日記:恋の話
映画『恋する寄生虫』を見てきました。とても良い映画でした。
自分は原作を読んでいて、というか三秋縋作品はひたすらに追いかけていて、中でも『恋する寄生虫』はとても好きな作品だったので、映画になることを知ったときは驚くとともに嬉しかった。ある朝、目が覚めたらTwitterのトレンドに『恋する寄生虫』が入っていて、ここはまだ夢の中なのだろうかと思ったものだった(夢じゃなかった)。
それぞれ生きづらさを抱えた2人の物語。奇妙な形で出会った2人は、やがてお互いに力を借りて歩き出すかのように、次第に距離を近づけていく。それは恋だったのだろうか。
映画の感想を書きますね…………。
序盤、潔癖症の高坂賢吾と視線恐怖症の佐薙ひじりから見た風景がこれでもかというほどに強烈な映像として襲い掛かってくる。恐怖やおぞましさ、生理的な嫌悪すら覚えてしまうような感覚。しかしこの視点は、2人にとっての世界そのものなのである。響きだけではともすれば軽くイメージしまいがちな「潔癖症」「視線恐怖症」という言葉を、作中の人物が訴える感覚のみならず視覚的なイメージとして体感させられることで、どれだけの苦しみを2人が抱えているのかが否が応でも伝わってくる。
その体験によって形作られた感覚が、あらゆるシーンに緊張感を走らせる。何気ない日常の描写であっても、2人にとっては大きすぎる難行なのだ。いつ2人が世界の恐ろしさに耐えきれなくなってしまうかわからない。そんな細い糸の上に成り立っている日常であるということを、視覚的に理解してしまったからである。
2人の時間はいつしかリハビリになり、やがて大切なものと変わっていく。君と出会えたからこそ、この生きづらさを克服できるかもしれない。相手の存在を頼りにして、寄り添っていく。比翼の鳥のように、あるいはフタゴムシのように。
果たして、その恋は寄生虫によってもたらされたものだった。その寄生虫は宿主の脳に潜み、知らず生きづらさを植え付けていく。寄生虫を宿した者同士が出会った際に、2人に恋心を抱かせ、粘膜接触をきっかけにして寄生虫が交接し、卵を産みつける。そして、その卵は宿主を自死へと向かわせる。
恋が寄生虫によるものならば、虫が消えれば恋心もなくなってしまう。命をつなぐためには虫を殺すしかないが、それはこの思いごと捨て去るのと引き換えである。恋のために命を捨てるのか、命のために恋を捨てるのか。生きてほしいからこの恋も忘れてほしいのか、恋のために殉じることを願うのか。寄生虫の恋は残酷な選択を迫る。
その選択も、気付けば終わっている。高坂が目を覚ましたとき、既に寄生虫は摘出されて、生きづらさとともに佐薙への思いも薄らいでいた。日常に溶け込みつつある高坂のもとに手紙が届く。それは、治療が進行していく佐薙により、思いが消える前に綴られた言葉だった。高坂は、佐薙が願っていた「世界の終わり」を実現するために、バグを残したままのコンピューターウイルスを放流する。それを見届けるために訪れたクリスマスツリーの下で、2人は再会する。
恋とは、一過性の感情に過ぎないのであろうか。その大きすぎる感情に比して、拠り所する基盤はあまりにも脆い。この恋がかけがえのないものだと、証明なぞできようもないが、しかし人は恋の力を信じている。
世界から爪弾きにされていた。世界から追い詰められていた。そんな2人が出会い、恋をしたのは奇跡かもしれない。では、その奇跡に理由を与えよう。寄生虫という理由を。
しかしそれの何が悪いというのだろう?その恋が偽りでも、心に生じた激しい鼓動は真実だ。この思いは本物だ。この世界が胡蝶の夢であることを誰も否定できないのだとしたら、ここにある私の心だけが本当だ。
慟哭する佐薙を高坂は抱きとめる。そこにある2人の関係だけがすべてだ。あとは何も必要ない。2人が2人である限り、例え世界が滅んでもその恋は終わらない。だから最後、高坂と佐薙は再び出会ったのだし、2人の世界は続いていく。
そういう話だったっけ…………?よくわからなくなってきた。もう一度原作読んできますね…………。とにかく、映像の力や主演のお二人の演技の力もあって、常にスクリーンから目が離せませんでした。
映画の綺麗で眩しいラストも好きなんだけど、原作の静かな終わりも好きなんですよね…………。
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