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ふり返ると、違う景色が

私がその昔学校で習った日本史は、古代から江戸時代までと、明治から第二次世界大戦までとに分かれていた。そして授業はなぜだか別々に古代と明治から始まって、時間が無くなって、江戸と第二次世界大戦くらいでそれぞれ終わり、私の頭の中では、それが繋がることなく、時は流れていった。

そういうわけで私は近現代史についての知識も興味もなく、映画も洋画好きだったので「邦画」の歴史ものを見る機会がなくて、肝心なところがすっぽりと抜け落ちていた。ところがひょんなことから結婚してしまった相手は、趣味が時刻表と系図という、これまた友達がいなさそうな人だった。

主に江戸時代の、藩主の家族の系図を、個人で勝手に調べて、自分でノートに書いていくのが楽しいらしく、時々「お墓に行ってくる」と他人のお墓にノートを持って出かけては、蚊に食われながら官位や名前や亡くなった年などを調べたりしていた。たまに私もカメラを持って付いていくことがあって、昔の殿様のお墓をしげしげと見ることになった。

ある時行った、島津氏の広大な墓所には、たくさんの石塔が並んでいたが、触ると倒れそうなものもあり、現に倒れているものもあった。これは誰のお墓だろうか、と名前を見てもよくわからないものがある。明治の廃仏毀釈の時に、戒名を削って、神道の諡(おくりな)に彫り直ししているようだった。

そういえば私の父が属していた鹿児島のお寺の門前には、二つの石像が立っていて、それは不動明王像だというが、顔もなく、ボコボコに壊れていた。なぜそんなものがそこに置いてあるのか見るたびに不思議だったが、それも廃仏毀釈が関係しているようだった。

鹿児島に古い建物が無いのは、空襲ですっかり焼かれてしまったからだ、とずっと思っていた。歴史上の人物を輩出した土地なので、関心をもって観光に来た人が「本物がなくて石像や標識しかないのね」というのを聞いたこともあった。

なんとなく気になって調べてみると、あまり知りたくなかった歴史の事実に突き当たった。そして「廃仏毀釈」が、あのアフガニスタンのバーミヤン大仏を爆破したタリバンさながらの暴挙だと知って驚いてしまった。

「仏教抹殺」(鵜飼秀徳著)という物騒な本を手にとったのはその頃だったと思う。「なぜ明治維新は寺院を破壊したのか」と副題がついている。浄土宗の住職にしてジャーナリストという著者によれば、明治政府が「神仏分離令」を出した時は、単に「神」と「仏」の分離というだけの法令で、寺院の破壊を命じたものではなかったそうだ。

しかし地域の為政者や民衆の中から、それを拡大解釈するものが現れて、徹底的に由緒ある文化財や寺院が破壊されていったという。実は明治以前の最も早い時期に廃仏毀釈が行われたのは水戸藩で、17世紀半ば、第二代水戸光圀の時に自堕落な寺院と認定された1,098箇寺(46%)を処分した。さらに第九代斉昭の時には、本格的な仏教排斥に入っていったという。

そうなってくると、仏教を信仰するようになって以来、ずっと拝んできた本尊や名のある仏師が彫った仏像が、焼かれたり、川に投げ捨てられるようになっていった。「藩主自らが率先して、自分の菩提寺を廃寺にしたり、鐘や仏像を溶かして偽金づくりに利用した」と、鹿児島国際大学名誉教授、中村明蔵氏が本の中で語っている。大河ドラマなどでは絶対に触れない「負の遺産」と言っていいだろう。

13年以上にわたって徹底して廃仏がおこなわれた鹿児島県では、藩内寺院1,066箇寺すべてが消え、2,964人の僧侶が還俗させられた。その結果、国宝級、重要文化財級の寺宝100以上が葬り去られた、と言われているそうだ。

この本の第八章には、さらにとんでもないことが書かれている。それは奈良、京都の文化財破壊だ。東大寺、法隆寺、薬師寺、西大寺、唐招提寺などの貴重な仏像が焼かれたり、国外に流出したという。興福寺の金堂は警察の屯所となり、冬場には暖を取るため、天平時代の千体仏など仏像を割り割いて火にくべたという。

私が一番不思議に思ったのは、人の考えと行動がこんなに簡単に180度変わるものなんだな、ということだった。本の最後に原因として「権力者の忖度」、「富国策のための寺院利用」、「熱しやすく冷めやすい日本人の民族性」、「僧侶の堕落」とある。

16世紀後半からはじまる「キリシタン禁制」と同じ時期に「一向宗(浄土真宗)禁制」が鹿児島では始まっていた。その弾圧は凄まじく、「隠れ念仏」を洞などで信心していることがわかると、拷問や打首などに処せられた。その時使われた大石が西本願寺鹿児島別院に残されている。

アウシュビッツを見るまでもなく、どこの国でもそういう暗い過去はある。まして長い歴史を背負ってきた国では、黒い歴史的記憶も、消したい過去もあるものだ。片目を閉じて見ないようにしていると、余計なところに力が入って、次第に目も重くなってくる。そっちに行ってはいけないと自分の心を律すると、自分の目の前いっぱいに立ちはだかっているものですら、「窓かな?」「よその家のドアかな?」と思うことにして、やり過ごし、気づかないふりをして生きていくようになる。

1876年に「信教の自由令」が出されると、浄土真宗が穴を埋めるように、進出してきた。古いお寺のない鹿児島では、寺院の墓地が無かったので、墓地団地のような公営墓地や私営墓地に亡くなった人を埋葬した。人々は墓に花を絶やさぬよう、熱心にお参りを続け、仏花の消費量は日本一といわれている。

人々は競うように花で墓を飾り立てる。それを見て、私は何か満たされない心の拠り所への想いのようなものを感じるが、いや、私の考えすぎなのだろうか。その墓ですら、少子化の影響を受けて、今や「墓じまい」が進行し、墓地に空き地が増えている。




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