日記:最近見た映画など

今年ももう終わってしまいそうなので、振り返りのようなものをしたいと思いつつも、どうやらそれをするための時間がなさそうなので、せめて最近(ここ1ヶ月くらい)見た映画や読んだ本の感想だけでもまとめておこうと思います。マストバイとかベストテンとかまとめてる人すごすぎる。





サマーゴースト

イラストレーターとしてのみならず、数々のジャンルで活動の幅を広げるloundrawさんが監督した短編作品。制作はloundrawさんが自ら立ち上げたアニメーションスタジオであるFLAT STUDIO。脚本を担当したのは安達寛高(乙一)さん。

短編でありながら(あるいはそうであるが故に)1つのテーマに対する抜き身の鋭さを感じる。青春における夏のボーイミーツガールという概念は、もはや存在しない憧憬となって多くの人の心の中に存在しているのだと思うが、そこに自らの存在理由に対する問いが重ねられることで、普遍的な生と死に対する探求が巧みに表現されていたように思う。

題名にも掲げれられている通り、この作品には幽霊が登場する。そこに触れることはすなわち「死とは何か」を問いかけることにつながる。どんな人生も、そこに込められた思いも時間も、すべて無へと帰す死の喪失。死を意識したときに人はどのように向き合えばよいのか。失われたものに対して残された人はどう生きていくのか。死、すなわち生のたどり着く場所について考える営みは、この上なく生の理由を問うものに他ならない。

アニメーションでしか描けない、世界の空気感や心象風景を見事に取り込んだ画面が、生と死を問う作品のテーマと見事に融合しており、美しく切実な物語になっていると思いました。「夏」も「幽霊」も、通底するテーマもとても好きな作品です。




きのう何食べた?

『大奥』などで知られるよしながふみさんの漫画を原作としたドラマ、その劇場版。私はこの作品のことをごく最近まで寡聞にして知らなかったのだけれど、どうやらテレビシリーズが放送されたときから話題になっていたようで、映画を見終わった後に聞いてみると自分の周りにもドラマを見ていたという人が何人かいた。知人の薦めがなければ触れることができなかったし、それは本当に幸運な巡りあわせだったように思う。

『きのう何食べた?』というタイトルから、いわゆるアニメにおける「日常系」のような、そんな暖かい内容を想像していた。この作品が「日常」を描いていることは間違いないのだが、その描写は決して暖かいものだけではない。周囲から向けられる視線や、どこかに大きな溝がある両親との距離感など、人生に横たわる苦しみも全部あわせて「生活」として描かれていく。

人生は合理的なだけでは進んでいかない。それは、社会というものが人間の接触を避けられない形で構築されているからであり、そして人間が感情によって左右される非合理的な側面を無視できない存在である限り、理屈ではどうにもできないものがどうしても立ちはだかる。資本主義の発展が金銭を媒介に経済活動を無機質化していったとはいえ、距離が近づけば近づくほど相手の感情が影響する度合いは増していく(ちなみに、そういう意味で合理を貫いていたのは美容室の新人である田淵だったように思う。理屈の上での正しさを貫くのはとても難しいことのように思うし、だからこそ劇場版の彼の言動は作中の反応と同様に格好いいものに映った)。

人は感情を覆い隠す。それは他人に対してもそうだし、自分の心の声に対してすら無意識のうちに蓋をするということは少なくない。しかしそれらは消えるわけではなく心の中にずっと堆積していき、いつしか自らの表面上の振る舞いとの矛盾に耐えきれなくなったとき、決壊してあふれ出す。そうならないようにできれば1番よいし、決壊しても修復することができるのならそれで構わない(以前より強固に修復されることもある)。だが、その矛盾がはじめからどうしようもなく存在していて、解決することなどできない事象もこの世にはある。わかりあえない溝を抱えたまま、人生は続く。

誰もがそんな矛盾を抱えている。それが生活であり人生だからだ。そんな中で、作品に描かれる食卓の団欒や、ふと覗かせる他者の優しさが、心に沁みて暖かさを覚えさせる。苦悩と幸福を繰り返していくことが生きることであって、その幸福を手に入れるための営みが繊細な心理描写とともに巧みに描かれていて、テレビシリーズに続いて非常に素晴らしい作品だなと感じました。




劇場版 呪術廻戦 0

アニメも放送された、週刊少年ジャンプで連載中の漫画『呪術廻戦』の前日譚、『呪術廻戦 0 東京都立呪術高等専門学校』を映画化した作品。この前日譚は少し特殊な位置づけで、ジャンプで連載される前にジャンプGIGAという増刊に全4回にわたり掲載された作品となっている。ジャンプでは、読切の形で掲載されたものをアップデートして連載する、ということはよく見られるのだが、最初から前日譚として連載前に発表されるということは非常に珍しいことのように思う。

そのような経緯からか、連載中の本編で語られるような事象が前日譚では語られなかったりするのだが、今回の劇場版は本編の内容も取り込みつつ内容にアップデートが図られている。なので原作を読んでいた身からするとかなり嬉しかった。作中の戦闘シーンもテレビシリーズに続いて圧倒的な迫力で描かれており、前日譚ながらかなりとんでもないことが巻き起こっていたということを改めて実感する。

乙骨先輩強すぎる。

ミゲル強すぎる。



AKIRA

もう終わってしまったようですが、大友克洋全集刊行記念で無料配信されていたので、いつか見たいと思っていた作品だったのもあって見ました。

1988年公開ということに改めて驚く。今まで自分が見てきた作品の源流のようなエッセンスを随所に感じ、改めてエポックメイキングな作品だったのだなと思う。

サイバーパンク的な世界観というか、1つの未来像として描かれる光景は、憧れのような好奇心を惹起させられる。清潔でクリーンなイメージの理想的な未来図ではなく、現実と地続きな側面を多分に含んでおり、そこに未来的な要素が加わることで世界観としての重みが増しているように思う。決して誰もが幸福なわけではないのだろうが、しかし力を持つ者は自由である世界。その中を熱く駆け抜けていく金田の姿は、とても魅力的に映る。

どうやら漫画版は違う展開であるらしい。全集、気になる……。



フラ・フラダンス

進路に悩む夏凪なつなぎ日羽ひわは、半ば衝動的に姉と同じフラダンスへの道を選択する。ダンスを専門的に学んだことがない中で苦悩しながらも、同期入社の面々とともに仕事であるフラに向き合っていく。

舞台は福島県いわき市にあるスパリゾートハワイアンズ。「東北のハワイ」とも称されるレジャー施設のステージを華やかに飾るのは、スパリゾートハワイアンズ・ダンシングチーム。フラを仕事として踊る人たちである。

仕事は人生と切り離すことができない。生きていくためにはその糧を稼がなければならないし、日常の多くの時間を占める仕事の存在は、自らの心と分かち難く結びついている。そして仕事である以上、高いクオリティを求められる。それがプロであるということだからだ。

プロ意識というものは本当に難しい。ある一定のラインがあり、それを越えることの保証が仕事として求められる。だが、多くの仕事は明確な評価を下すことが難しい。もちろん数字には表れる。売上だったり利益だったり、ステージに立つような職種であれば動員数だったりアンケートの評価だったり。でもそれは他の要因によっても左右されることであるし、何より新卒としてこれから成長することを見込まれているうちは努力が数字になかなか表れてこない。「自分はこの仕事に向いていないのではないか」という疑念を完全に振り払うことは困難だ。誰もが就いている仕事というものを、続けていくことは本当に難しいものだと思う。

「仕事にどう向き合うのか」という落としどころは自分で見つける必要がある。自分を納得させる必要がある。それはどのような形であってもかまわない。給与が高いから続けるでもいいし、好きな仕事だからでもいい。お客様の笑顔が何よりの報酬だということもある。それらの理由は他者から与えられるものではない。自分で見つけるほかない。

もちろん、人生は仕事だけではない。家族や友人、趣味といった領域と絡み合い相互に影響を及ぼしながら、生活という時間を形作っている。それぞれの領域で葛藤があり、それをなんとか乗り越えたとき、視界は少しだけ開けるような気がする。そして世界は自分だけではない。仕事の同僚や先輩後輩、学生時代の友人、家族、誰もにそれぞれの人生があり、それらが交錯する。同じステージに立つ仲間にも葛藤や決意があり、それぞれのステージに立つ理由がある。仲間の悩みを一緒になって考えたり、喜びを分かちあったりして、そうやって人生は続く。どこかで区切りを迎え、歩む道がわかれることになっても、その先で続いていく。決してそれまでのことがなかったことにはならない。

この作品には人生そのものへの賛歌が鳴り響いていて、極めて普遍的に届くエールが込められているように感じました。この映画を見ることができてよかったです。



グリーンブック

実話をもとにした映画。1962年、黒人差別の色濃いアメリカ南部へのコンサートツアーを実施した黒人ピアニストとその運転手を描いている。

日本にいると人種の違いを意識することは少ない。それでもたまに、違う人種の人を街中で見かけると、そちらに意識が向いてしまう。そのあと、それを意識してしまうほどに違いを飲み込むことができていない自分が嫌になる。

人は誰だって違いがある。人種だけではない。性別も、年齢も、話す言葉も、宗教も、育ってきた環境も、好き嫌いも、すべてが完全に同じ人などいない。

同時に、人は誰だって同じ存在である。自分も他人も変わらない、一人の同じ人間である。だからお互いに相手を尊重しなければならないし、そうすることで人は社会になっていく。

違うことも同じこともどちらも正しい。そしてこれらは矛盾するように思える。泳ぐことのできない人に対して「みんな泳いでいるから」と泳ぎを強制するのは、平等を貫いているともいえるかもしれない。だがこれがおおよそ間違っているように思われるのは、相手への尊重が欠けているからではないだろうか。要するに、人は誰しも違う。違うからこそ、その違いも含めて相手を尊重しなければならない。同じ人間だから尊重するのではない。「僕とアイツは立場も性格も全然違っていて、仲良くなんてなれそうにもない」としても、「それでもアイツのことを尊重しなければならない」。

それが理想だとしても、現実には違う誰かを排斥してしまうこともあるし、されることもある。世界を容易に変えることはできない。だから1つの答えとしては、違いが受け入れられない場所から距離を取ることである。自分という存在が受け入れてもらえる場所にずっといればいい。でもこれは、そういう場所がたくさんある人間の思考なのだと思う。取り巻く世界がすべて自らを異物として拒否するのだとしたらどう考えるだろう。

シャーリーはそんな世界を変えようとした。ピアニストとしてホワイトハウスで演奏するほどに評価を受ける彼ならば、ずっとその場所に留まっていればいい。だが彼はあえて差別が強い地域へのツアーを実施した。さっきまで演奏を聞いていた人間が自分を差別するのを、じっと耐えながら、彼は演奏を続けた。自分のために警官に暴力を振るったトニーに対して激高した。ただの差別への反抗ではない。自分の正義に悖る行いはしない。差別に耐えて耐えて耐えながら、8週間にわたって演奏を続けた。

だがシャーリーは、最後のコンサートで、黒人であると理由でレストランに入店を許されなった場所での演奏を拒んだ。それは差別に対する明確な反抗であった。

このコンサートツアーにおける「勝利」とは何だっただろうか。演奏を成功させたうえで、シャーリーが人種による差別を受けないことだったのだろうか。だとすればこのツアーの結果は「敗北」である。彼の演奏を聞いた富裕層は、その演奏に拍手こそすれ、彼を人間として扱うことは最後までなかったのだから。

しかし、ツアーを通して起きた変化は2つある。1つは、シャーリーが最後に演奏を拒んだこと。もう1つは、トニーが黒人の存在を受け入れるようになったこと。要するにシャーリーは、世界を変えたのだ。それがたった1人の存在であろうとも。そして、このツアーが黒人に対する差別を拭っていくことにまったく影響していないとは、言うことはできないように思う。傷つくとわかっている場所に踏み込んでいき、差別に毅然とした態度で立ち向かいつつも決して力に訴えることをよしとしなかったシャーリーの姿は、きっと見る者の多くを勇気づけたことだろう。


田辺聖子『ジョゼと虎と魚たち』より

映画ばかりが続いていましたが、少しだけ小説も読んでいました。とはいえ短編集の中のいくつかしか読めていないのだが……。この短編集を知ったのは、昨年公開された同名のアニメーション映画がきっかけである。実写版の映画もあり、どちらも素晴らしい作品ですので是非ともおすすめです。実写版は今ならAmazon Prime VideoでPrime見放題で配信されているようですので……。


お茶が熱くてのめません

シーンがずっと部屋の中から動かないにもかかわらず、心情が次第に変化していくグラデーションが丁寧に描かれていて、とても迫力があった。かつての恋人に対して「自分のことなんて知らない顔で幸せでいてほしい」と願うのは、決して相手のことを思う故ではなく、自分が選んだ相手なのだから相応の幸福を手にしていてほしいというある種のエゴイズムである。もう終わったことなのだから、せめて惨めに自分を頼ってくる姿なんて見たくなかった。

ほかの2編でも思ったが、とにかく心理描写が上手すぎる。誰もが抱えていながら無意識に沈んでいる感覚を描写として引っ張り上げるような表現が好きで、それは坂元裕二作品が好きな理由でもあるのだけれど、そこに似た感覚がある。さらに作中の2人の関係性から恋愛的な心の高鳴りやそれが失われていくカタルシスが非常に美しく綴られていて、すごい作家だなと思う。まだ短編集を読み切っていない段階でなんだけれども、他の作品も追ってみたい。


うすうす知ってた

周囲が結婚していって取り残されていくというのは、自分の境遇にも重ねることができるようで個人的に緊迫感を持ちながら読んでいた。自分でもわかっていながら夢見がちな心を捨てきれず、気付いたら現実は途方もないくらいに遠くに行ってしまっている。そこにあるのは諦念で、それは割と最初からわかっていたことでもあった。ただそれが明確な形を持って現れただけに過ぎない。知ってたよ、うすうす知ってた。知ってたからといって、どうにかできることでもないのだけれど。


恋の棺

読んだ3編の中では最もドラマチックで、それ故にこの関係が続かないことを示して放り投げるように終わるラストの後味が切なく響く。だがそれもむべなるかなというか、2人の関係性ははじめから健全ではなかったのだ(別にそれが悪いとは思わないけれど)。1つの思い出として、それは過去になっていく。棺のように。



おわりに

ここ1ヶ月は結構映画を見ていた気がする。これ以前にも11月は『恋する寄生虫』を見たり『アイの歌声を聴かせて』を見たり、数が大切なわけではないが自分としては満足感がある。翻って小説はあまり読めなかったので、いま読み進めているものも含めて来年は積極的に読んでいきたいと思う。

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