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映画「きっと、うまくいく」感想


映画「きっと、うまくいく」を見ました。
映画をたくさん見る人間でもないし、インド映画は初めてだったのですが、とても面白かったので覚えているうちに感想を書こうと思いました。
ネタバレ注意です。


ランチョーについて

劇中において、主要人物3人のうち、ファルハーンとラージューは共に大学において苦悩を抱える訳だが、同じような状況にありつつもそれを苦としないランチョーが対照的だった。
主人公の一人でありつつ、友人を導くメンター的な役割も担っている。

というか、学歴社会における悩みの一つである「成績」という点においては、ランチョーは別に問題を抱えているわけではない。
物語の途中でわかることだが、型破りな言動と裏腹に首席となる優秀さを兼ね備えている。

となると、ランチョーが課せられている社会的な課題は「身分の低い人間に学ぶ機会は等しく与えられるか?」みたいなところになるのだろうか?
でも幸運にもランチョーは教育の機会に恵まれていた訳で(学位を得ることが策謀のうちだったとしても)、むしろそのテーマはミリくん(学校内で働いていた青年)に当て嵌まるように思う。
お金がなくても制服が有れば潜り込める、というランチョーの実践を教授されたのもそうだし、(これまたミリくんにとっては幸運なことに?)作中の最後ではランチョーの学校に迎え入れられて(メタ的に言えば、未来の時系列で再会する相手を増やすような意味合いもあったかもしれないが)、身分を理由に学ぶ機会を損なうということはなかった訳だ。

でもまあ、そこはあんまりメインの問題として扱われてはいなくて、ランチョーにとって壁として描かれていたのはやはり学長だと思う。
成績に拘らなくてもいい、断絶を嫌うランチョーに対して、エンジニアとして良い成績を収めることを第一に掲げ、成績で序列と優劣をつける学長は対照的であり、常に反発していた。
実学と形式の衝突とでも言うのか、両者の対立は、結構色々な物語でも描かれているし、現代日本でも共感の多い構図かもしれない。
意味のない形式的な作業を押し付けられて、反発を覚えた経験がないという人は少ないと思う。
自分はそういうことがあっても主張せず歯噛みしながら耐えて形式的な儀礼に殉じてしまうことが多いけれど、そこに躊躇なく立ち向かっていくのがランチョーだ。その姿に、疲れた社会人たる我々(というか僕)は救いの光を見るのである。

ファルハーンについて

ファルハーンの抱える問題は、成功することへの期待と、自分の夢との葛藤。
その期待は社会的な圧力と、それに伴う親からのプレッシャーであった訳だが、この2つを分離して解決に持っていくのがとても素晴らしいなと思った。
ひとえに親を立ち向かうべき壁としてのみ描くのではなくて、最終的に納得し理解しあう方向に進むことが、本質的な問題の解消に繋がっている気がしてとても気持ちが良い。
異なる価値観でどちらが正しいのかという単純な二項対立ではない、相互理解と共存の道筋を見出すことができる。

相互理解といえば、少し話は戻ってランチョーと学長の対立の話になるが、最後の方の和解のシーンで学長が「間違いもあるんだ」とランチョーに向けて諭す場面がある。
これは負け惜しみでもなんでもなく、ランチョーの価値観では拾いきれない世界もあるという事実、というか現実を提示しているのだと思う。
学長が人生の先を生きる者として、そしてランチョーのことを認めたからこそ告げる教えであって、ここからもランチョーの考えかただけが正しいものではない、という表現が読み取れる。誰だって知らないことはある、ということ。

そこに思いを馳せる想像力。
自分とは違う誰かを否定しないこと。
それが多様性とかを考えていく上で必要なのかなとも個人的には思う。
映画の主題とはズレるけど。

理想ではあるのだろうけれど、自分とは違う誰かを理解した上で、互いに納得して進めるのなら、それは最上なのかなとか思ってしまう。

人間のキャパシティには限界があるから、必ずしも他人を理解しなければいけない訳ではないけれど。
でもそれで切り捨てるものに対して無自覚であることが、ときに誰かを傷つけたり追い詰めたりすることもありうる(作中では学長が顕著に当てはまるか)というのは心に留めておかなければならないのかなと思う。

ラージューについて

3人でバカなことをやって、それが直接的な原因となって学長から自分か友人かどちらが退学するのかの選択を迫られ、身を投げたラージュー。
ここで問題なのは自分の行いである訳だが、だからこそ根が深い問題とも言える。

ラージューの成績が奮わないのは、まじないに縋らざるを得ない心配性からくるものだとランチョーは指摘する。
しかし、この要因は、ファルハーンにとっての社会や家族といった外的な環境から来るものではなく、自身の内面に由来する物であるというのが性質が悪い。
性質が悪いと言っても、別に自己責任の問題と言いたい訳ではなく、生来の性分といったおよそ自分の存在と不可分な箇所が原因で人生がうまく立ち行かないのだ、と指摘されたとして、一体どうすれば良いというのだろう?

どうしようもないと思う。
どうしようもなかったからこそ、ラージューは身を投げる選択を取ったのだとも言える。

ラージューを救ったのは、一緒にバカなことをやった友人だった。
彼らが自分を救おうとする懸命な行動と思いを知ったからこそラージューは、まじないに頼らない自分の芯を手に入れたのだと思う。
友人たちの思いを裏切らない自分であるための強さを確立することができたのだと思う。

そういう意味では、ラージューは一人では救われなかったのかもしれない。
ファルハーンの背中を押したのがランチョーとラージューであったように。

彼らと出会わなかったラージューはどうなっていたのだろうか。
大学でバカなことをすることはなかったのかもしれない。まじないに心を凭れかけながら、低めの成績で何とか卒業して、強い心配性と付き合いながらもエンジニアとして生きていたかもしれない。

彼らと出会ったラージューの人生がどう違うのかと言えば、きっとそれは形式的な「成績」に振り回されることから抜け出したということなのだろうと思う(ランチョーの哲学が一貫してそうであるように、ラージューもファルハーンも、その哲学に奉じることを選んだ)。
まず優秀であること。
成績は後からついてくる。

ではその優秀さとは?この言葉が出てきた場面では、表面的な知識ではなく本質的な理解こそ身につけるべき、と言った意味だった(この考えはそれなりに人口に膾炙するものだと思う)。

大事なのは本質であること。
本質というものがそれにとって欠かせない大切なものを指すのであればトートロジーでしかない言葉ではあるが、種々の要素が絡み合い複雑さに塗れた社会の中で、大事なものが見えにくくなっている状況においては、自分にとって本当に大切なものは何であるのかを、贅肉を削ぎ落として考える必要がある。

ファルハーンにとって、それは自分の夢だっただろう。
ラージューとっては、まじないに頼らないでいられる強い心だろうか(ここは明確には読み取れなかった。これじゃないかという考察がある人は教えていただけると喜びます)。

何が正解という訳でもない、自分にとってのそれを、ファルハーンもラージューも、ランチョーと出会ったことで、かけがえのない友人と出会ったことで手に入れることができたのだと思う。

ミュージカルの生む効果

少し話は変わるけれど、作中でも何度かあったミュージカル演出というか、挿入歌が流れるシーンについて。

自分はあまり映画を見ないし、インド映画を見るのは初めてではあったけれど、何となく「インド映画、踊りがち」みたいなイメージは持っていた。
その例に準じるものであるのかどうかはわからないが、この映画の中でも音楽が流れて踊る演出は複数回あって、それがとても良かった。
劇中の展開や登場人物の感情を、メロディと歌詞に乗せることで婉曲的かつ効果的に、見る側に伝えることができる。
直接台詞に起こすには難しいようなスケールの大きな表現も、歌詞に乗せることで自然に入ってくる。
ダンスは、まだよくわからないけど、でも見てて楽しい。

ディズニーの映画とかにもミュージカル演出はあるし、僕がよく見る日本の深夜アニメにも効果的な演出として時折見かける。
そういう演出好きです。

全体を通して

とても面白かったし、アイテムやワードの再利用の仕方が非常に巧みで気持ちいい。
3時間という長丁場であったけれど、ずっとのめり込んで見ることができた。

この物語はハッピーエンドだと思う。
自分が最近、新海誠作品(『秒速5センチメートル』とか)を見返していたので、ちゃんと幸福な終わりに辿り着くことが喜ばしくもあり、一方で「本当に現実は『うまくいく』のだろうか?」と違和感を覚える自分がいない訳ではなかった。
人生に別れはつきものだけれど、別にそれを映画の中で結末として描かなければならないという訳ではないし。
映画のテーマは「きっと、うまくいく」なのだから、終わりはハッピーエンドで然るべきなわけだ。

というか「きっと、うまくいく」という言葉が指すものは、「世界はなんとなくうまく回るだろう」という全面的な楽観という訳ではない。
はじめの方でランチョーが言っていたように、臆病な心を麻痺させて、困難を乗り越える勇気を出すための言葉なのだ。
「世界はそう簡単にはうまく回らないけれど、それでもうまくいくと唱えれば、きっとうまくいく」、そんな意味を持った言葉なのだろうと思っている。
ある種の諦念と言ってしまえば、そうなのかもしれない。
けれど、現実にはうまくいかないこともあると受け入れた上で、そこで膝をついてしまうのではなく、前を向くための言葉は、何かを諦めてしまった心にじんわりと沁みてくる。

ハッピーエンドとは言ったものの、終わりが良ければの代わりという訳ではないけれど、作中においてメインで描かれた格差社会は十分にヘビーで切実だし、勿論インド特有の問題でもなく自分の身の回りにも容易に重ねられる普遍的なテーマに感じる(なんか映画の紹介文のところとか見たらそんなことが書いてあった)。
そういった重い現実を乗り越えてたどり着いたハッピーエンドな訳だから、やはり感慨深いというか、心地よい終わりを覚える。

最後の再会シーンがコメディっぽくなっているのがとても良い……。
映画を見終わった後を笑顔で生きていける勇気をくれるので、とても大好きです。

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