだ。蛮族を兵員とするローマ軍は、その労働力によって増加していく市民の住まう都市を建設した。こうして蛮族の地は蛮族の力を以てして都市化・文明化されていった。

非都市(非文明的) → ローマ軍団による建設 → 都市(文明的)

これは非常によくできた制度であり、実際にローマ軍による古代地中海世界の都市化イコール文明化は大いに成功した。その過程で生まれたローマ都市は現代にまで遺跡が残っており、それらを見ると彼らの土木力の程度、驚くほどに高度な技術力のほどを伺うことができる。

しかし、史実として古代ローマ文明は滅亡した。このことは、この制度に実は大きな欠陥があったということを何よりも意味している。

それは「都市の建設に必要となる資源の枯渇」という欠陥であった。都市の建設には木材であれ石材であれコンクリートであれ、とてつもない量の資源が必要になる。しかし土地から産出される建材の絶対量には自ずから限界がある。都市建設にかかる資源の量が帝国領土から産出される資源の量を上回ったとき、この古代都市文明は崩壊する運命に置かれてしまったのだ。

ローマ帝国主催の「都市建設による文明化」という大プロジェクトは、資源の枯渇という実に現代的な理由で幕を閉じることになった。四世紀に西ローマ帝国は滅び、それと同時にローマ都市も打ち捨てられた。西洋圏では都市の衰退は文明の衰退を意味していた。ローマ都市の衰退で以て、古代ローマ文明は崩壊したのだった。

〇古代東洋における蛮族の文明化

東洋においては儒教的な文や礼こそが文明の根幹であり、礼を身に着けた者すなわち君子こそが文明人、そうでない者は小人であり、もっと酷ければ蛮族であるという世界観・文明観であった。

寛容なローマ帝国とは違って、中国には「中華思想」や「華夷秩序」といった思想がある。それゆえに「中華帝国は排他的だ」と思われるかもしれないが、実はそうでもない。中華でもローマと同じように蛮族の文明化は行われた。しかし、それはローマとは違い、儒教的な礼を知らない蛮族に教化を施して、その所作振る舞いを矯正し、礼を知る漢人に変えるという方法でだった。礼を以てして中華帝国は蛮族を「文明化」したのだ。

蛮族、小人(非文明人) → 礼を身に着ける → 漢人、君子(文明人)

このようにして中華は蛮族を漢人にしていき(漢化)、それと同時に、蛮族の地を文明化していった。それは「中華の拡大」である。遥か古代の夏王朝や商王朝の時代には、中華とは黄河流域の小さなエリアだけであった。それが周王朝、春秋戦国時代、秦漢帝国と時代を経るにつれて長江流域にまでその範囲を拡大させた。こうした中華の拡大は文明の拡大であったのだが、これはローマのような「都市なき土地に都市を建設する」ことで進んだのではなかった。儒教的な礼制が広まることで進行したのだ。

夷(非文明的) → 礼の伝播・教化 → 華(文明的)

こうした文明化は、ローマによるそれとは違って、資源的な制約を受けることがなかった。礼を伝えるのに大量の資源は必要にならない。中華帝国主催の「礼の伝播による文明化」という大プロジェクトは、物理的な制約をクリアして数千年にも渡って継続できた。ローマ帝国の滅亡に伴ってローマ文明が崩壊したのとは対照的に、漢帝国が滅亡した後も中華文明は存続した。その差が生じた理由の一つに、この「物理的な制約の有無」という点があったのではないだろうか。

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