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映画「ミッドナイトスワン」 感想

映画を見終わった後、暫く色んな考えがぐるぐると身体を渦巻いていて、電子パンフレットを読んで、文化放送の特集を聞いて、電子書籍で小説を読んで、Spotifyで渋谷慶一郎さんの音楽を聞いて、それから少し落ち着いて自分の中の想いを纏めようと思いました。

纏まらなかったのでいくつかに分けて書き留めておきます。

以下の文章は作品の内容に多分に触れているので映画観賞前の方はネタバレ注意です。
あと、あまり結論のようなものはないです。ごめんなさい。






人は誰に言われて生きるのか

「頼んでない」
一果はそんな言葉を零す。

生まれ育つ環境は自分で決められない。裕福な家庭に生まれることも、貧困の中で育つことも、本人にその責は無い。ただ、その環境によって、享受する幸福や、背負う苦しみがあるのも事実だ。

与えられた場所が望まれたものではなかったとき、人は自分の運命を呪うしかないのか。

人は誰でも、産んでくれと頼んだわけじゃない。出生は本人の意思を決して伴うことなく、言ってしまえば暴力的に行われる。

凪沙も、一果も、同様に生まれ持ったものにより苦しむ。
そして、その苦しみが社会にとって少数であるならば、大多数の「一般人」からは目にもしない問題として隅に追いやられてしまう。

人は「違うこと」を恐れる。人と同じ苦しみでなければ、助けてもらえないからだ。
同じ苦しみを背負うから、同じ世界で助け合う。そんな交換条件を、いつしか当たり前のように押し付けられている。それが社会と呼ぶものだ。相互扶助のためのシステムだ。
大多数の人間を対象に構築されたシステムは、それと違う苦しみを拾い上げることをしない。セーフティーネットから零れ落ちてしまう人たちがいる。

結果、自分の苦しみに手を差し伸べてはもらえないのに、社会に生きるための義務だけが課されている。重荷だけが余計にのしかかる。

別に、頼まれて生きてるわけじゃない。
なのに、心臓は鼓動を刻み続けている。

それでも、生きていくしかないのなら。
人はどうすれば良いのだろう?


生きていくことに夢は必要か

一果はバレエに夢中になることで、前へ進もうと思うことができた。
凪沙は一果の夢を支えると決意し、いつしかそれが大きな目的になっていた。

人は未来を思うことで生きていける。夢を叶えたいと願うからこそ、今を生き抜こうと思える。生きるためには、希望の光が必要だ。

それを失ってしまうと、きっと惰性で存在を続けるか、もう全て終わらせてしまうしか無くなってしまう。バレエを失い、唯一の母との僅かなつながりも失ってしまったりん。一果を取り戻すことができず、母として夢を支えることができなくなってしまった凪沙。生きるべき未来を失ってしまえば、人は前へと進むことができない。

人には夢が必要だ。
でも、本当は、夢がなくても未来に希望をもって生きていられることが、もっと必要なのだと思う。日々の小さな幸せだとかを積み重ねて、ひっそりと生きていくことができれば素晴らしい。
けれど、日々を暗い絶望の中で生きる人にとって、叶えたい夢というものはかけがえのない光だ。未来へ進むための僅かな道標だ。
だから、人は夢を抱き続けなければならない。そうやって希望を持っていなければ、きっと前に進めなくなってしまうから。


夢を託すことと、その重み

人は、きっといつまでも自分の力で夢を追い続けることはできない。それがいつなのかは分からないが、限界が訪れる日がやってくる。それが訪れたとき、人は夢を託す。

りんの母は娘に、自分と同じバレエの夢を託した。
実花は、世界で活躍するバレエ選手という夢を、一果に託した。
凪沙は、一果がバレエの才能を開花させ、いつか羽ばたいていくという夢を託した。

中でも親が子に託す夢は、束縛にも似ている。凪沙の母は、子に男性らしさを求めた。早織は、一果が自分の近くで育っていくことを求めた。それらは子の思いとは反していた。

夢は受け継がれていく。親は子に夢を託す。別に親と同じ夢でなくても良い。子が夢を叶える姿を、親は新たな夢とする。

時にそれは重荷となる。親の期待に、子が応えられるとは限らない。期待を託される側は、それを裏切ってしまうのではないかという思考が付き纏う。自分が夢を諦めることは、託した人の夢もそこで終わってしまうことになるからだ。

夢を託すことが幸福な結末を導くわけでは決してない。託す側にとっても、託される側にとっても。


叶う夢と叶わない夢

生きるには夢が必要だ。だが、一体どんな夢なら、人は抱き続けられるのだろう?夢破れて絶望の暗闇に堕ちることなく生きていけるのだろう?

夢とは麻酔のようなものだ。夢を想うから、苦しみを乗り越えていける。ひとたび切れてしまえば、襲いくる現実に生身の自分で立ち向かわなくてはならない。

夢が叶わぬことで心が死んでいくのなら、叶えられる夢だけを見れば良い。

じゃあ、たった一つ抱いた夢が、叶えられることのない夢だったとき、人はどうやって生きていけば良いのだろうか?


夢が叶う場所は何処なのか

凪沙が幼い頃に抱いた夢。海で笑って遊ぶこと。
凪沙が一果と出会って抱いた夢。一果の母となること。
それらを叶えるためには、どうしようもできないほど多くの障壁が立ちはだかっていた。

人は夢を叶えるべきだと思う。そうでなければ、救われない。
誰もが夢を叶えられる世界であってほしい。これは祈りのようなものだ。そんな世界が、どうすれば訪れるのか分からない。だから、祈るほかない。

せめて、無力な自分にできることがあるのなら。
隣人の存在を尊重することが、祈る前にするべきことだ。
どうすればいいか分からなくても、考え続けることだ。


望むべく世界の形

少し、作品と話は逸れるかもしれない。

世界にはたくさんの人がいて、たくさんの夢がある。それらは時にぶつかり合う。できるだけ多くの夢が叶ってほしい、という透明な功利主義は、やがて少数の人の権利を駆逐するかもしれない。そうやって踏みつけてきた思いがあるのかもしれない。無知で無自覚のまま、苦しんでいる人がいることを見落としてきたのかもしれない。

自信を持っていうことができないから、曖昧な言い方になった。なんというか、「たくさん」の人のことを考える時、「それが量的であってはならない、質的な多様性に富んでいなければならない」ということに気を配る必要があると思ったのだ。でも、それが正しいのかどうかも分からない。

誰かの居場所を奪いたくはない。なぜか。自分の居場所が奪われないために。
誰かの夢が叶う世界なら、自分の夢が叶うのかもしれないと思うから。

だから、人は夢を叶えるべきだ。そういう世界であって欲しい。
人の夢を阻む世界であってはならない。それは取り除かなくてはならない。


理解と共感

一果は多分、凪沙が抱えてきた苦悩に対する理解や共感があった訳ではない。それでも、一果にとって凪沙は、かけがえのない存在であったし、凪沙にとって一果は、あらゆる努力を払っても守りたい存在であった。

凪沙の背負う苦しみ。一果の抱える障壁。それらは他人である自分には推し量ることこそできるかもしれないが、決して完全に理解することはできない。それは、同じような環境を自分が経験として知らないからだ。どう考えても恵まれた平和な環境の中で生きてきた自分にとって、本当の意味で分かることはないし、簡単に理解を示してしまうことは、してはならない。

ただ、理解することが本質ではない。それが唯一の救いではない。一果と凪沙の2人の形は、それを示している。




本当に素晴らしい作品でした。言葉にならない思いもたくさん胸の奥にあります。分からないこともたくさんあります。間違っている考えもあると思います。

だから、この作品のことを、彼女たちのことを、しばらく考え続けると思います。

頭の中で渋谷慶一郎さんの音楽が流れる。その旋律とともに、静かにあの情景を思い出す。
美しい白鳥を。
深夜に舞う、白鳥たちの姿を。

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